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好きだと、言って。  作者: 水樹ゆう
(Ⅰ)~忘れえぬ人~亜弓編
13/33

  【逢瀬】残酷な夢でも。-2


 ――もしかして、私は、まだ眠っていて、夢を見ているのかもしれない。

そうに違いない。じゃなきゃ、こんな状況、ありえないっ!

 あれよあれよと言う間に、話は進み。なぜか至極上機嫌の母に玄関から送り出された私は、なんと、伊藤君の車の助手席に鎮座していた。

 飾り気のない、でも、清潔な車内には微かな柑橘系の香りが広がり、鼻腔を優しくくすぐる。

『ああ、良い香り』、なんて感じる余裕のない私は、金縛り状態で体をこわばらせたまま、ただ助手席にポツネンと収まっていた。

 なに、何なの、この状態?

「じゃあ、どこに行こうか? 佐々木が行きたい所があれば、言ってくれ」

 運転席の高い位置から降ってくるテノールに、思わず背筋がゾクゾクしてしまう。 鼓動はやたら早いし、手にはじんわりと汗がしみ出してくる。 きっと、顔なんか真っ赤になっているはず。

 まともに顔を上げられない私は、膝の上でギュッと握りしめた自分の白くなった指先を見つめた。

 これはやっぱり、断るべきだったかも。

 仮にも、私にはプロポーズしてくれている彼氏がいるわけだし。伊藤君にも、ハルカって言うれっきとした彼女がいる。どう考えても、私と伊藤君が二人だけで『お出かけ』して良い道理がない。

 断るべきよ。

 心のどこかで、『良い子の私』が、そう囁く。

 でも、それはあまりに小さな声で、すぐにかき消されてしまった。

「え……と、お任せします」

「そうか。じゃあ、適当にドライブでもするか」

 そう言って、伊藤君は慣れた動作で、四輪駆動車をスタートさせた。


 あまりに突然のことだったから、周りを見る余裕がなかったけど。今日は、昨日の雨が嘘のように、澄み渡るような青空が広がっている。

 遠くの空には、モクモクとした入道雲が、まるで子供の落書きみたいに積み重なっていて、目の前に広がる青々とした田んぼでは、爽やかな夏の風に吹かれた稲穂が、実の入り始めた頭をユラユラと揺らしていた。

「良いお天気……」

 体の力がスウッと抜けて、素直な感想が口を突いて出る。

「ああ、本当に良い天気だ」

 優しく響く声に胸がいっぱいになって、思わず目を伏せた。

 今日だけ。

 今日、一日だけなら。

 きっと、神様も、よそ見してくれるよね?

 それが、どんなに自分勝手で都合の良い考えか、分かっているけど――。

「伊藤君。もし良ければ……」

「うん?」

「海が、見てみたいかな?」

「海か。そうだな、今日は海に行くには良い陽気だな――」

 見上げた伊藤君の横顔に、私だけに向けられる笑みが浮かぶ。

 たぶん、これは、夢。

 目が覚めれば、朝になれば、消えてしまう、儚い夢――。

 それでも。

 今だけでもいいから、この残酷でも、幸せな夢の中にいたかった。


 海水浴シーズンの浜辺は、ちょうど夏休み中ということもあって、大勢の人で賑わっていた。

 小さな子供がいる家族連れ。ペットを連れた人。友達どうし。

 そして、恋人達。

 サンサンと降りしきる真夏の太陽の下。少し強い海風に乗って、波の音に混じった楽しそうな笑い声が、あちこちから聞こえてくる。

 何度となく、想像してみたこんなワンシーン。

 抜けるような青空。白い、入道雲。

 どこまでも続く海原を渡る風に吹かれながら、『あなたと二人』で、こんなふうに波打ち際を歩くこと。

 一生、叶うことのない夢だと、そう思ってた。

「水着でも持ってくればよかったな」

 楽しそうに水と戯れる子供達に、伊藤君は穏やかな笑みを向ける。

 脳内を、伊藤君の海パン姿がグルグル周り、思わず顔に血が上る。

「そ、そうだねー」

 そ、それは、ちょっと刺激が強すぎます、伊藤君。

ただでさえ心臓バクバクなのに、そんなあられもない姿なんて、絶対直視できないよ。

 もう、鼻血ブーものです、はい。

 なんて、本音を言えるはずもない私は、思わず笑顔が引きつった。

 それにしても、どうして、思うように言葉が出ないのだろう?

 色々と、聞きたいこと話したいことは山ほどある、……はずなのに。いざこうして、その機会に直面すると、何も言葉が出てこない。

 何も言わずにこうして隣を歩く。伊藤君の気配を傍らに感じていられる、それだけで、もう胸がいっぱいになってしまう。

 それは甘酸っぱくて、切なくて、幸せな感覚。

 だけど、その一方で、拭うことが出来ない罪悪感が心の奥にわだかまっているのも確かだ。

 ――私は、自分の恋人を、友達を、裏切っている。

 その心の痛みは、消えてはくれない。

 伊藤君は、そんな気持ちになったりしないのだろうか?

 そろりと。彼の横顔を見上げると、それに気付いた伊藤君が「うん?」と、 首を傾げた。私に向けられる、真っ直ぐな黒い瞳には、なんの陰りも見つからない。

「あの、ね……」

「うん?」

「伊藤君は……」

 どういうつもりで、私を誘ったの?

 一番聞きたくて、そして聞きたくない質問が、出所を失って私の胸でグルグルと渦を巻く。

 そんなことを聞いて、どうするの?

 聞いたからって、何かが変わるとでもいうの?

 何も変わらない。

 伊藤君は、私の親友の彼氏。

 私は、伊藤君の彼女の親友。

 そのポジションが、変わることなんかありえないんだから。

 それに。そもそもが、特別深い意味なんか無いのかもしれないじゃない? たまたま久しぶりに会った同級生を誘って、ドライブに来た。それだけのこと。そう、それだけのことよ。

 自分に言い聞かせるように静かに目を閉じると、周りの賑やかな音が戻ってきた。心地よい海風が、アップダウンの激しい心の熱を奪って鎮めていく。

「佐々木、気分でも悪いのか?」

「あ、ううん、違う違う!」

 我知らず足が止まっていたようで、数歩先離れた所から、伊藤君の心配げな眼差しとセリフが降ってきて、ハッとした私は頭と右手ををブンブン振った。

 やめやめ!

 ぐだぐだ考えたって、なんになるの。

 そうよ。

 こんな機会、二度とないんだから。

 今は、この瞬間を、大切にしよう。

 密かな決意を胸に秘め、ニッコリと会心の笑みを浮かべる。

「私、お腹空いちゃった!」

 ただ遠くから見ているだけだった、『あの頃の私』は、もう居ない。

 本音と建て前を使い分ける。

 私だって、このくらいの芸当が出来るような『大人』になったのだ。




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