第171話「黒き諸刃の炎」
ルシウスの掌に、じわりと熱が滲む。次の瞬間、虚空から弓が顕れた——しかし、それは先ほど落とした武器とはまるで違う存在だった。
目を奪われる。思わず息を呑む。
この世界の酸素と反応して、咆哮を上げながら燃え盛る炎そのもの。オレンジと朱の境界が溶け合い、青白い芯が脈打つたび、周囲の空気が震えた。その熱気が頬を撫でるだけで、ルシウスの肌は針で刺されるような痛みを感じる。美しい。恐ろしいほどに。
「はぁっ———!」
ルキウスの声が、張り詰めた空気を裂いた。
腰を深く沈め、拳に力を込める兄の姿が視界に映る。後ろに引かれた腕の筋肉が、弦のように張り詰めている。地を蹴る音。突貫してくる兄の眼差しには、容赦のかけらもない。
心臓が跳ねる。喉の奥が乾く。
「ふっ!」
風を裂く音が耳朶を打つ。空気が悲鳴を上げている。手加減をしていないことは、その音色が物語っていた。拳が迫る。視界いっぱいに広がる兄の殺気。
ルシウスは千里眼で軌道を読み、身体を捻る。炎の弓を剣のように振るった瞬間、空気が焦げる音がした。鼻腔を焦げた匂いが突く。
「……ほう?」
兄の声に、余裕と愉悦が混じる。
まるで全てを予見していたかのように、ルキウスは攻撃を避けながら身体を回転させた。後ろ回し蹴りが、空気を巻き込みながら弟の腹部へと迫る。しかしルシウスは、放出している炎のマナで防御し、左手を突き出した。
「烈火!」
目に見えない熱波が、津波のようにルシウスの全身を飲み込んだ。
肌が焼ける。露出していた腕、首筋、顔の全てに、熱した鉄板に触れたような鋭い痛みが走った。喉の奥がカラカラに渇く。唾液さえも蒸発したかのようだ。身体が勝手に後方へと吹き飛ばされる。地面を転がる背中に、小石が食い込んで痛い。
しかし、心はもっと痛かった。
「ルシウス、俺は手加減をするなと言ったはずだ!」
兄の怒声が、胸を突き刺す。褒められると思っていた。少しは認めてもらえると。でも違った。放った烈火のマナの質量——瞬間的に理解したのだろう。兄は怒っている。失望している。
喉の奥が詰まる。悔しさが込み上げる。
怒りから放たれる力が弱々しいはずがない。感情の力を誰よりも理解しているルキウスだからこそ、その欺瞞を見抜いたのだ。弟への期待の裏返し。その重さが、ルシウスの心臓を締めつける。
「ククク……」
乾いた笑いが、自分の喉から漏れた。
口角を上げる。炎の弓を構える。揺らめく矢が、音を立てて顕現していく。その一本一本が、自分の怒りの結晶だ。もう迷わない。全てを燃やそう。
「轟烈炎火!」
放たれた矢は、でたらめな方向へと飛んでいった——しかし。
ルキウスの舌打ちが響く。その表情が驚愕に染まる。
たった一本だったはずの矢が、時を刻むごとに二本、四本、十本と増殖していく。と爆ぜる音が無数に重なり合い、耳が痛くなる。周辺の酸素を貪欲に取り込みながら軌道を変え、時差攻撃で迫ってくる炎の雨。千にまで膨れ上がった矢の群れが、天を焦がしながら降り注ぐ。
眩しい。熱い。空気が震えている。
「いいぞ、そのまま来い!」
兄の咆哮が、戦場に響き渡った。
手を抜いていないと理解したルキウスの表情に、戦士の笑みが浮かぶ。地面を殴りつける。
轟音とともに、衝撃波が放射状に広がり、矢の雨の速度を緩めた。
だが、ルシウスはそれを見越していた。
空中へ跳躍し、今度は二矢を放つ。二千にまで増殖した矢が、酸素を吸い込みながら、重低音を奏でて降り注いでいく。まるで天から降る火山灰のように。いや、それ以上の殺意を孕んで。
ルキウスは全てを殴り、蹴り、叩き落としていく。
その拳が矢に触れるたび、小気味良い破裂音。汗が滝のように流れ落ちる。シャツが肌に張りつき、不快な湿り気が全身を包む。それでも兄は笑っていた。
「はっ、滾らせてくれるな!」
空中へと跳躍したルキウスは、自ら炎の矢の雨へと飛び込んでいく。
傍目には自殺行為。狂気の沙汰。しかしルシウスには見えた——兄の瞳が、全ての軌道を捉えている。わずかな隙間を縫うように、蛇のようにしなやかに身体を捻り、掻い潜っていく様が。
心が震える。これが本物の戦士。これが兄。
「甘いっ!」
ルシウスの吠えるような声が響いた瞬間、矢たちが方向を変えた。下から、横から、あらゆる角度から襲いかかる。しかし兄は熱源探知で地上へ瞬間移動し、悠然と空を見上げている。
