3.「親父がやたらと初物にこだわるのは、それか」
「ま、その点については、親父には世話になった。それどころか、贅沢なぐらいの豊かさを、長年わが家に運んでくれたと思うよ。これだけおいしいものを食べときながら、結局残して、しまいにはぜんぶ捨てちまうんだから、つくづく人間は罪深い」宗教は言ってビールをあおった。控えめとは言いがたいげっぷを洩らした。「こんな食事ができなくなるのは残念だが、あんたの身を案ずればこそだ。親父、あらためて礼を言う。ありがとう。そしてお疲れさま」
「私からもお礼を言わせて――ありがとうございました。そしてご苦労さまでした」と、佳苗は畳に手をつき、頭をさげた。顔をあげてから、「……本音を言わせてもらえば、けっこう食費が浮いて助かったんですけどね。こればっかりはしょうがないです」
と言い、舌を出した。
丁次は心外とばかりに首をふった。
「やれやれ……こうもかんたんに引退宣言を受け容れられるとは、がっかりだ。おれは九十になるったって、まだ医者にかかっちゃいない健康体だってのに。怪我とも無縁だ。生まれてこのかた、指一本とて骨折したことがない。そこへ行くと、佳苗さんは正直だ。――まさにそれだ。いままで誰のおかげで食費をまかなえたと思ってんだ。なぜ引き留めてくれない?」
「言うねえ。親父のその強気な発言。なんでい、結局まだ山へ行きたいってか。いったいいつ枯れてくれる? まさかバイアグラでも飲んでるのか?」
と、宗教。
「いまは九月下旬か……。もうすぐ、あの旬の時期がくるというのに。おまえたちは待ち遠しくないのか」丁次は中庭をながめながら言った。垣根の向こうは、そろそろ秋の気配で色づきはじめた山々が見渡せた。「人のうわさも七十五日って諺がある。――ハル坊、意味は知っておるか」
「七十五日経てば、自然とくだらない話題も忘れてくってことでしょ。いまどきワイドショーのネタだって、そんなに引っ張ることはできないよ。現代人は暇じゃないってこと。つねに新しい話題を探さないと」
と、治彦は得たり顔で言い、カラリと揚がった磯辺揚げを箸でつまむと、口に放り込んだ。
「まあそんなところだな。悪いうわさも、いい方でさえ、それだけ経てば自然消滅するってこった。そもそも、なぜ七十五日なのか? うわさが消える日数以外に、こんな二つの例がある――。一つ目は、かつて女が出産したあと、産婦の忌みが明けるのを七十五日とした教えがあったそうだ」
「古くから伝わる日本神道の教えね。いまでこそ女の血は穢れてるって声高に叫んでたら、それこそ男女差別だって怒られかねないけど」
と言ったのは佳苗だ。
産の忌みを赤不浄と呼んだ。死の忌みを黒不浄といい、わが国における民俗的な信仰世界では、赤不浄の方が重いとされた。かつては出産のあった家のかまどの火さえもが穢れると信じられ、とくに漁村において、七日間はその家に立寄らなかったという。また家のなかでも産婦の煮炊きの火と、母屋の火を別にするのが一般的であった。
この穢れとは汚いという意味ではない。『穢れ』=すなわち、『気枯れ』のことであり、『生命力が枯れた状態』を指すのである。
神道では『清らかで若々しい生命力』の状態に重きをおき、反対に元気がない、汚い状態は死につながるものとして忌み嫌ったのだ。
したたり落ちた血液はたしかに不衛生なため、『汚穢不浄』として嫌うこそすれ、血を流した本人を汚いと言っているわけではない。
同様に女性の生理は『血穢』と呼ばれ、これは生理そのものよりも、それにともなう体調不良が生命力の枯渇を思わせるため、忌避されるのである。
したがって、血を流している人は、元気がない、生命力を欠いている、死の兆しを思わせるため、『気枯れ』(生枯れ)た状態であるので、慎むべきだと言いたいわけである。
「なんで七十五日なの?」
