17.『行者転ばし』へ続く内臓回廊
「阿毘羅吽欠蘇婆訶……」恭しく巻物を広げた丁次は眼をつぶったまま、真言をつぶやき続けた。その額に汗が光るほどの集中ぶりであった。
信じられないことが起こった。
杉の木が林立した森の景色が、漂白したように色あせていったのを皮切りに、眼のまえの岩壁が光りはじめた。
頭上の庇状になった平たい部分に彫られた長田家のマークが、ひときわ眩い明滅をくり返した。
さらに度肝を抜く展開になった。
まるでピースをスライドさせて完成させるパズルのように、モノクロの視界がいくつもの四角形に分割され、それぞれがひとりでに縦に横にすべり、入り乱れ、眼のまえの景色が撹拌されていったのだ。
そのさまは現実離れした眺めだった。
治彦は螺旋を描くような眩暈に襲われた。内耳にある三半規管をゆさぶられ、自律神経がこねくりまわされ、平衡感覚はシュールレアリスムの世界のように烈しくうねった。
どちらが天で、どちらが地なのか。意識が渦巻き、思わず吐き気がこみあげてきた。
朗々たる丁次の呪文は、山中にこだましている。
スライドパズルのようにかき乱される景色は、やがて岩壁を、ほかのものに変えていった……。
頬に鋭いなにかが触れているを治彦は感じた。
眼を開けた。いつの間にか眠っていたというのか。
シダの葉先が当たっているのだ。青臭いにおいがした。
意識を失っていたらしい。地べたに横倒しになっていた。幸い、背負いかごは破損していない。丁次とともに採った六本の松茸がこぼれていなければいいが……。
どうにか上半身を起こした。
治彦は眼のまえを見た。
――――!
さっきと景色がちがう! 立ちふさがっていた岩壁がない! そっくりなくなっており、かわりに暗い森が広がっていた。
「なんだ、ここ?」と言って、反射的に祖父を探した。左斜めの前方に、例の特別大きな背負いかごをかついだ丁次が立っており、はるかかなたを見すえていた。「じいちゃん、いったいなにがあったの? さっきと様子がちがうような気がするけど――」
丁次はふり返った。心なしかげっそりとやつれて見えた。しゃがれた声で、
「見りゃわかる。門が開いて、道ができた。これより先に長田家が秘匿してきた猟場がある。この程度で失神するんじゃない。驚くのはまだ早すぎるってもんだ。準備ができしだい、行くぞ」
「門が開いた――」と、治彦はあたりを見まわした。「まさかあの岩場が門だったなんて」
岩壁製の門が開いたというより、そっくり岩場そのものが消失し、その空間の向こうにも暗い森が二人を手招きしていた。
――おかしい。なにかが変だ。
治彦は眼をこらした。
ぼんやりと、不自然な紐状の物体が森の奥まで続いているのが見えた。
杉の太い幹になにかが縛り付けられ、それが別の幹へと延々つながっているのだ。ところどころ曲がりくねり、森の端のかすむ向こうまで続いていた。
先ほどの、カモシカが引っかけ大腸やら小腸を引きずり出され、規制ロープのように張り巡らされていたのとそっくりの光景だった。
いや、さっきの比ではない。
腸も太く圧倒的に長い。異様に長い肉の管が木々に巻き付き、森の奥までつながっているようなのだ。
この規則正しさはふつうじゃない。まるで誰かが、意図的に結び付けたとしか……。
この臓物はいったい、どんな生物のものなのか?