空中で静止しているルキウスを、360度取り囲む三千本の炎の矢。
それは、まるで死刑執行を待つ囚人のようだった。でもルシウスには分かる——兄は、微塵も恐れていない。
地上から見上げる兄が、不敵に嗤った。指を鳴らす。
その音が、引き金だった。
「気炎爆裂……」
地上と空中から放たれた三千本の矢が、一斉に赤く発光する。溜まりに溜まった熱量が解放される瞬間——
世界が真っ白になった。
轟音が鼓膜を突き破りそうなほど響き渡る。膨張速度が音速を超える爆発。熱風が全身を叩く。目を開けていられない。呼吸ができない。肺の中の空気が一瞬で沸騰したかのような錯覚。
ルシウスの心臓が、恐怖で凍りつく。
「……っ!」
兄の余裕が、初めて断ち切られた。
熱源探知で後方へ瞬間移動した直後——黒煙が立ち昇る空中から、凄まじい速度でルキウスが地面を抉りながら着地した。**ズガガガガッ**という地響き。土煙が舞い上がる。
「よぉ、勝った気でいたかルシウス」
数十キロに及ぶ甚大な被害をもたらした爆発にも関わらず、兄は五体満足で嗤っていた。傷一つない。千里眼でどれだけ凝視しても、かすり傷すら見つけられない。
喉が詰まる。手が震える。
「馬鹿なっ!?」
「さあ、俺を傷つけてみろ!お前の自慢のマナでな!」
挑発的な言葉に、血が沸騰する。次は俺の番だと言わんばかりに迫ってくる兄。巨大な弓を顕現させ、歪んだ笑みを浮かべながら薙ぎ払うように振るってきた。
「くっ……!?」
間一髪、身体を逸らす。その瞬間、空を見上げたルシウスの瞳が、信じられないものを捉えた。
太陽の真下に弓を向けているルキウス——では、今弓を振るってきたのは?
思考する暇もない。真上から矢が迫る。咄嗟に真下から撃ち返す。
天空と地上から放たれた矢が中間地点で激突し、衝撃波が生まれる。空気が爆ぜる。耳鳴りがする。
「千里眼は抜けているところがあるらしい!」
衝撃波に乗って、ルキウスが突撃してくる。不気味なほどに笑みを絶やさない兄が、巨大な弓を軽々と振るいながら、ルシウスの炎の矢に一撃をぶつけた。
「……っ!」
その重い一撃を、全身で受け止める。
腕が痺れる。骨が軋む音が聞こえる。両脚の下の大地が抉れ、十数センチも後退しながら砂塵を巻き上げる。電撃を浴びたような痺れが全身を駆け巡る。でも、瞳だけはしっかりと兄を捉えている。負けるわけにはいかない。
「くっ———!」
上空のルキウスを薙ぎ払うように弓を振るい、跳躍する。マナを宿した矢を連射しながら、前方へと身を降ろそうとする兄を追撃する。
(このままでは埒が明かない)
心の中で、冷静な自分が囁く。
(俺がまだ"怒り"の力を使いこなせていないのもある。でも、長引かせるわけにはいかない)
紅獅子を倒さなければ。あの火の概念を手に入れなければ。自分の願いは叶わない。心臓が痛む。喉が渇く。全身が熱い。
「なら、俺は俺自身の怒りをも、この炎で燃やそう!」
体内に宿る炎のマナを、全て解放する。
「ふ、今のお前の全てを俺にぶつけてこい! ルシウスっ!」
兄の声援が、背中を押してくれる。
この世界、この場所の全ての酸素が、ルシウスの体の外側の炎に吸い込まれていく。
轟々と咆哮を上げながらも、不思議なことに大地の草木を燃やすことはない。足並みを強く踏みしめ、手に弓をぶら下げながら歩く。
自分が、炎の化身になった気がした。
聞き慣れた火の音がルキウスの耳に届いた瞬間、ルシウスの姿が消えた。
「……熱源探知かっ!」
背後を振り返るが、誰もいない。四方八方に視線を凝らし、鼻を利かせる。汗の匂い、焦げた匂い、土の匂い——でも、弟の気配がない。
心臓が早鐘を打つ。
「焔雨!」
地の底から、ルシウスの声が響いた。
視線を下に向ければ、地面が赤く膨れ上がっている。マグマのように。そして小さな円形の炎が、**ボコボコボコ**と次々に吐き出されていく。小さな矢の形をした炎の群れ。
「ほぉ……!」
心の底から、嬉しくなった。ルキウスは上空へ後退し、巨大な弓の弦を弾く。
「拡散しろっ!」
矢がマナのように拡散し、地上から噴き上がる炎の矢と衝突する。
無数の破裂音。それでも残った矢が飛んでくる。ルキウスは弓を軽々と振るい、一つ一つ叩き潰していく。
「裂火断!」
今度はルキウスの上方に陣取ったルシウスが、炎の矢を両手の五本指の隙間に装填する。それを剣の形へと変異させ、投擲した。
