水原 鈴歌 - ふたりの天才(上)
私たちが出会ったのは、穏やかな春の日のことだった。桜の花びらが風に舞う中、四月生まれだという同級生はにっこり笑って、私に右手を差し伸べた。
『隣に越してきた川岸です。澪、ご挨拶は?』
『よろしくね、すずかちゃん!』
『……』
私は、頑として親の背後から動かなかった。警戒心か、気が乗らなかったのか。思い当たる理由は色々あるが、一番強かったのは他者への不信感だ。
うまく社会へ馴染むには、時に自分の信念を曲げてまで他者の機嫌を取る必要があるという。私は相手と良好な関係を築くうえで不可欠な、この「世辞」と「妥協」が幼い頃から嫌いだった。
なぜ、他人のために自分の心を砕く? 自分を犠牲にしても護りたいものがこの世にあるのか? 少なくとも、私の人生にはそんなもの存在しない。
護るべきは自分だ。自分の心だ。己を護るため、私は歯に衣着せずものを言う。たとえこの先、誰からも理解されないとしても――。
* * *
『うわぁぁぁん! せんせー、すずかがおれに〝バカ〟っていった!』
『またあなた? どうしてお友達にそんなこと言うの』
『かんちがいするな。おまえなんて、ともだちじゃない』
『鈴歌ちゃん!』
私と言葉を交わせば相手は怒り「失望した」と言って離れていく。勝手に近寄ってきておいて、勝手に傷つき泣きわめく。挙句、言うに困って私を問題児扱いするなど自分勝手が過ぎると思わないか?
私より長く生きているというだけで偉ぶり、意のままにならないと機嫌を損ねる馬鹿な大人のなんと多いことか。
私はお前たちの所有物か? いや、ペットでも吠えたり噛んだり引っかいたりで意思表示は許されるからそれ以下だな。うんざりする。
『ふん。おまえがカエルをなげたのがわるい』
『なんで……なんで、こわくないんだよ。おかしいぞ、おまえ!』
『おかしいのはおまえだ。カエルだって、いたいんだぞ。じぶんがだれかにつかまって、なげられたらどうする? どうおもう?』
『あ、あ……』
『そんなこともわからないのか、だからおまえはバカなんだ。カエルにあやまれ。いますぐ、あやまれ』
正直であることは美徳なんだろう? ならば、私はそうするまで。無様に大人へ泣きつくこの少年と私の共通点は、同い年の子どもということだけだ。
嘘をつくのはよくないこと? ならば、私はそうしない。ほかの女子に試して味を占め、同じ手口でいたずらを試みる愚かさを指摘して何が悪い。
ああ、生き物には優しくするんだったな。人間は生態系の頂点に立つモノとして、ほかの生物を護る義務がある。傷つけるならそれ相応の大義名分が必要だ。
投げつけたのがカエルだったのはなぜだ? 犬や猫には同じことをしないのか? ゴキ……Gではダメなのか? おまえがやっていることは差別じゃないか。
なぜ泣く? なぜ目を逸らす。逃げるな、わめくな、理由を答えろ。なぜだ。なぜだ? なぜだなぜだなぜだ――
『いい加減にしなさい。いつまで意地を張ってるの』
『わたしはほんとうのことをいったまでだ』
『保育園児が理詰めで論破、ねえ。親御さんから〝ギフテッドです〟とは聞いてたけど、すでに筋の通った論理的思考ができるとは驚いたよ』
保育園でも友達を作らず、集団生活にも馴染もうとしなかった私はある日、同級生と言い争うトラブルを起こし退園の危機に直面した。
別室に通された私のまわりには、担任の保育士をはじめ多数の大人。その全員が険しい顔でこちらを見ている。この部屋に、私の味方は誰もいない。
私は大人が嫌いだ。大人になんてなりたくない。だが、大人の言うことを聞けば社会でうまくやっていけるとみんなが言うから、そのとおりにしてきただけだ。
それなのに――どうして私は「いい子」になれない?
『鈴歌ちゃんは善悪の別なく、主観的な視点から見た事実をそのまま受け止める。自分で見聞きした物事こそが彼女にとっての判断材料であり、そこで得た知見が最適解になるんだ』
『もう限界です。この子の面倒は見きれません!』
『いつの世も出る杭は打たれるもの、天才とは孤独で理解されないもの。彼女はある意味、誰よりも純粋な心の持ち主なんだよ』
『もっと深刻に考えてください園長!』
『深刻に考えているとも。だから今、この時をもって鈴歌ちゃんは私が預かる。見ていなさい、君たちが手を焼くこの子を自慢の卒園生に育て上げてみせるとも』
『正気ですか? さすがに園長先生でもこれは……』
『それにね、こういう子はちょっとしたきっかけで変わることがある』
白髪交じりの穏和なおじいさんといった風貌の園長は、そう言うとおもむろに席を立ち、廊下に面した教室の扉を開けた。
その足元をすり抜け、小さな人影が入ってくる。栗毛のツインテールに水色のスモック、紺のキュロットスカート。胸元にはチューリップ型の名札で【かわぎし みお】。すぐに隣の家の幼なじみだと分かった。
『おや、澪ちゃん。どうしたんだい?』
『えんちょーせんせい。すずかちゃんは、あたしのマネをしたの』
『そうかぁ。どんなことを真似たのかな?』
『××くんがカエルをなげてきたから、あたし、おこったの。おこったら、せんせい、〝よくいえたね〟って、ほめてくれたの』
澪の証言に、担任は驚いた表情を浮かべた。それは悪いことをする仲間、自分より力で勝る相手に注意した勇気を褒めたものであったのだろう。
だが、離れたところで一部始終を聞いていた私は、それ自体を正しい行為と誤解した。人の悪事を糾弾することは良いことであり、他人から賞賛を受けるに値する行為であると。
認められたい。称賛されたい。もっと崇めて奉れ。そうしていつか、誰も文句のつけようがない真の「天才」になれば、自分を偽らなくとも生きていけるはずだから――。
『すずかちゃんは、どうしておこられてるの?』
『園長先生は怒っていないよ。鈴歌ちゃんとお話がしたいんだ』
『そうなの?』
『そうだよ。みんなと仲良くなるにはどうしたらいいと思う? ってね』
『ふーん。そっかぁ』
海沿いの街から引っ越してきたという快活な隣人に初めて会った日、私は親の陰に隠れて握手を拒否した。
だが、澪は私の反応など気にも留めず、同じ保育園に来て間もなく持ち前の明るさであっという間に人の輪へ溶け込んだ。転園直後の五月には運動会の選手宣誓という大役を務め上げ、一目置かれる優等生の評価を確固たるものにした。
私は、この頃から間違いなく天才だった。
だが――澪はその上を行く、手のかからない天才だったのだ。




