第86話 ナニか
「あの料理、見た目も味もまんまマッシュポテトだったな」
パーティーの二次会ならぬおかわり会も無事に終わり、各々が膨れた腹と深酒の余韻に浸っている頃。天はひとり会場を出て、小高い丘の上にある休憩場までやって来た。
「こうして見ると、レストランというよりキャンプ場だな」
満天の星空と月明かりに彩られた夜の世界を眺めながら、そんな軽口を独りごちる。頬を撫でる心地よい風。夜気の中で混ざり合った虫の音と草木の匂いが、耳と鼻を癒し、心を落ち着かせる。丘上の休憩処は、色あせた木の屋根に年季の入った野外ベンチが置かれただけの簡素なものだったが、食休みに夜景を楽しむには申し分ない。ただし、天がこの場所に足を運んだ理由は他にあった。
「シャロ」
「ここに」
夜の静寂の中から現れたメイドは、静かに天の背後に控える。
「何か問題はあったか?」
「いえ」
と、音色のような声が夜闇に流れる。
「念のためこの周囲一帯に結界を張っておきましたが、今のところ外部からの接触はありません」
「そうか」
「はい」
報告を終えると、彼女は恭しく一礼した。
「悪いな。こんな時にひとりだけ仕事をさせちまって」
「それが私の使命でございます」
誇りすら感じさせる語り口は心からのものだろう。天は苦笑する。
「そういや、エレーゼ殿はなかなか筋が良かったぞ」
「エレーゼが、でございますか?」
「ああ」
働き者の部下へのサービスは大切だ。天は労いの言葉の代わりに、シャロンヌの最愛の妹、エレーゼの話をすることにした。
「練気を覚える早さも並みじゃないが、なにより『気の扱い』があの三人の中では群を抜いていた。まあ、流石にお前やリナほどじゃないがな。それでも文句なしに優秀と呼べる部類には入るだろう」
「……左様でございますか」
シャロンヌは少しだけ嬉しそうだった。
「あの調子なら、俺達が帰る頃には寝てる間も気が練れるようになっているかもしれん」
「はい」
「長いあいだ生と死の境を生きてきた自己防衛本能が、気を体内に蓄えるという作業を手助けしているんだろ。――と、これは失言だったな。すまない」
「いいえ」
一度目に発した返事となんら変わらぬ穏やかな口調で、彼女は言う。
「暗い記憶でしかなかったあの日々も、妹が大成するきっかけと考えれば、決して無駄ではなかったと思うことができます」
「……あー、それとだな」
少し言い淀み、鼻の頭を掻きながら、天は続くセリフを早口でまくし立てた。
「ついでに『状態異常無効』のスキルも付けておいた。あとで確認してみろ」
「!」
背中越しにシャロンヌが動揺する気配が伝わってきた。彼女の妹エレーゼは重度の瘴気汚染患者だった。そしてゴッドスキル『状態異常無効』は、その名の通りすべてのステータス異常を無効化する。これらが意味するもの、それはこの先もう二度と、エレーゼが瘴気に体を蝕まれることはないという事実。
「マスター……!」
「俺がやりたくてやったことだ」
打ち震えるほどの感謝の念を背に感じながら、この話はこれで終わりと暗に告げる。今さらながら「三人とも」と言い忘れたことをちょっとばかり後悔した。本当は恩着せがましくなるので言いたくなかった。だが言わなければ伝わらないことが世の中には存外多いのだ。実際ラビットロードに到着してから結構粘ったのだが。あまり姉妹で連絡を取り合わないのだろう。全然伝わってなかった。
「……ところで」
すっと、天の声から軽さが消えた。
「シャロ。お前ならもう気づいているだろ」
「……はい」
そしてシャロンヌの声にも重さが宿る。
「ここ数日、嫌な気配がなくならない」
「はい。私も、そう感じておりました」
それがシャロンヌに警備を頼んだ訳。
「俺達が病院を訪れる直前に、ラムの母親の病状が急に悪化したそうだ」
「マスターは、何らかの関係があるとお考えなのですね?」
「まだ断言はできんがな」
ただこれだけは言える。
妖しく輝く夜の星たちを見上げて、天は言葉を紡いだ。
「この国には“ナニ”かいる」




