第87話 嵐の皇帝
それは零支部一行がラビットロードに到着する数日前。ある月夜の晩に起こった。
「今宵は月が綺麗ですね」
青白い月明かりに誘われて、彼女は部屋からテラスに出る。純白のドレスに映える黄金のティアラ。月光を浴びてキラキラと輝く銀色の髪。そして愛らしいウサギの耳。美しき獣人の女性は、その宝石のような蒼い瞳で夜空を見上げる。
「お母様も、この場にいらしたらさぞお喜びなされたことでしょう」
亜人の女王ルキナの六番目の娘、カグヤ。
この国で最も美しいと謳われる姫君は、この国で最も尊き建物のテラスで、お月見を楽しんでいた。
「願わくば愛するお母様も、この美しい月をどこかで見ておりますように」
「……姫様」
とカグヤの背後に立つ者がいた。足音はまるで聞こえなかった。気配も声を掛けられるまで微塵も感じなかった。こんな真似ができる従者は、王宮でも限られている。
「お部屋にお戻りください。夜風はお体に毒です」
もっとも、その幼いわりにまったく子供らしくない冷め切った声を聞けば、誰かは一発で分かるのだが。
「コハク。見てごらんなさい。今宵は月がとっても綺麗なの」
「姫様。お部屋に戻ってください。お体に障ります」
声の冷たさが更に一段階下がった。取りつく島もないとはこのことだ。カグヤは内心でため息をつき、肩越しに振り向く。無表情でこちらを見ている、狐の獣人の童女と目が合った。そのくるりとした黄色の瞳に子供らしい小生意気さはなかった。かわりに大人じみたしたたかさがあった。
「姫様がご病気になられたら、世話役である私のお給金に響くので」
この童女の名はコハクという。カグヤの護衛兼世話係だ。小柄な体躯とモフモフの尻尾は可愛らしいが、それ以外は可愛げの欠片もない十二歳である。
「あんな綺麗な満月はそうそう見れるものではないわ。あなたもそうは思わない?」
「左様でございますね。どうぞお部屋の中でご覧になってください」
やはり取りつく島もない。なんなら二百歳を超える自分の母親の方がよほど可愛げがある。ただそれも、生まれつき体の弱いカグヤのことを思ってのこと。決して給金のためだけに言っているのではない。と信じたい。
「姫様。どうぞ中へ」
「……分かりました」
そしてウサギ耳の姫君とキツネ耳の侍女の口論は、今夜も後者に軍配が上がった。もとより意地になるような案件でもない。カグヤは最後にもう一度だけ月を見て、部屋に戻ろうとした。その時である。
…………ツイニ見ツケタ。
ぞくりと肌が粟立ち、悪寒が走った。
「……今、何か言ったかしら」
「?いいえ、私はなにも」
コハクが不思議そうに小首を傾げる。分かっている。これはコハクの声ではない。できれば空耳であってほしいが……
……ツイニ見ツケタゾ。
やはり聞こえる。
血も凍るような。
おぞましい声が。
「コハク! 早く王宮の中に入るのです!」
「ひ、姫様?」
誠に珍しく、コハクが無表情を崩した。いきなり主人が一瞬前とあべこべなことを言い出せば、流石の彼女も少なからず動揺するようだ。しかし残念ながら、今のカグヤにそれを喜んでいる余裕はなかった。
……逃ガサヌ。我ガ愛シノ器。
パタン、とテラスの扉がひとりでに閉まった。
「そんな……」
「姫様、お下がりください!」
獰猛な獣の目で夜の闇を睨みつけ、コハクがカグヤを庇うように前に出る。その手にはいつの間にか短剣が握られていた。
「ただいま王宮にいる全てのワルキューレナイツに念話を飛ばしました! 彼女達がここへ来るまで、私が時間を稼ぎます!」
おそらくコハクにはこの不気味な声は聞こえていない。しかし彼女は本能的に悟ったのだ。途方もない脅威と悪意が、今まさに自分達のもとに迫っていることを。
「つ、月が」
「なんという凶々しい気配……!」
頭上の空に、巨大な黒雲が立ち込める。そして次の瞬間、魂さえも凍りつかせる呪の邪気が、テラスに降り注いだ。カグヤとコハクは一歩も動けなかった。月を覆い隠した漆黒の暗雲は、あっという間に二人を呑み込んでしまった。
この夜、ワルキューレナイツの精鋭達が何者かに惨殺された。
皆が皆、まるで圧倒的捕食者に食い散らかされたようにバラバラになっていた。その余りにも惨たらしい光景に駆けつけた者の半数が嘔吐し、半数が悲鳴と共に気絶した。そして死体すら出てこなかった二名、ラビットロード第六王女カグヤとその侍女コハクは、表向きは行方不明扱いとなった。
その惨劇は、境界の英雄ルキナが王宮を留守にしていたあいだに起こった。
◇◇◇
南大陸・ナスガルド王国。
聖都マニエムの大礼拝堂から、無数のカラスが飛び立つ。それはあたかも不吉な報せを告げるかのように。黒い凶兆の鳴き声が朝の空を埋め尽くした。
「レオスナガル様」
王国の英雄の名を呼び、礼拝堂の扉を開けた者がいた。幻想的な光景さえ感じさせる美麗な容姿。今や冒険士協会の代表格の一人とも呼べる若き女冒険士、銀の聖女エメルナである。
「来たか」
礼拝堂の奥から、ひとりの男が現れた。白と黒で統一した洗練された出で立ち。神秘的な光を宿した紫の瞳。滝のように頭部から流れる白銀の髪。彫刻と見紛うばかりの美丈夫だった。
「遅くなってしまい、申し訳ございません」
エメルナは恭しく頭を下げる。母国ナスガルドの英雄にして協会最高峰のSランク冒険士、そして実の父親である彼に。
「すぐに経つ。お前にも同行してもらう」
「かしこまりました」
必要最低限の言葉しか口にせず、レオスナガルはエメルナの真横を通り過ぎる。そんな父親の背後に、エメルナは影のように付き従う。それは彼女にとって至極当たり前のことだった。
「此度はどちらまで?」
エメルナが慎ましやかに訊ねると。
「北の大地、ラビットロード」
威厳に満ちた声で返答があった。白皙の顔がわずかにエメルナの方を向く。
「今朝早くに、ルキナ殿から一報が届いた」
「これは……!」
言葉とともに手渡された通信端末の画面を覗き込み、エメルナは思わず息を呑んだ。そこにはただ一言、こう書かれていた。
『助けてくれ』
女王ルキナ直々の救難信号。ただごとではない。エメルナの目に動揺が走る。そんな彼女を叱咤するように、ひときわ力強い足音が礼拝堂に響いた。
「我らはただちに現地へ赴かねばならない」
レオスナガルは言った。ただ前だけを見据えて。
「北へ、友のために」
魔滅の英雄。その者、人呼んで嵐の皇帝。




