37.ヌシ
「イタズ、見つけたぞ――!」
ふいにまばゆいばかりの銀世界の向こうで、男の声がした。いつの間にか吹雪いていた。
ひなたの意思に反して、ライフルを持った両手が勝手に動き、右の頬に銃床を当て、かまえた。その姿勢のまま前進する。ギュッギュッギュッと雪を踏みしめる音が聞こえる。
「追い子! ……敬太、どこだ! まったく前が見えねえんだ! イタズの居場所を教えんか! 緒方も集まれ! 敬太を援護しろ!」と、ひなたの耳もとでくぐもった声が発せられた。
まちがいない。これは丁次の声であり、いまひなたが同調している人間も丁次自身だ。どれほどの過去の再現なのか、定かではないが。
丁次は銃をかまえたまま、交互にカンジキをつけた足をくり出した。荒い呼吸音がする。
「頭領、タカスだ! タカスに奴はいる! まっすぐ前へ進め! 一等大きいブナの木だ! ノボリマキに出るまでもねえ!」と、前方の吹雪のなかから声が聞こえた。
「相わかった! 敬太、合図したら穴から追い出すぞ。しばし待機! 小幡、ブン助――射手はまだ手を出すんじゃねえ。包囲しろ!」丁次のきびきびとした声が響く。
イタズは山言葉で熊を指す。
ノボリマキとは先ほど佳苗が言ったように、勢子が下方から追い立て、射手の待ち伏せする尾根にクマを誘う狩猟法だ。クマやカモシカを狩るにあたり、もっとも完成された戦略的隊形だった。
タカスは高巣のことである。木のなかが洞になっており、入り口が上方にある木の穴でツキノワグマが冬眠していることがあるのだ。いま、吹雪の向こうの追い立て役の勢子は、タカスのなかにクマが潜んでいると告げたのだ。
丁次の視野がしだいに鮮明になっていく。ひなたは丁次の意識に同調していった。
カンジキをつけた足で新雪を踏みしめ、前進。なだらかな斜面を横に突っ切る形で歩いている。
ブナの原生林が見えた。
おぼろげながら、ひときわ太い幹を誇る木が佇んでいるのを認めた。
ぜいぜいと丁次の息が烈しくなる。ときおり忍び笑いが重なる。
雪上を歩くので、疲労が烈しいからではない。昂奮を抑えきれないのだ。
待ち焦がれた獲物に会える――。どんなに巻き狩りでクマを仕留めようが、丁次にとってもっとも高揚する瞬間であるのだろう。
大木の上方に、たしかに下水の暗渠の入り口と見まがうばかりの穴があいていた。
こういったものを樹洞という。樹皮が剥がれ、木のなかが腐ったりして、年月を経てほら穴状の空間となっているのだ。穴のサイズに応じて、昆虫をはじめ、小型のげっ歯類から鳥類、大きなものはクマが寝床として冬眠することも少なくない。
勢子の一人である敬太と呼ばれた男が、木のそばに立ってクマ槍で穴を示していた。
カモシカの毛皮で作った上着をつけ、丁次と同じく山ハカマを履いている。笠をかぶったその下の顔は赤く染まり、まだあどけなさが残っていた。三十にも達していまい。
別の勢子である、極端に背の低い緒方もそばにいた。コナガイという木製のヘラをかまえ、警戒している。
吹雪のなかから、もう二人のマタギが追いついた。手には散弾銃。小幡とブン助と呼んだ射手だ。彼らも毛皮をまとった同じ恰好をしていた。眼つきまで獣じみていた。
二人は無言で丁次を見つめ、うなずいた。
丁次は少し離れたところに立ち、無言で四人の配置を指示した。
事ここに至ったら、よけいな言葉は発さず、穴のなかのクマを刺激しないにかぎる。クマの冬眠といっても眠りこけているわけではなく、うつらうつらとしている程度の浅い睡眠にすぎない。
敬太と緒方を大木の根もとに固めさせた。二人ともクマ槍とコナガイが武器だ。
やや離れた位置に小幡とブン助を据えて、散弾銃をかまえさせた。薬室内にはスラッグ弾を装填してある。射程距離はライフルには遠く及ばないものの、強力無比の一発弾。クマと戦うにはこれしかない。
「配置についた。いつでも来やがれだ」と、丁次と変わらぬぐらいの年の小幡が言った。
「いいぞ、追い子、やれ! いぶり出せ!」と、丁次がライフルをかまえたまま叫んだ。
背丈は低いが、いかにも敏捷さに秀でたような緒方がうなずいた。
コナガイを背中に背負うと、リスのごとく垂直に屹立したブナの木を駆けあがり、四メートル真上の穴の縁に手をかけた。そして身体を大きく反らし、なにかを穴のなかに投げ込んだ。いくつもの石の雨を降らせたらしい。
手ごたえがあったのか、緒方はすぐさまジャンプして雪のうえにおりた。
「来るぞ! 奴はすでに起きてた! おれたちに気づいてる!」緒方は叫んで、コナガイを両手でかまえた。
敬太がクマ槍の尻でブナの幹を小突き、
