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第78話 この世界でただ一人

 ――危なかった。


 その人間の女性を見て、天が最初に思ったことはそれだった。


「………………」


 白いベッドの上で眠る女性は、まるでミイラのように痩せ衰えていた。もはや死人同然とも呼べるその有様は、かつて瘴気に晒され続けたシャロンヌの妹、エレーゼを思い出させる。


「……ぅ……」


 まだ辛うじて息はある。だがいつ死んでもおかしくない。そんな状態だ。


 今まさに生と死の境界線上にいるその人物を見下ろし、天は肝を冷やす思いだった。


 ――本当に危なかった。


 ラムの母親が人間だった。その事実もさして気にならないほど、天は肝を冷やし、そして同時に安堵した。


『天達がエクス帝国に滞在していた期間はおよそ一週間』


 真冬との会談や皇族とのトラブルなどを手早く片付け、最低限の事後処理のために要した時間がそれである。


 実際、この滞在期間は延びる可能性も十分あった。


 天は皇帝との謁見を進められ、リナとシャロンヌは戦勝祝いのパレードに参加してくれとも頼まれた。その都度、三十分以内に終わるなら、明日パレードがあるなら、と無理難題をふっかけて断った。だがこれがもし一つでも相手に受け入れられていたら。例えば件の戦勝パレードが一行が帝国を出立した翌日に行われていたら。天はおそらく滞在期間を延ばしていた。あと一日くらいなら、と。


 そしたら確実に間に合わなかった。


 ラムが居るこの病院まで、移動に三日ほどかかる。この事を前もって聞かされていたのも良かった。ならば観光などしている暇はない。天はすぐさまラビットロード行きのチケットを人数分、真冬に手配してもらった。それが帝国を出発する前前夜の話である。


