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王宮の、執務室。
いつもの臣下と侍従に囲まれていつものように朝から書類に向かう第一王子。
「アンドレ様……王妃殿下からチケットが届いておりますよ」
「何だったか……?今日も仕事があるからと伝えたはずだが……」
社交シーズンの今、断っても断っても母の王妃があちこちの催しの参加を促してくる。
「ハペス劇場です。『仮面舞踏会』ですよ。去年は忙しくても行かれたではありませんか」
そうだったっけ、とアンドレは書類を捲る手を止めた。
去年は、そうだ、社交にはもしかして憧れのイブさんがいるのでは、となるべく顔を出していた。特にこの演目は普段社交に出ない人でも参加する場合が多い。
しかしイブは社交に全く出ない。どうやったら会えるのか。
……エヴァ嬢は、行くだろうか。
ふと浮かぶ考えに、二度目のため息をつく。
彼女も深窓の令嬢だ。この前の夜会も、こちらからのお詫びとはいえきっと、自分に会うためにわざわざ好まない場所に出てくれたのだ。
もしかしたら今日も、私に会いに、来てくれるだろうか。
そう考えて、アンドレは頭を抱え込む。
(なんていじましい……一体どうしたいんだ、私は)
「アンドレ王子殿下、最近は少し根を詰めすぎではありませんか?息抜きに、お出掛けになるのもよろしいかと……」
そんなアンドレを侍従が心配そうに見やる。
イブに会えないこの数日、ずっと揺れ続ける感情。どうするのが正解なのかと、延々と悩み続けるばかりだ。
自分の気持ちがここまで儘ならないものだとは……。
執務机の引き出しを開ける。読むのを先延ばしにしたエヴァからのお礼状。
先延ばしを嫌う自分が開封することができないでいる、優しいベージュの、花が型押加工してある上品な封筒。
中々開けることが出来ないことこそが、ぐらつく心の象徴のように思えて衝動的にナイフを当て、ふと気付く。
「あれ、この色……」
「アンドレ様のお色ですね。きっと心を込めて、お選びになったのでしょうね」
お茶のおかわりを注いだ侍従が目を留めた。
サミュエルからこれを預かった彼は差出人を知っている。
少し落ち着いている色味のこの封筒。若い令嬢ならばもっと明るい、愛らしいパステルカラーを選ぶはずだ。
このベージュは私の色を選んでくれたのだろうか。
アンドレは地味な淡い茶色の髪と瞳だが光の加減でミルクティーのような柔らかいベージュにも見える。
胸ポケットに手を入れた。いつも、肌身離さず持ち歩いているイブとの会話のための小さな手帳を取り出す。
蔦模様が刺繍された水色の絹で装丁されている手帳。水色のギヨシェエナメルの軸に金色の金具が付いた小さくとも優雅なペン。
それらは帽子の影からちらちらと覗き見えたイブの瞳を想って買い求めたもの。
最後に会えた日。自分を驚いて見上げるイブの、初めてしっかりと見ることができた宝石のような瞳を思い出す。
手帳の頁を捲ると、簡素な言葉だが美しく綴られた文字に愛しさが込み上げる。
イブの字を覚えてしまうほどに、幾度も読み返して見つめた、愛するひとの色をしたこの水色の手帳。
エヴァ嬢も、こんな風に自分を思ってこの色の封筒を選んでくれたのだろうか。
(いや、そんなはずはないな。エヴァ嬢と会ったのは叔父の夜会と舞踏会の二度。夜だけ。私の髪がミルクティー色に見えるのは明るい陽の下でだけだ。実は昼間の行事にも参加していたのか?)