仮にこれが人間のものだとしても、人間の大腸は一・五メートル、小腸に至っては六、七メートルもの長さがある。少なくとも森の奥までは三〇メートルはくだるまい。縷々と続いていた。
治彦は恐る恐るピンク色の腸でできたロープを見た。
やはりこの肉の管は単体ではない。
端と端を結んだ箇所があった。これは複数の腸を組み合わせたものだ。どこまでも引き伸ばされた消化管は、何人分ものそれをつなぎ合わせているのだ。
なぜ人間のものだと直感が働いたのか? こんな冒涜的なやり口は冷血人間の所業であろう。
「グズクズするな、ハル坊。これが秘密の猟場『行者転ばし』へと続く道しるべだ。心をたしかに持てよ、ハル。これより内臓回廊を伝って進む。いま、おれたちの眼のまえには異界の門が開いておるのだ。この道は幻の道でもある。しっかりこの小腸の道しるべを手にしながら、おれについてこい。はぐれると、時の狭間に置き去りにされるぞ」
「内臓回廊」と、治彦はうめくように声をしぼり出した。「行者転ばしって、なにそれ? それが秘密の猟場?」
「行けばわかる。ほれ、ロープにつかまれ。これにたどって進むんだ。先に行くぞ」
と丁次は言って、小腸を両手でつかむと、それをたぐりながら前進しはじめた。
治彦は遅れをとってはまずいと思い、いくぶんためらったのち、恐る恐る肉管に手を触れた。
得も言われぬ暖かさと弾力、ぬめりを手のひらに感じた。ぐいと引けば、ゴムみたいによく伸びた。いちど手を離すと、透明の粘液がべったりと付着し、糸を引いた。
丁次はうしろをふり返ることなく、たしかな足どりで森の奥へ入っていく。異様なまでの大きさの背負いかごばかりが印象的な後ろ姿だった。
どうにも、いまさら後戻りはできない。
治彦は意を決すると、ヌタウナギそこのけにぬめるロープをつかむと、祖父のあとを追った。
不気味な内臓回廊を、どれほど進んだろうか。
木々がまばらになり、やがて開けた空き地に出た。腸のロープもそこで途切れていた。
二人の眼のまえには皿状の窪地が広がっていた。すり鉢状の傾斜がつき、なんとか下までおりられそうだ。
治彦は穴の縁に立ち、眼下を見た。下までは一〇メートルはある。
テニスコート二面分がすっぽりおさまるほどの円形の広場となっていた。
「ひょっとして、これが秘密の猟場『行者転ばし』ってわけ?」
「いかにも」
いちばん眼を惹くのは、窪地の中央にアカマツの巨木が意味ありげに屹立していたことだ。
樹齢は計り知れない。幹の太さは屋久島の縄文杉のように威風堂々たる太さを誇り、まっすぐ上に伸び、枝を四方八方に広げていた。豊かすぎる量の松葉を生やし、重みに耐えかねしなっているほどだ。
注目すべきは、真上に伸びる幹が途中からドリルの刃のように螺旋を描いており、末端で巨大なコブを形成している点だった。見方によっては観音像のような頭部にも見えた。ある種、異様な佇まいだった。
「このアカマツって、なにかのご神体みたいだけど――」
「ご神体みたいだけど?」と、丁次はなんの感情も交えずくり返した。「みたいだけど、なんだ? 心に思い描いたこと、正直に言うてみい」
治彦がアカマツの上方を指さした。
「幹があんな形をしてるのは、気味が悪いよ。なにか近づきがたいような。あれはふつうの木じゃない」
「いかにも。あれは忌み木だ。――古来より杣師はあのような木には神が宿るだとか、天狗が止まり木にしているとか信じ、伐るのを避けてきた。どうしても伐らねばならぬ必要があるときは、神主を呼んでお祓いをしたのち、伐採したものだ。万が一、気にせず伐ってしまうと、罰が当たると恐れられた。じっさい、そういう事故例は星の数ほどある」
「忌み木」
「いずれにせよ、見てみい、ハル坊。これが長田家が隠してきた猟場だ。さっきも言ったように、ご先祖さまたちは『行者転ばし』と呼んだ。なにか因縁めいた言葉の響きがあるだろう」
「なんで山伏が転んだの?」
「その説明はあとでしてやろう。とにかくいまは、窪地のなかをしかと見るがよい」丁次は言って、あごでしゃくった。
治彦はしゃがみ込み、眼下の窪地を見つめた。
忌み木がそそり立つ広場には、数えきれないほどの緑色のまるいなにかが散乱していた。同じく緑色の細長い枯れ枝のようなものが山積みになっていた。
それらの正体は、いまはどうでもよい。それらはしょせん窪地の縁周辺に捨てられた廃棄物かなにかにすぎないのだろう。
問題はそれじゃない。
露出した地面には見なれた無数の突起物が、忌み木を中心にして、同心円状に生えていたのだ。
松茸に他ならなかった。