「鉄砲、撃いたれや!」と言った。
穴のなかで、鈍い唸り声がした。
ついで、ブナの洞でバリバリと樹皮を引っかく音がうつろに響いた。
濃密な獣臭さが風にまじった。
雪が静々と斜めに舞い落ちる。
緊張がみなぎった。
丁次はライフルをかまえ、集中している。まばたきすら制御していた。視界内におさまった四人のマタギたちも、己が得物を両手保持し、クマが飛び出してくるのを待った。微動だにしない。しくじればクマの逆鱗に触れる恐れがあった。
「穴から出てくるぞ! 鉄砲、用意!」と、誰かが言った。
バリバリバリと、さらに樹皮が鋭い爪でかきむしられる音がしたと思ったら、一瞬、黒い穴が雪のせいでかき消された。
それは、まるで雪と同化したかのようだった。
そのツキノワグマは他とはちがった。
穴から出てきたのに、誰もが引き金を引けなかった。眼を疑うほど、あまりにも巨体だったせいもある。
地面に落ちた。ゴボ!と突如としてブナの根もとが落とし穴みたいに窪んだ。
白い雪にまみれると、周囲に溶け込んだかに見えた。
それほど白い体躯だったのだ。
古来より、日本において白色は聖性を象徴した――。
白いといっても、鼻はピンク色がかり、両眼は鮮血のように燃えていた。
その異様なクマは仁王立ちになり、そばの敬太の顔面を爪でひと掻きした。敬太はプラスチックの玩具のように吹っ飛び、ブナの幹に叩きつけられた。そのときに見えたクマの肉球も鮮やかなピンク色をしていた。
「よせ、撃つな!」と、いちばん体格のいいブン助が右手をかざした。「こいつに手を出しちゃなんねえ! アルビノだ!」
「当たりだぞ! どうすんだ、丁次! ヌシを怒らしちまった!」小幡が散弾銃をかまえたまま後退した。丁次の右腕と評された小幡が烈しく取り乱している。
丁次の呼吸音が早まった。視界が赤く染まり、早鐘を打つ胸の鼓動まで聞こえてきた。ひなたはあまりの生々しい臨場感に息を飲むしかなかった。
「だったらこれはおれの獲物だ! おれが仕留めてやる!」と、丁次が宣言した。
爪でやられ、倒れた敬太をのぞいて、あとの三人が丁次の方を見た。一様に驚愕の表情である。
敬太の頭は口から上が抉り取られ、赤黒い肉の断面を覗かせていた。
切り口から湯気とともに血を吹かせており、全身が痙攣している。筋肉の反射反応にすぎないだろう。もはや助かるまい。ブナの根もとに頭髪のついた肉片と、ピンポン玉みたいな眼球が転がっていた。
「よせ……。ヌシを殺せばクマ槍を収めなくちゃなんねえ掟だ。あんたは今日かぎりで引退しなきゃなんねえぞ!」ブン助が右斜め前方から声をかけた。「そのまえに、この窮地からどうやって逃げるかだ!」
すかさずブナの大木に、猿のように駆けあがって避難していた緒方が、
「体重は三〇〇キロを超えてる大物だ。こんなに真っ白なのに、よくいままで生き残ってきたもんだ。まさに山の神の使いだな!」と、まるで他人ごとのように笑った。
あまねく人口に膾炙しているように、自然界における突然変異体であるアルビノの個体は、メラニンの生合成に関する遺伝情報の欠損によって引き起こされる遺伝子疾患である。
本来、有色の体毛・体色のはずが、生まれつきメラニン色素を持たないために色がつかず、結果的に白い個体となってしまう。
一般的にアルビノは日焼けにも弱く、眼球でさえ色素不足であるため、昼夜ともに視力が通常の個体よりも劣り、それが動物の場合、外敵を捉えるのが遅れたり、餌の発見にも影響を及ぼすとされている。
群れを形成した草食動物のなかのアルビノだと、他より色が目立ってしまい(たいていの動物の体毛・体色は保護色である)、結果的に天敵から狙われやすく、生存率も低くなる。
反対に餌とするべき小動物を襲う肉食獣の立場であったとしても、目立つ体色ゆえに獲物がいち早く気づき、食料にありつきにくくなる。それゆえにアルビノは生存するうえにおいて、デメリットが多すぎるわけだ。多くの場合、成長しきるまえに命を落としてしまうものである。
いま、丁次たちマタギ衆が向いあっているアルビノのクマは、見た目ではシロクマ(ホッキョクグマ)と大差ないように思えるかもしれない。だが、そもそもシロクマの体毛とツキノワグマのそれとは根本的に構造が異なる。
シロクマの毛は拡大すると空洞になっており、一種の断熱材の役目を果たしているのだ。体毛の一本自体は透明なのだが、この毛が密集した状態で太陽の光をうけると白く見えるのだという。それに北極の白い環境にも溶け込みやすく、白は白でもこのケースでは保護色になっていると言えるのだ。




