第1話 後輩の田舎でも彼女と思われる
「着いた……のか?」
駅員すらいない寂れた駅の前で、色のくすんだボストンバッグを地面に下ろす。中学校の修学旅行以来使っておらず、消臭剤を使っても取れなかった、しまい込んだときの匂いがまだ残っている。
小さな待合室のような駅は、背後に鬱蒼とした高い木々が不安を煽るようだった。
嵐が来たら倒れそうな、そんな脆さがある。
「線路に山に小屋」
遠くには田んぼが見えて、俺の想像がする田舎がそのまま目の前に現れたようだった。
雫後輩の実家に行く。
そう聞いてはいたが、こうも都心から離れるとは思っていなかった。山奥というか、彼女の実家があるのがこうも田舎なのも予想外だ。垢抜けて見えるから、引っ越してきたといっても関東圏だと勝手な印象を持っていた。
俺とは違って疲れた様子のない雫後輩は、帰ってきた郷愁に浸っているのか山を見つめるように遠くを見ていた。
邪魔するのもよくないと感じる。
……感じるが、いまここで座り込みたいくらい疲れている。バス、電車、新幹線。地上を走る交通機関をこれでもかと使ってきたんだ。運動とは違う疲労感で足がパンパンだ。
「雫後輩、ここから家は近いの?」
「家は歩いたらー」
考えるように声が伸びて、
「30分くらい?」
「さんじゅっ」
出てきた答えに絶望する。
「30分って30分? 1秒が60個集まったのが1分で、1分が60個集まったのが1時間。その半分が30分だから30分?」
「そうだね、それだね」
「バスとかの移動手段は……?」
一縷の望みをかけて聞いたが、その返答は無常なものだった。
「バスはあるけど」
「なら!」
「さっき行ったばかりだろうから、1時間以上は待つかな」
交通機関が終わっている。
バスに1時間ってなに? 普通、1時間に数本は来るものじゃないの? 田舎のバスの本数が少ないというのは、昨今のサブカルチャーにおける影響の印象でしかなく、実際にはポンポンくるもんだったと思いたかったなぁ……。
後半に行くにつれて現実が重くのしかかって、代わりに俺はボストンバッグに顔を埋める。
「………………歩くか」
「歩かないよ」
諦めたのに、今度は否定された。
弄ばれてない?
長距離の移動で心が弱ってる俺は、込み上げてくる涙で瞼を濡らす。
「猫のバスでも来るの?」
「そんな絵本みたいな乗り物は来ないけど、迎えは来るよ。というか、来たね」
舗装された道の先に向かって、雫後輩が手を振り出す。
なにか来てるのかと思って顔を上げたら、こちらに走ってくるシルバーのワゴン車が見えた。その車はのろのろと俺たちの前まで走ってきて停止した。
「おばちゃん、久しぶり!」
運転席の窓が開いて、顔を出したのは人のよさそうなおばあさんだった。しわくちゃの手で雫後輩の手を握って、「元気にしてたかぃ?」と見た目通り柔和な声で尋ねていた。
雫後輩のおばあちゃん、か?
仲の良さそうなやり取りを遠巻きに見ていて、そう思った。
「元気だよ。おばちゃんも元気そうでよかった。腰は大丈夫? 救急車で運ばれたって電話貰ったときはびっくりしたよ」
「ありがとうね、心配してくれて。軽いギックリ腰で、痛みもないからもう平気よ」
「十分大変だから」
割って入れない空気に、どうしたものかと身の置き場に困っていると優しげな目がこっちを向いて緊張がせり上がってくる。
「そっちの子が電話で言っていた子かい?」
「うん、学校の先輩」
雫後輩に笑顔で振り向かれて、挨拶するならこのタイミングかと前に出る。
「しず、……雨下さんの先輩で、里波と言います。どうぞ、よろしくお願いします」
「あらあらご丁寧に、どうもね。田所です。よろしくねぇ」
ぺこぺこと頭を下げて、ん? となる。
田所? 雨下じゃなくて?
もしかして、母方の祖母なのかもと辻褄を合わせていると、「おばちゃん、お願い」と雫後輩は言って、車のドアを開けてそのまま乗り込んでしまう。
「華先輩も乗って」
「あ、あぁうん」
惑っていたが、雫後輩に促されて乗り込む。
車内は車特有の匂いと、微かにハッカにも似た香りがした。車のシートは傷ついて、補修なのかガムテープがとめられている。長年乗ってる車だと思わせた。
「出すわね」
車がのそりと走り出す。
70、80歳くらいのおばあさんの運転と聞くと、昨今のニュースのせいで不安になるが、鈍重なスピードとゆったりとしたハンドル捌きに事故っても怪我はなさそうだなと肩の力が抜ける。
隣に座った雫後輩が、心配と文句を綯い交ぜにしたように言う。
「無理して迎えに来なくてよかったんだよ? 3日前まで入院してたって言ってたのに」
「せっかく雫ちゃんが帰ってくるんだもの。迎えくらいしたいわ」
気兼ねないやり取りに微かな疎外感を抱くが、明るい雫後輩の横顔にふっと口元が緩む。
やっぱりおばあちゃんが好きなんだな。
邪魔したら悪い。
だから、窓の外に目を向けて、雫後輩の原風景を眺めていようと思ったのだが、
「ところで、華ちゃんは雫ちゃんの彼氏なのかぃ?」
流れ矢のような話題が急にこっちを向いて刺してくる。
親戚の集まりで、彼女ができただ結婚はまだなのかと訊かれた心境だ。まさか、こっちでも否定をしなくちゃならないのかと内心嘆息する。
車窓から目を離し、お喋り好きな田舎のおばあさんの会話に耳を傾ける。
◆◆◆
長い旅路を終えて、ようやく辿り着いたのは古民家だった。
古めかしく、日本の古い家というのがよく似合う佇まい。近くには庭もあるが雑草が生い茂っていて、廃墟と出かけた失礼な言葉を胃に押し込んで溶かす。
人、暮らしてる……んだよな?
近所の子どもが幽霊屋敷とでも呼びそうな雰囲気に臆していると、おばあさんが「困ったことがあったら呼んでね」と車を走らせてしまう。
それを呆然と見送って……え。
「雫後輩のおばあちゃんじゃないの?」
「え」
俺とは違う理由で、雫後輩が驚きの声を上げた。
「違うよ、隣のおばちゃん。帰るって言ったら、わざわざ迎えに来てくれたんだ」
「そう……なんだ?」
隣のおばちゃんが迎えに。
……そんなことある?
都心部で暮らしているとなかなか聞かない台詞だ。隣人の顔すら知らないのが普通で、話をすることすらまずない。
雫後輩がお蕎麦を持って引っ越しの挨拶をしようしていたのはこのせいだろうか。人と人との関わりが密な田舎特有の接し方。いいことなんだろうけど、それを都会に持ち込むのはやっぱり危険だよなぁと思う。
雫後輩が引っ越してきてはや2ヶ月。
さすがに都会の生活にも慣れてきたと思うが、さっきのやり取りを見たあとだと杞憂民になってしまいそうだ。
「華先輩、行こう」
言って、雫後輩が先を行って引き戸の玄関を無造作に開ける。
……鍵かかってないんかい。
不安ばかり増しながら、雫後輩の後ろを追いかける。
「その、今日は雫後輩の祖母はいるのか? 泊まらせてもらうなら、挨拶をしたいんだが」
「……うん」
振り返った雫後輩の顔は酷く寂しげな微笑みだった。
「いるよ」






