第2話 華という名前が嫌いだった
「ローズアーチ、好きなんだよ」
赤い薔薇で飾られているアーチ状の入口。
薔薇園の玄関ではどこでも似たようなものが見られるが、いつ見ても心を惹き寄せるものがある。
「それは、なんで?」
「不思議な世界への入口」
端的な説明だったけど、言わんとすることは伝わっているらしい。
「意外と乙女チックだ。童話好き?」
「……嗜む程度に」
薔薇のアーチをくぐるとワンダーランドに繋がっている――なんてことはないが、それでも似た高揚感はある。残念ながら俺は男で、アリスではないけれど、知らない世界に憧れる感覚は男女共通だと思っている。
「白い薔薇を赤に塗り替えないでね」
「青にするかー」
不可能の象徴。でも、今は存在する奇跡の薔薇。
諦めなければ夢は叶うのか。
そんなとりとめもないことをぼんやり考えながら、ローズアーチを歩いていく。
長い薔薇のトンネルが続く。
木漏れ日が差し込んでいるのが綺麗で、長く見ようと自然と歩幅が狭くなる。
「薔薇は好き?」
「うーん、どうかな」
雫後輩が少し屈んで、薔薇を眺める。
「綺麗だとは思うけど、好きかって訊かれるとわからない。薔薇もだけど、わたしにとって植物は綺麗とかじゃないんだよね」
「なに?」
「食料」
薔薇に手を伸ばしたので、慌ててぺしってはたき落とす。
「食べない、……よな?」
「食べないよ」
くすくす笑われる。
この子の場合、どこまでからかいなのか冗談なのかわからないんだよなぁ。今のも、とめなければ花びらの1枚くらい食べそうだったし。
疑っていると、立ち直した雫後輩が肩をすくめる。
「おばあちゃんの家庭菜園を手伝ってて、育てる植物って基本食べ物だったから」
「へー、なる…………ほど?」
だからって薔薇を食べるってなるか?
なにが“から”なのか。理由になってない。
「ローズヒップは食べるでしょ?」
「あれは普通、生で食べないからな?」
紅茶とか、ジャムとか、普通なにかしら加工する。
あれ? でも、食用にはなるのか。そうなると、あながち雫後輩の言っていることも間違ってないのかもしれない。人間、なんでも食べるからな。きのこにしろ魚にしろ、最初に食べようと思った人は偉大だが、変人だと思う。
それなら、薔薇を食べるくらい普通……?
「おい、俺の価値観が揺らいでるんだが?」
「わたしの価値観に染めてあげよう」
「俺が色を変えられるのかよ」
「白から赤に、ね?」
ペンキを塗るように髪をそっと撫でられる。
無邪気な触れ合いに体が固まる。向こうは照れた様子もなく、意識なんて欠片もしてないのに、こっちばかり意識しているのが無性に恥ずかしいし、憎たらしかった。
だからって、意識してほしいわけじゃないんだけど。
答えの出ないモヤモヤが、湯気のように胸を包んでいると、「華せんぱーい」とローズアーチの出口で雫後輩が大手を振っている。
「置いてくねー」
「そこは『早くしないと置いてっちゃうよ?』だろ」
確定で放置するな。
どこまでも当たり前から外してくる後輩だ。
◆◆◆
植物園内をぐるっと回ったあと、昼の時間を知らせたのはお腹の音だった。
パンフレットで園内に喫茶店があるのを知って、そこで昼食を取ることにした。店員さんに注文を済ませて、先に届いた飲み物を口にしながら、園内の感想を語り合う。
「薔薇、よかったなー。時期だけあって映える」
「綺麗だったね」
「そうなんだよ。ローズアーチのつる薔薇もだけど、かなり種類が多かった。モダンローズだけでも、ハイブリットティーとかフロリバンダとかいろんなのがあったし、それに庭園がなー、いいんだよなぁ」
「洋館の庭って、あんな感じなのかな?」
「そう。ここのは噴水を中心にしたフランス式庭園で、規模は小さかったけど全体で芸術品っていうか、空間丸ごと創られているっていうか。うちは実家もマンションだからガーデニングはできないけど、いつかはやってみたいなぁ」
「華先輩」
「なに?」
「饒舌だね、今日は」
「んぐっ」
笑顔で指摘されて、溜まっていた唾を呑み込む。
語り合うというには、一方的に話していただけだったらしい。物珍しくて頼んだローズカクテル(ノンアルコール)で動揺を抑えるが、雫後輩の子どもを見守るような微笑みが心拍数を上げる。
顔が熱いが、どうにか仕切り直そう。
「あぁ、うんまぁ、それだけ凄かったから」
「詳しいよね、花のこと」
咳き込みそうになったが、くるかもと思っていたからどうにか堪えられた。唾を飛ばさないように、ついでに感情を悟らせないように手で口を隠す。
「は、花屋で働いてれば、こんなものだろ?」とどうにか納得できる理由を動揺の中から絞り出す。実際、間違ってはいない。薔薇に種類があるのとかは、花屋でアルバイトをするようになってから知った。
だから、嘘ではないのだけど、雫後輩は納得してくれない。それもあるけど、と俺の理由を肯定しつつも、まだあるでしょ? とばかりに笑顔で追求してくる。
「楽しそうだなーって。好きなことを話してる、そんな雰囲気だった」
「……嫌いじゃないけど」
「ガーデニング、したいんだよね?」
トドメの一言に顔を覆った。
好きじゃないとやりたいなんて言わないよな、ガーデニングは。
花を植える穴ではなく、自分の墓穴を掘っていたらしい。あまりにも恥ずかしい。
「穴があったら埋まりたい」
「芽が出て花が咲くまで何日かかる?」
「……10年」
「土の中で枯れてるよ、それ」
もはや朽ちたい。
雫後輩がグラスを回す。赤いカクテルと一緒に氷が回り、涼しげな音が凛と響く。
「別にいいと思うよ? 花が好きで。うん、とっても素敵」
「……それもあるけど」
男が花なんて、とからかわれたこともある。
華なんて名前もあるから余計に。
けど、今、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい原因は別だ。
「オタク語りというか、無意識にべらべら喋ってたのが嫌なんだよ。一方的に好きなこと話すとか、鬱陶しいだろ?」
「わたしは好きだよ」
「……………………、あ、そう」
たった3文字の返答をするのに、随分と体力のいる台詞だった。
脈絡がないわけじゃないし、話の流れがあるから誤解はしないが、その端的すぎる言葉はわかっていても動揺を誘う。あれだ、んぐっとなる、んぐっと。
ニコニコ笑顔が直視できず、肘を突いて横を向く。恥ずかしがっているのを悟られるのはいまさら諦めたが、動揺の意味を知られるのはどうにかこうにか阻止したい。
なんともいえず面映ゆく、唇を結んで口を閉ざす。気まずさを伴う空気に押し黙っていると、「好きになった理由はあったの?」と雫後輩が尋ねてくる。
沈黙に耐えきれなくなったのかと思ったけど、正面を向いて見た彼女の表情は優しげな微笑みだった。
なんだか頭を撫でられてる気分で、ますます意固地になりたくなるけど、それこそ先輩としてどうなんだと思う。ため息を吐きつつ、素直に話すことにする。
「別に大した理由じゃないけど」
前置きする。
実際、大した話じゃない。
「俺、華って名前、嫌いだったんだよね」