「七十五日といえば、約二ヶ月半だ。これだけあれば季節はいやでも移ろっていく。産婦の身体がもとの健康を取り戻すのもちょうどそれぐらいだし、同じく人のうわさも二か月半あれば、自然と人々の話題から忘れ去られていくってことだ。――そしてもう一つの例だ。初物を食べると七十五日、余分に長生きできると信じられた」
丁次がテナガエビの素揚げを、治彦の皿においた。
孫は直接皿に口をつけ、真っ赤な川エビを掃除機みたいに、ちゅるっと吸い取った。殻ごと食べた。
「ふーん」
「季節、季節の旬の食べ物を食べることにより、人は新たな生命力を得られると言われた。たしかに初物はみずみずしく、生気がみなぎっておる。だからこそ古くから日本人は、なにかと初鰹、初鮭、初ナスを口にしたがったんだな。江戸っ子はとくにその傾向が強いので有名だ」
「なるほど、親父がやたらと初物にこだわるのは、それか。どうりで長生きするわけだ」
「じいちゃんがなにを言いたいか、わかった!」と、治彦は手を叩いて指さした。「秋といえば初キノコ――つまり、松茸だ!」
「いいぞ、ハル坊。さすがおれの孫だ」丁次は治彦の頭をなで、満面の笑みを浮かべた。「毎年、おれが山に入るのを楽しみにしてたくせに、あっさりおれを引退させるつもりか? 松茸狩りにかけては、ひときわ自信があったっていうのに」
たしかに丁次は、松茸狩りに関しては、右にならぶ者も見当たらないほど秀でていた。ほぼ毎年、一輪車にいっぱいの収穫を持ち帰ってきたものだ。
そのたび食卓に、フルコースが陳列した。松茸ご飯を筆頭に、松茸汁、天ぷら、すき焼きなべ、土瓶蒸し、茶わん蒸し、酢の物、極めつけが松茸の姿焼き。歯ごたえと、深い味わいもさることながら、馥郁たる香りをたっぷり楽しんだ。
……もっとも、松茸三昧もせいぜい三日が限度である。
いかな高級食材とはいえど、連続して口にしていると馴化し、飽きてしまう。強い刺激の美味な料理ほど、より速く慣れてしまうものだ。生体メカニズムとして、脳がほかの栄養素を摂り入れよと指令を送っているので飽きるのだとされている。いずれにせよ人は贅沢な生き物だ。逆にますます、さらなる刺激を求めてしまう。
丁次としてはそんなことは百も承知だったので、一家が数日食べる分だけを確保し、あとは市場にまわした。
つねにスマートフォンを手もとにおき、中央卸売市場をふくめた近隣の市場の値や、ライバルの山菜狩り名人、業者の動向を情報収集し、より高値で取引できるよう苦心していた。丁次は猟の達人のみならず、情報戦争のなかでビジネスマンとしての顔をもそなえていたのだ。
松茸、マツタケ。
ところで松茸はなぜ高価な食材なのだろうか?
一般的に市場に出まわっている椎茸やエノキなどのキノコとくらべ、まず人工栽培ができないことが挙げられる。
椎茸などは伐採した木の切れ端(榾木)に菌を植えつけて栽培するのに対し、松茸はあくまで生きたアカマツに寄生して育つのだ。そもそも松茸の生態そのものが、いまだ科学的に解明されていなかった。土の状態、温度湿度、日照時間、栄養など、さまざまな条件をクリアしてはじめて生長するらしいが……。
さらに、松茸菌は弱く、ほかの菌や生物に負けてしまうため、栄養が豊富な土地ではかえって生長を妨げられるという。
したがって人の手による栽培はかなり困難を極め(二〇一七年十月、韓国、山林庁国立山林科学院において、世界ではじめて人工栽培に成功したと発表したらしいが、信憑性に欠けるという)、天然ものを探しに行くしかないのだ。
それゆえ大量生産ができず、また年によって豊作もあれば不作のときもあり、収穫量が安定しないせいで高価格になってしまうわけだ。
また最近は山の下刈り作業をする人間も減少傾向にあり、アカマツ林が荒れていることも不作につながる要因になっているとされている。