降下するたびに、周囲の気温が急上昇する。空気が歪む。肌が焼けるような熱気。ルキウスの全身から、滝のような汗が噴き出し、シャツを濡らしていく。塩辛い味が唇に滲む。
「いい案だが、まだぬるいぞ!」
でも、こんな苦境は何度も乗り越えてきた。だからこそ、この程度で倒れるはずがない。そう、自分に言い聞かせる。
「フッ……」
ルシウスの鼻で笑う声が聞こえた気がした。
そして——炎のマナが四方に分散し、ルシウスの分身を創り上げる。それらが兄を包囲し、全員が俯きながら手を大きく広げる。手から一筋の赤い光が伸び、線となって全員を繋いでいく。まるで結界を張るように。
心臓が嫌な予感を告げる。
「破炎・轟熱!」
やがてそれは一つの巨大な炎となり、球体へと変異しながら、ルキウスを起点として徐々に縮小、圧縮されていく。
「……っ!?」
ルキウスの表情が、初めて青ざめた。
それと同時に、全身の汗が一瞬で蒸発する音が聞こえた気がした。指先、足の爪先、額の微細な毛穴から、ルシウスの熱気が侵入してくる。ゆっくりと、確実に、身体の中の水分を蒸発させ、気化させていく。
喉がカラカラだ。舌が喉に張りつく。血液までもが、ドロドロに濁っていく感覚。
「くっ……!? 流石にこれは不味いか!」
言葉を発するだけで、脳天を殴られたような眩暈と、込み上げる吐き気が襲う。視界が揺れる。膝が震える。このままでは死ぬ。
円形の空間は、刻一刻と気温を上げていく。人の身体が悲鳴を上げても、容赦なく。
(仕方ない、本気を出すか……!)
ルキウスは瞳を閉じ、全神経を喉元に集中させた。
ルシウスが目を細め、その光景を凝視しようとした瞬間——
縮小していた円が、突如として膨大に膨れ上がり、亀裂を生じて瓦解した。
「なっ———!?」
驚愕に目を見開くルシウスの隙を、ルキウスは見逃さなかった。
「もらったぁ!」
一気に距離を詰め、弓を脳天に振り下ろしてルシウスを落下させる。弦を引き絞り、咆哮する。
「破っ!」
音速を越えた矢が、ルシウスの右肩を貫いた。
「ぐっ……!?」
熱い。痛い。いや——痛みが、ない?
右肩から指先まで、全ての感覚が消え去った。まるで腕が存在しないかのように。見上げれば、兄が自分の細剣を拾い上げ、喉元寸前に突きつけている。
勝負あった。
心が、空っぽになった。
「……ば、馬鹿な! 俺は、全てを燃やす覚悟で挑んだ! なぜ負けたんだ!?」
声が震える。涙が滲みそうになる。悔しい。悔しい。
「それは、お前自身がよく理解しているはずだ」
兄の穏やかな笑顔が、余計に胸に刺さる。差し伸べられた手を掴み、身体を起こす。右肩の矢を引き抜く。鈍い音。血が滴る。
「俺がまだ中途半端な覚醒をしたから?」
「そして油断だ」
兄の言葉が、心に染み込む。
「俺がさっきの状況を打開しても、次の一手を打っていれば勝負はわからなかった。全く、お前はまだまだ甘さが抜け落ちていないらしいな。今度はもっと厳しく仕込んでやらんと」
「ん……待って兄さん! 今度って———!?」
視線を向けた瞬間、兄の身体が半透明に薄まりかけていた。
心臓が止まりそうになる。いや、行かないで。
「どうやら夢から覚めるらしい。だがお前との再会、楽しいものになった。さっきも、危なかったしな」
「兄さん、俺はまだ紅獅子を倒せる自信がない! 怒りの力は理解できた、けどっ———!」
声が裏返る。必死に訴える。でも兄は、優しく、そして厳しい眼差しで言った。
「そんなだから、お前はレオンやクレイラの足元にも及ばないんだ」
その言葉が、胸を抉る。
「時には感情のままに身を委ねる、それはいずれどんな力にも勝る脅威となり得る。今の言葉をしっかりと身に刻んでおけ!」
「兄さん……!」
声が詰まる。涙が滲む。
「あとは、お前の想像力次第だ。さあ、リベンジに行ってこい!」
ルキウスがもう一度、再会した初めにした突きを、心臓めがけて打ち込んできた。
「ぐ……ぁっ!?」
消えかけていても、その力は変わらなかった。腹を押さえて倒れる。視界がぼやける。身体が透けていく。兄の姿が、遠のいていく。
「お前の中のマナは全て吐き出させたはずだ。あとは、お前の想像力次第」
兄の声が、遠くから聞こえる。
「だが、怒りの力は諸刃の剣だ、身を滅ぼさんように、慎重に使えよ」
その声が、最後の教えだった。
ルシウスの身体は完全に消えた。でも心には、兄の言葉が、熱く刻まれていた。