 自分でもせっかちな性格だと思う。だが同時に、今ほど自分がこんな性格で良かったと思ったことはない。


 天は直ちに開始する。己が主神、生命の女神フィナとの交信を。神具《生命の玉》を使用する準備を。完全に予定外の負担だが、天は迷わなかった。躊躇わなかった。


「天さん。お母さんが、お母さんが……!」


「大丈夫だ」


 今一度そのセリフを口にすると、天は自分にすがりつくラムの肩を一度叩いた。いずれにせよ、この娘の母親を見捨てるという選択肢は、天の中には存在しなかった。



 ◇◇◇



「どなたかは……存じませんが……わたしはもう……助かり、ません……」


 その声はひどく弱々しく、それでいてどこか強い意志を感じさせる声だった。


「この病いの名は……ペイル病……不治の病です……」


 彼女はまるで、命そのものを燃やして話しているようだった。


「です、から……わたしはもう……助からないのです……」


「俺は生命の女神フィナ様直属の英雄だ」


 全ての運命を切り裂くように、彼は言う。

 次の瞬間、清らかな陽光が辺りを包んだ。


「……この、光は……」


「フィナ様の癒しの奇跡。この力があればたとえ不治の病でも、治療は可能だ」


「……」


「すぐに終わる。直ちに始めよう」


「その必要は……ありません……」


 一瞬の静寂。そして。


「……何故だ」


「わたしの、運命は……もうすでに決まっているからです……」


「俺の話が、信用できないと?」


「そうでは……ありません……」


 彼女は最後の力を振り絞るように言った。


「ペイル病の発症者が……この世に現れる数は……時代に千人と言われています。その中で、わたしひとりが生き延びるわけには……いきません」


「なるほど、貴女は確かにラムの母親だ」


 彼は納得するように小さく息を吐いた。


「あなた様は……その千人すべてを……お救いくださいますか?」


「いいや、それは俺でも不可能だ」


「……でしたら、やはり……わたしだけ助けてもらうわけには……」


「勘違いしてもらっては困る」


 冷たい鉄の声が病室に響いた。


「俺が助けるのは貴女ではない」


 彼はそう断言して、こう続けた。


「そもそも助けるのも救うのも、俺ではなく貴女のほうだ」


「……?」


「ここに来る途中、ひとりの看護師に言われた――これからある少女がこの世で唯一の肉親を失い、天涯孤独の身となると」


「……!」


「その少女は俺の恩人だ」


 と、強い思いを込めて。


「できることなら助けたい。だが生憎と彼女の親兄弟でもない俺が、その孤独から彼女を救うことはできない」


「……」


 彼女はゆっくりと瞼を開けて、彼を見た。


「確かに貴女が言うように、貴女と同じ不治の病に冒された者は、この世界に千人いるのかもしれない」


 彼は静かに燃える瞳で、


「だがラムを救うことができるのは、助けることができる者は、この世界でただ一人――貴女だけだ」


 彼女を真っ直ぐに見返しながら。


「どうか俺の恩人を助けてやってくれ」


「…………」


 しばしの沈黙の後、彼女は困ったような微笑を浮かべた。


「あなた様は……ズルい人、ですね」


「よく言われる」


 彼は不器用な笑みを返すと、傍らで祈るようにそのやり取りを見守っていた隻眼の少女の頭に、ポンと手を置いた。


「今ならサービスでこの子の左目も治そう」


 そして彼は片眉を上げて、こう言った。


「まさか大切な一人娘に、このまま片目でいろなんて言わないよな?」


「……本当に、あなた様は、とてもズルい人です……」



 ◇◇◇



 ――白光。


 それはあまりにも眩く、美しい光だった。


「なによ、今の⁉︎」


 第二病棟の通路を駆けながら、アンナが叫んだ。薄暗い廊下を白一色に塗りつぶした光の爆発。ただごとではない。アンナはその病室に向かいながら、羊の婦長にこの事態を報告しに戻ろうか、一瞬本気で考えた。


「あ、治療が終わったみたい」


「はああ⁉︎」


 アンナは思わず苛立った声を上げた。後ろを付いてきていた昔馴染みの悪友が、緊張感のない声でトンチンカンなことをのたまったからだ。


「まあ、行けば分かるのです」


 そして全てを見透かしたように悪友は笑った。その態度にもなんとなく腹が立った。昔はそんな笑顔見せたことなかったのに、とかそういうベタな感想の前に、とりあえずムカついた。


「兄様、あの光はっ!」


「ああ、天の奴やったんだ!」


 さらに後ろから付いてきていた美少女姉妹も何やら喜んでいたが。アンナにはやはりそれが理解できなかった。なぜそんな気分になれるのか、分からなかった。だって……


「……ペイル病が治るわけないじゃない」


 アンナは呻くように呟いた。これまでその病魔に冒された患者さんを、幾人も看取ってきた。それと同じ数だけ絶望し、深い無力感に苛まれてきた。現実はいつだって残酷だ。この仕事に就いて、それを嫌というほど思い知らされた。この世にはどうしても変えられない運命という奴が、確かに存在する。そうだ。突然現れた得体の知れない男が不治の病を治してくれる。そんな都合のいいことがこの世の中にあるものか……



「おかぁああああさーーん!!」



 その時。

 廊下の奥から聞こえてきた、それは。

 紛れもなくあの()の泣き声であった。


 ……まさか、そんなことって!


 アンナは看護師だ。その声色を聞けば、相手がどんな気持ちで涙を流しているかすぐに分かる。悲しんで泣いているのか、辛くて泣いているのか、それとも――。


「ひぐっ、おがぁさん、おかぁああさん!」


「本当に、あなたはいつまで経っても泣き虫ね……ラム」


 違う。彼女はようやく泣けたのだ。やっと泣くことができたのだ。嬉しくて嬉しくて、ただ嬉しくて。これまで我慢してきた分の涙を、今流しているのだ。


「……ラムちゃん……」


 502号室の扉を開けたアンナは、しばし呆然と見入っていた。その宝石のような光景を。月の光の中で抱き合う、母と娘の姿を。


「ひとつ頼みがあるんだが」


 不意に聞こえたその声に、驚くことはなかった。その青年がなるべく目立たないように病室から出てきた一部始終を、アンナはしっかり目撃していた。


「彼女は俺が世話になった先輩でな」


 と前置きして。彼は母の胸に抱かれ泣きじゃくる少女を顎で示しながら、こう言った。


「このあと病院側を納得させるために、一緒に動いてはもらえないだろうか」


「……」


「俺達だけだと、ちと骨が折れそうでな」


「……そんなの……」


 アンナはズビッと鼻を鳴らし、じろりと彼を見た。


「協力するに、決まってるじゃあないですかっ!」


 そんなことは、言われるまでもない。

 だってあの娘は、私の可愛い後輩でもあるのだから。


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