そう思い直すが、それでもせっかく心を込めて書いてくれたであろうお礼状を読まないなんて、失礼なことだ。
意を決して封蝋にナイフを入れる。
扉を叩く音。
近衛を介さずこうして直にノックしてくるのは側近か家族だけ。アンドレは顔を上げた。
「おはようございます。皆さんごきげんよう。本日はお出掛け日和の素敵なお天気ですわね」
おばあ様が、朗らかな挨拶とともに晴れやかな笑顔で登場する。突然の王太后にアンドレ以外の皆が頭を垂れて深くお辞儀する。
「ほら、劇場に行くわよ!着替えなさいデデ」
「……おばあ様ごきげんよう」
一瞬しまったというように額に手をやってから、表情を取り繕ったアンドレが立ち上がって出迎える。おばあ様の後ろには衣装箱を抱えた侍女たちが控えていた。
(今日は母上の侍女たちに捕まらないよう、執務室を出ないつもりだったのに……)
おばあ様がやって来たとあっては隠れて引きこもることも出来ない。
アンドレは観念した。封蝋を剥がしただけの、エヴァからのお礼状を、丁寧に水色の手帳に挟んで懐に仕舞い込む。
「お兄様、あれはなんですか?あ、あちらも気になるわ」
「あれは大道芸だよ。あちらってどれだ?」
馬車の窓から、エヴァが外を見て子どものようにはしゃぐ。
妹の弾んだ様子にサミュエルは目尻を下げっぱなしだ。
舞踏会のあと、鬱ぎ気味なエヴァを心配していた。
それでもあの夜のおかげで少しは出掛けることへの、社交への免疫がついたのだろうか。
「今日一度にあれこれ見るのは無理だからな。これからはあちこちお出掛けしよう。グリにもっと街着も頼んでおかねばな」
「まぁ、お兄様。今日のドレスだってぎりぎり届けてくださったのに申し訳ないわ……」
エヴァと、侍女たちに着こなし方も伝えたい、と出来上がったばかりのドレスを昨夜グリが直々に届けてくれた。
「エヴァお嬢様が、着飾る気になってくださって、これほど嬉しいことはありません。お嬢様の美しいお姿に、なんとインスピレーションの湧くことでしょう!」
キラキラの笑顔で、服だけではなく靴や小物まで揃えてくれていた。
侍女たちに髪型やメイクまでをレクチャーするとグリは満足そうに帰って行った。
ごくごく淡いアップルグリーンのハイネックのドレス。
胸のすぐ下に切り替えのある、ふんわりとエンパイアラインのエレガントなデザイン。艶のあるシルクタフタに紗が重ねてある。エヴァの細すぎるウエストが隠れる為に、色っぽさは昼間仕様に抑え気味。
胸の豊かな女性には太って見えがちで敬遠されるエンパイアドレスだが、そこはグリの手腕か、可憐さと華奢さのほうが強調されている。
結い上げずにおろした豊かな金髪が装飾品代わり。公演の後にどこでも気軽に寄れるようにと煌びやかな飾りは付けていない。
王宮での舞踏会での姿が神々しい美の女神なら、今日のエヴァは初夏に衣替えしたての妖精の姫君、といった愛らしい装いだ。
グリが自信作だと言っていた。エヴァ自身も、若い娘らしい垢抜けた印象が気に入っている。これまで体型のせいで、主には大きすぎる胸のせいで、お洒落出来ないと思い込んでいたのが嘘のよう。
ドレスのおかげで、とても気分が高揚していた。
「グリなら喜んで仕立ててくれるさ。こんなにも可愛いのだから。エヴァは全然服を持ってなさすぎる。カルロの所にも飾り物を、そうだな、今度は注文して作って貰おうか。宝石から選ばねばな。ダイヤモンドもいいが普段用に、色の付いた宝石も可愛らしくていいぞ」
サミュエルは、ドレスや小物を何度も見たり触れたりしてはにこにこと嬉しそうなエヴァが可愛くて堪らない。
これまでは着ないから要らない、とエヴァに念を押されて買い与えることが出来なかった鬱憤に、ようやく弾ける機会が来た。
「お兄様ったら、もう、そんなにお出掛け……しない、から……」
最後まで言い切らずに、エヴァはまた窓の外へと視線を逸らせた。
『イブさんの行きたいところに行きましょう?これから、ふたりでいろんなところに出掛けましょうね』
アンドレの言葉を思い出す。
(アンドレ様と、いろんな所に行きたい……。こんな、可愛いらしいドレスなら、少しは清楚に見える?アンドレ様も気に入るかしら…………)
