第22話「春樹の証明」
慎一郎が実優の元へ向かう前、医学界の重鎮たちが集まる式場の別室では、既に重要な会合が始まっていた。春樹は緊張した面持ちで資料を広げる。その手には、実優との研究の成果が詰まった記録の束。朝日を受けて、インクの文字が鮮やかに浮かび上がっていた。これから展開される説明が、実優を救う重要な証拠となることを、春樹は誰よりも理解していた。
隙間から差し込む光は、記録の文字を美しく照らし出していた。春樹は記録を読み返しながら、実優との日々を思い出していた。彼女の観察眼が捉えた真実は、既存の医学の常識を覆すほどの重要性を持っている。その証明のため、春樹は昨夜も遅くまで資料の準備に没頭していた。
「藤堂君、君の指導教授からも、興味深い報告を聞いておりますよ」
帝国大学医学部の橘教授が、穏やかな声をかけた。その言葉に、春樹の背筋が伸びる。橘教授は医学界きっての権威であり、その一言には計り知れない重みがあった。式場とは思えない緊張感が、部屋全体を包み込んでいる。
「はい。実は、この研究には特別な観察者の存在が。そして、その方の驚くべき能力について、最近重要な発見がございました」
春樹は、実優の記録を取り出した。几帳面な文字で記された観察記録。その一つ一つに、深い洞察が込められている。それは単なる記録ではなく, 植物の本質に迫る貴重な発見の証だった。
「この観察記録は、非常に興味深い内容を示していますね」
医科大学の成田教授が、記録に見入りながら言った。経験豊かな研究者の目が、記録の価値を見抜いていた。
「通常、我々は植物の性質を化学的な数値でしか測れません。しかし、この記録には植物が本来持つ性質への驚くべき洞察が記されているのです」
橘教授が、さらに記録に目を近づけた。その表情には、純粋な学究の光が宿っていた。長年の研究生活で培われた直感が、この記録の特別さを告げているかのようだった。
「まるで、植物の本質的な性質を直接観察しているかのような精度ですな」
「はい。実は、実優様には特別な力があります。植物が持つ本質的な性質を直感的に理解する能力です。この力は一見すると単なる花言葉の逆転のように見えますが、私たちは最近、それが遥かに深い意味を持つことに気付いたのです」
春樹の声には、発見の興奮が込められていた。記録を開く手が、少し震えている。それは緊張からではなく、この発見の重要性を理解しているが故の高揚感だった。
「その詳細を聞かせていただけますか」
橘教授が、興味深そうに身を乗り出した。その仕草には、若き日の研究熱が蘇ったかのような活力が感じられた。朝日は次第に高度を増し、部屋の空気はより一層引き締まっていく。
「例えば、この白花についてです」
春樹は、詳細な実験データを取り出した。そこには、実優の観察と実際の測定結果が並列で記されている。その照合の正確さは、偶然では説明のつかないものだった。
「私たちは長年、この花の性質を『鎮静作用』だと考えていました。しかし実優様は、その花を観察しただけで、『この花は本来、強い興奮性の性質を持っている』と指摘されたのです」
医学界の重鎮たちの間で、小さなざわめきが起こる。その主張は、従来の研究を根本から覆すものだった。
「それは、単なる直感的な推測ではないのですか」
成田教授が、冷静な視点で質問を投げかける。その問いは、科学者として当然の疑問だった。
「いいえ。最初は私たちもそう考えました」
春樹は、新しい実験データを取り出した。それは、実優の観察後に行われた詳細な成分分析の結果だった。
「しかし、実優様の指摘を受けて詳細な分析を行ったところ、驚くべき事実が判明したのです。この白花には確かに、強い興奮性の化合物が含まれていました。ただし、その性質は保存環境や調合過程で変化する。私たちは長年、その本質的な性質を見落としていたのです」
橘教授が、深い理解を示して頷く。その表情には、新たな発見への純粋な喜びが浮かんでいた。
「なるほど。植物が本来持つ性質を直接感知する能力というわけですか」
「はい。しかも実優様は、その直感を科学的な観察で裏付けているのです」
春樹は、さらに詳細な記録を示した。
