第30話「発見の瞬間」
朝日が研究所の窓を照らし始めた頃、実優は新聞に目を落としていた。一面には大きく「薬害の原因究明と治療法確立―鷹見家研究所の功績―」の文字。記事には、昨日の会見の様子が詳しく記されている。特に治療法の有効性を示すデータや、快復者の声が大きく取り上げられていた。
記事を読みながら、実優は胸の内で複雑な感情を抱いていた。治療法の確立は喜ばしいことだが、これまでの犠牲を思うと、完全な安堵はまだ許されない。その思いが、実優の表情に微かな影を落としていた。
「実優様、朝のお茶をお持ちいたしました」
千代の声に、実優は静かに顔を上げた。
「ありがとうございます」
差し出された茶の香りには、いつもの安らぎがある。実優は、その温かさに少し肩の力を抜いた。記事の文面からは、まだ緊張が解けない。
「実優様、今朝も三件の快復報告が届いております」
久遠が、穏やかな声で報告する。その表情には、心からの安堵の色が浮かんでいた。
「良かった...」
実優の小さな呟きに、千代が優しく微笑んだ。
「春樹様が、研究室で実優様をお待ちです」
久遠の言葉に、実優は静かに立ち上がった。新たな発見があったのだろうか。その予感が、実優の心を僅かに揺らめかせた。
研究室に向かう途中、実優は思考を整理していた。これまでの研究で、慎一郎の能力についての疑問が少しずつ形を成してきていた。それは単なる「触れる者を病に陥れる力」ではないはずだ。もっと本質的な、そして可能性を秘めた何かが。
研究室では、春樹が机に向かって何かの記録を整理していた。実優が入室すると、彼は嬉しそうに顔を上げた。
「実優様、実は以前からの記録を整理していまして。慎一郎様の能力について、実優様の仮説を裏付けるような発見がありました」
「私の...仮説、ですか?」
「はい。実優様が『体内での変化を早める』という一つの能力ではないかとおっしゃっていた件です」
春樹は一連の記録を実優の前に広げた。
「これらの記録を見ていただけませんか?慎一郎様が過去に触れた方々の症例です」
実優は記録の山を前に、一瞬躊躇った。これらの記録には、慎一郎の能力による被害者たちの詳細な記録が含まれているはずだ。その重みを考えると、安易に手を伸ばすことができない。
「春樹様、少し...一人で見せていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。お好きなだけお時間を」
春樹が部屋を出ていくと、実優は静かに記録に向き合った。一枚一枚、丁寧に頁を繰っていく。そこには、慎一郎の能力によって病に陥った人々の症状が、克明に記されていた。
実優の指が、ある頁で止まる。見覚えのある名前。父と母の。その文字を見た瞬間、実優の視界が歪んだ。温かいものが頬を伝う。両親もまた、慎一郎の能力の犠牲者だったのだ。しかし、その事実が実優の心を引き裂くのは、慎一郎への怒りからではない。この記録を前に、彼がどれほどの重荷を背負ってきたのかを想像せずにはいられなかった。
涙を拭いながら、実優は記録を読み進めた。観察を重ねるうち, ある不思議な事実に気付き始める。既に病気を患っている人が触れられた場合、症状は悪化していないのだ。この発見は、慎一郎の能力の本質を理解する重要な手がかりになるかもしれない。
昼下がり近く、慎一郎が研究室に姿を見せた。彼は新薬の効果を確認するため、実験の準備を始めていた。
「慎一郎様」
実優は、少し躊躇いながらも声をかけた。
「以前に飲まれた薬の効果は、どうなるのでしょうか」
「ああ、以前の薬の影響は感じられないよ」
その答えに、実優の中で何かが閃いた。能力の作用には、何らかの優先順位があるのではないか。この仮説を裏付けるように、実優の記憶の中で幾つかの事実が結びついていく。
春樹が戻ってきた時、実優は自分の考えを説明し始めた。
「春樹様、以前の実験で、二種類の薬を同時に...」
「ああ、あのときは」
春樹の目が輝いた。
「先に飲んだ薬の方が、先に効果を発揮しましたね」
実優の発見と春樹の記録が重なり、新たな可能性が見えてきた。春樹は興奮した様子で説明を始める。
「つまり、優先順位があり、最も新しく体内に入った因子に作用する。そして、その因子が化学変化している間は、他には影響が及ばない...」
窓の外では、薬草園の花々が陽光を浴びて静かに揺れていた。実優は、この発見が新たな希望につながることを、確かな予感として感じていた。慎一郎の能力が、制御可能なものだとすれば。
「ここまでの話をおさらいしましょう」
春樹の声には、これまでの発見への確信が込められていた。
「慎一郎様の能力は、まるで酵素のような働きをしているのではないでしょうか。体内に入った物質の化学変化を加速させる...そして、その作用には明確な順序があると」
春樹の説明に、久遠は深い理解を示して頷いた。実優は少し離れた場所から、その様子を静かに見守っている。
「つまり、私の能力は単なる『病』をもたらすものではなく」
慎一郎が、自分の手を見つめながら言った。
「体内での化学変化を促す力なのだと?」
「はい。しかも、一度に一つの反応しか促進できない。そして、その反応には明確な優先順位がある。最も新しく体内に入った物質から順に...」
春樹は実験台の上に、これまでの記録を広げた。そこには、慎一郎の協力のもと重ねてきた数々の実験データが記されている。
「この理論が正しければ」
慎一郎の声には、かすかな期待が混ざっていた。
「私の能力を、制御できる可能性がある」
春樹の目が輝いた。
「はい。まず体内に無害な中和剤を入れることで、それを最優先で反応させる。そうすれば、他の物質への影響を防げるかもしれません」
研究所の空気が、一瞬張り詰める。これまでの実験データが示す可能性に、全員が息を呑んだ。
「試してみようか」
慎一郎の声は、静かな決意に満ちていた。しかし久遠が、穏やかにその手を制した。
「慎重に進めましょう。まずは中和剤の安全性の確認から」
「ええ。段階を追って、確実に」
春樹は実験台の前で、新たな準備を始めた。その手際の良さには、これまでの研究で培った確かな技術が感じられる。
窓から差し込む午後の陽光が、実験器具を優しく照らしている。実優は、その光景を見つめながら、新しい可能性への期待を胸に抱いていた。
実験は慎重に進められた。春樹が次々と新しいデータを記録し、慎一郎は自らの体を使って一つ一つ検証を重ねていく。それは、彼らの研究者としての真摯な姿勢を表すような、静かな時間だった。
「この結果は...」
春樹が、新しいデータを見つめながら呟いた。
「記録が正しければ、恐らく能力の作用を制御できる可能性が高いと言えそうです」
その言葉に、研究所の空気が一瞬凍り付いた。
「本当に?」
久遠の声には、深い期待が込められていた。
「はい。まだ推測の域を出ませんが、データはその可能性を強く示唆しています」
春樹は、興奮を抑えきれない様子でグラフを示した。そこには、明確な法則性を持った結果が記されていた。慎一郎の能力が、制御可能であることを示す手がかり。
「次の段階に進みましょう」
久遠の声が、静かに響いた。その言葉には、これまでの研究の集大成となる重みが込められている。
窓の外では、薬草園の花々が午後の陽光を浴びて静かに揺れていた。白い花と紫の花の間で育つ新しい種が、まるで未来を予言するかのように、優しく風に揺れている。その光景は、研究所に集う者たちの新たな希望を象徴しているかのようだった。