「どうした?エヴァ」
「ううん、何でもない。あ、お兄様。今日、帰りに孤児院に寄ってほしいの」
「ああ。だからこんなにたくさんお菓子作って来たのか。幕間に摘まむには多すぎると思ったよ」
ハペス劇場は王都一を謳うだけあって、古代の神殿を模した柱の立ち並ぶ壮麗で大きな建物だ。
すでに多くの貴族たちが劇場の入口ホールに集い、素性が分かっているのか、名乗らずともさすがの社交性で賑わっている。
昼間ということもあり大抵の貴族たちの装いもカジュアルで、『仮面舞踏会』の演目から連想するような淫靡さは全くない。仮面も実際の仮面舞踏会やお祭りのような派手なものではなくシンプル。
多くの貴族と同じようなカジュアルなドレス姿のエヴァは、入場した途端に人々の視線を感じた。
兄もエヴァとお揃いの白銀一色の仮面で顔の上半分を覆っているので、シャロン公爵兄妹とはバレていないはずだが、直視はせずとも様子を伺われているのが伝わる。
(なんだか、すごく見られてる?自意識過剰かしら。いつもより、貴族のご令嬢っぽくなったと思ったけど……やっぱり駄目だったかな……)
「エヴァ、同僚に気付かれた。ちょっと挨拶しに行くが、私の傍を離れるなよ」
小声でそう告げたサミュエルは、妹が頷くのを確認すると若い男女の方へと歩み寄る。エヴァは付かず離れずといった距離で後ろに続いたが、その間も見られている感覚がずっとあり、なんだか居たたまれない。
にわかに、騒ぎというほどではないがなにやら言い合うような声が聴こえてきて、人々の視線がそちらへ流れて少しほっとする。同僚と話し込んでいるサミュエルは特に気に留めていないようだ。
手持ちぶさたのエヴァも言い合っている声の方を向いてみた。
よくよく聴いていると片方は外国の貴婦人で、話し掛けられても言葉が通じなくて困っているこの国のご夫妻が、周りに助けを求めているようだ。
「A gaf i eich helpu chi?」
「Byddwn yn gwerthfawrogi pe gallech wneud hynny」
一瞬悩んだが、兄からそう離れていない距離だったのでエヴァは手助けを買ってでることにした。海向こうの小国の言葉は、習得必須の言語ではなく貴族でも知らない者が殆ど。
付き添いとはぐれて、座席の方へ移動したいが入口が分からず傍にいた夫妻に話しかけたらしい。
チケットを確認して、その座席側の入口へ貴婦人を連れて行く。貴婦人が何度もお礼を言うのに華麗なお辞儀をして踵を返すと、先程よりも一層周囲の視線を感じた。
感じた、というよりも明らかに皆がこちらを向いている。
気まずい。しかも思ったよりも兄から離れてしまった。
慌てて戻ろうとすると、進行方向に人が立ち塞がる。
「初めまして、美しくお優しいお嬢さん。よろしければラウンジで、先程の人助けの話でもお聞かせ願えませんか?」
突然のことに、エヴァは固まる。
「いや、ぜひ私と一緒にいかがですかな?美しい人」
「なんとも綺麗な金髪だ。私にその素敵なお髪にあう飾りを贈らせてはいただけないだろうか?」
次々と男性が現れてはエヴァの前の位置を取り合う。すっかり囲まれてしまってサミュエルの姿が見えない。声が、色っぽいせいで聴かせられないというよりもびっくりして出ない。
仮面で顔なんて見えないだろうに、美しいだなんて何を言っているのだろうか……。
はっと我に帰り、争い合う男性たちの横をすり抜けて離れ、急ぎ足で進もうとすると躓いて転げてしまった。
「ひとの婚約者を誘惑するなんて、なんて恥知らずなの」
「わたくしの恋人まで……信じられない」
足を引っかけたのは女性たちのようだ。今度は、くすくすという女性たちの笑い声が聴こてくる。
「引っかけるのがお得意のようですわね。ふふ」
「他国の言葉もお得意でらっしゃるみたい」
「そういえば、花売りというのはお仕事上いろんな言語に通ずるとか」
「そのわりにはお若いご令嬢のようなドレスをお召しですわ。あ、もしや高貴なお方のお連れでらっしゃるとか?」
いつもの侮蔑。嘲笑。
エヴァは座り込んだまま耳を塞ぐ。