「この観察記録をご覧ください。植物の性質が月の満ち欠けによってどう変化するのか、日光の強さによってどう変化するのか。全てが克明に記されています。そして最も重要なことは、これらの観察が全て、実際の成分分析結果と一致しているという事実です」
成田教授が、記録に目を凝らした。その眼差しには、純粋な学術的興味が宿っていた。
「確かに、これは驚くべき発見だ。植物の本質的な性質を直接理解し、それを科学的に実証している。これは医学研究に革新的な視点をもたらす可能性がある」
春樹は、さらに説明を続けた。その声には、研究者としての誇りと、実優への深い敬意が込められていた。
「私たちの研究所では、実優様の観察に基づいて、複数の生薬について新たな活用法を見出すことができました。それは単なる効果の逆転ではなく、より本質的な理解に基づく、画期的な発見なのです」
記録を読み進める重鎮たちの表情が、次第に変化していく。そこには、純粋な学術的興奮が浮かんでいた。この発見が、医学界に新たな地平を開く可能性を、誰もが感じ取っていた。
「藤堂君」
橘教授の声が、静かに響く。その声音には、若き日の研究への情熱が蘇ったかのような力強さがあった。
「この能力は、特に漢方薬の研究において、計り知れない価値を持つ。古来より伝わる薬効の理解が、実は表層的なものに過ぎなかったという可能性も示唆している」
*
朝日がさらに高度を増した頃、春樹が新たな資料を取り出そうとした時、廊下に慌ただしい足音が響いた。扉が開き、久遠が姿を現す。その表情には、いつもの穏やかさの中に、強い決意が滲んでいた。
「皆様、大変恐縮ですが」
久遠の声には、切迫した響きがあった。
「実優様の研究者としての復帰について、椿家当主との最終的な話し合いの時が参りました」
その言葉に、医学界の重鎮たちの表情が引き締まる。彼らは既に、実優の能力が医学研究にもたらす可能性を十分に理解していた。その才能を失うことは、医学界にとって大きな損失となる。
「話し合いですか。我々はどうすればよいのでしょう」
橘教授が、静かに立ち上がった。その姿勢には、医学研究者としての確かな威厳が感じられた。
「はい。実は、椿家当主に対して、実優様の研究価値を医学界として正式に認める書面を用意していただけると」
久遠の言葉に、成田教授が頷く。
「それは当然の判断です。これほどの才能を埋もれさせるわけにはいきません」
重鎮たちの間で、同意の声が広がる。それは単なる同情ではなく、一人の研究者としての実優の価値への純粋な評価だった。
「実優様の観察眼は、既存の研究の限界を超える可能性を秘めています」
春樹の声が、強い確信を持って響く。
「特に漢方薬の研究において、その直感的理解と科学的検証の両立は、革新的な成果をもたらすはずです」
橘教授が、意味深く頷いた。
「そうだな。椿家は代々、漢方薬の研究を家業としている。実優君の能力が、その伝統に新たな光明をもたらすことを、当主にも理解してもらわねばならない」
医学界の重鎮たちが、次々と賛同の意を示す。研究者としての実優の価値を、椿家当主に示すための強力な後ろ盾となることを、皆が自然と理解していた。
「では、私たちも同席させていただきましょう」
成田教授の言葉には、確かな重みがあった。医学界の権威者たちが、実優の才能を認めているという事実は、椿家当主に少なからぬ影響を与えるはずだった。
春樹は、実優の研究記録を大切に抱きしめた。この記録は、実優の才能を証明する決定的な証拠。そして、研究者としての彼女の存在価値を、誰の目にも明らかにする力を持っている。
窓の外では、薬草園の花々が風に揺れていた。白い花と紫の花、そしてその間で育つ新しい種。それは、実優の研究者としての可能性を象徴するかのような光景だった。
「ありがとうございます。参りましょう」
久遠の声に、一同が静かに頷く。
式場に向かう廊下を進みながら、春樹は実優との研究の日々を思い出していた。彼女の観察眼が捉えた真実は、既存の医学の常識を覆すほどの重要性を持っている。その可能性を潰すことは、医学界全体にとっての損失となる。
今日という日が、実優を研究者として正当に認める転換点となる。春樹は、そう確信していた。研究記録を握る手に、強く力が込められた。窓から差し込む光が、医学界の重鎮たちの毅然とした背中を照らしていた。




