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第76話 病室は

 運命を呪い嘆くような、若い女性の声が上がった。


「いくらなんでも早過ぎますよ!!」


 夕暮れ時の比較的静かな時間帯ということもあって、ナースステーションから聞こえたその悲痛なる叫びは、院内の隅々まで反響した。


「静かにおし。ここは病院だよ」


「で、でもっ」


 狭いが清潔感のある小部屋には、ふたりの獣人の女性看護師がいた。


「いずれこうなることは分かってたんだ。今さらギャーギャー騒ぐんじゃないよ」


「でも、でも……!」


 羊の角を生やした熟年の看護師長は、大先輩の貫禄で若輩の未熟を咎める。しかしどうしても納得いかないと、犬獣人の看護師、アンナは言った。


「これじゃあ、ラムちゃんが可哀想すぎますよ!」


「あの子だけを特別扱いするんじゃない。これは前にも言ったことだよ」


「でも、たった一夜で病状がステージ3からステージ5に進行するなんて、そんなのあんまりじゃないですか⁉︎」


「前例がないわけじゃあない」


 ぴしゃりと言って、婦長は毅然とこう述べたのである。


「それにどのみち助からないんだ。下手に生きながらえて苦しむよりは、このまま眠るように逝ったほうが本人にとっては幸せかもしれないよ」


「ちょっ、そんな言い方――ッ」


 アンナはかっと頭に血をのぼらせて、思わず身を乗り出した。だが。


「確かに今の言い方はないね」


 大ベテランの看護師長がすんなり自らの非を認めてしまった為、アンナの怒りは早々に行き場を失った。


「あの子のことを考えたら、間違っても口にしていい言葉じゃなかったね。反省するよ」


「婦長……」


 アンナの頭は完全に冷えた。あのいつも厳しい上司が自責の念に駆られている。それはアンナにとってあまりにも意外すぎる光景だった。


「どうだい、少しは落ち着いたかい」


「へ?」


「落ち着いたんなら、早くあの子のところに行っておやり」


「!」


 婦長の言葉に、パチパチと瞬きを繰り返すアンナ。まさか今までのやり取りは全部計算尽くだったのか。アンナはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。


「婦長っ」


「さてね」


 と、羊の婦長はアンナに背を向けた。


「ああそれと、くれぐれも親子の最後のひとときを邪魔するんじゃないよ。あんたの出番はその後だ。そこんとこ間違えないようにおし」


「分かってますよ!」


 つい声を荒げてしまったが、アンナの心は感謝の気持ちで満たされていた。


「ラムちゃん……!」


 そして犬の看護婦はナースステーションから飛び出すと、すぐさまその少女のもとへ駆けつけようと病院の廊下を強く踏み出した。


「――あの、すみません」


 背後から呼び止める声が聞こえたのは、そんなタイミングでのことだった。



 ◇◇◇



 もう、なによこんな時に!


 アンナは喉元まで出かかった言葉をギリギリで飲み込む。ここは病院だ。そして自分は看護師だ。ならば何をおいても果たさねばならない責務がある。すべては患者さんのために。無論その対象は個人ではない。婦長の言葉ではないが、一人だけを特別扱いはできないのだ。アンナは一度深呼吸して気持ちを落ち着かせると、いつもの白衣の天使スマイルでそちらを振り返った。


「どうかしましたか?」


「ちょっとお訊ねしたいことがあって」


 その瞬間。


「「ん?」」


 アンナと声を掛けてきたその人物の反応が完全にシンクロした。


「あんた、まさかリナ?」


「もしかして、アンナ?」


 アンナの営業スマイルと言葉遣いが一瞬で崩壊する。だがそれも仕方なかった。なにせ相手はアンナにとって幼馴染とも悪友とも呼べる存在、子供の頃からの顔なじみだった。


「何であんたがこんなとこに居るのよ⁉︎」


「それはこっちのセリフ、なのです……」


 二人の犬耳娘は揃って顔を顰める。 久方ぶりの再会であったが、お互いきゃっきゃうふふとじゃれ合う間柄でもない。むしろどちらかといえばお互いの黒歴史を知っている者同士、なるべく会いたくないというのが双方の本音だろう。


「ここまで近寄られてあんたの匂いに気づかなかったなんて、一生の不覚だわ」


「それもこっちのセリフなのです」


 元レディースの総長と副総長は、廊下のど真ん中で微妙な空気を漂わせる。


「看護師になったのは知ってたけど、アンナの勤め先がこの病院だったなんて……偶然って怖いのです」


「どうだっていいでしょ、そんなこと」


 吐き捨てるようにそう言うと、アンナは苛立ちを込めた目で旧友を見やる。


「で、聞きたいことってなによ。私、今すっごく急いでるんだけど」


 羊の婦長がこの場にいれば、確実にゲンコツが飛んできたであろう塩対応。しかしリナはとくに気にする様子もなく、さらりとそれをアンナに告げる。


「この病院に、ラムっていう猫獣人の女の子がいるって聞いたのです。その子に会いに来たの」


「ッ!」


 アンナは思わず息を呑んだ。対するリナは平常運転で言葉を重ねる。


「もっとも、あたしがっていうより、あたしの仲間がその子に用があるんだけど――」


「――帰って」


 五年ぶりに再会した友人の言葉を遮り、アンナは冷然と言った。


「リナ。悪いけど日を改めてくれない」


「はあ?」


「そうね、できれば三日後かそれよりもあとに来てくれない。彼女に伝言があるなら、私から伝えておくわ」


「……よく分かんないけど、なに勝手なこと言ってんのお前?」


「お願いよ、リナ」


 最後は強い口調で。狂犬の貌を見せて凄むリナに、しかしアンナは引かなかった。ややあって、リナはナイフのような鋭い目つきを引っ込め、代わりに特大の溜息を披露する。


「はぁぁ、まずは理由を聞かせるのです」


「……あの子、今すごく大変な状況なの」


 アンナは沈痛な声で言った。次の瞬間。


「ラムがどうかしたんですかッ⁉︎」


「ラムちゃんに何かあったのですか⁉︎」


 驚くほど容姿の整った二人の少女が、リナの背後からドタバタと足音を響かせ、血相を変えた表情でアンナに迫った。そして――。


「俺達は以前、彼女とパーティーを組んでいた者です」


 いつの間にか、ひとりの人間の青年がリナの隣に立っていた。


「よろしければ、今彼女が置かれている状況を教えていただきたい」


「は、はい」


 その不思議な迫力に押されて、アンナは反射的に首を縦に振ってしまった。



 ◇◇◇



「ラムの母親が『ペイル病』に……!」


「それも病状がステージ5なんて……」


 彼女達は、まるで自分のことのように悲痛な表情を見せていた。ペイル病は死の象徴とまで言われる不治の病だ。仲間の母親がそのような難病にかかっていたことが、相当ショックだったようだ。


「確かラムちゃんのご家族は、お母様おひとりだけですわ……」


「……あいつも辛い思いをしてたんだな」


 憂いを帯びた声で囁き合う、二人の黒髪の乙女。その背後に浮かぶ薔薇の幻影は果たして本当に目の錯覚なのだろうか。よくアンナのような若い看護婦達のことを白衣の天使と呼ぶ患者さん――大概が中年オヤジ――がいるが、こちらはまさに本物の天使、そう見間違うような美貌を少女達は備えていた。


「彼女のお母さん、昨夜に容体が急変したんです」


 こんな時でもなければ平静を保っていられなかっただろう。しかして今のアンナはラム親子のことで頭がいっぱいだ。それ以外のことで心を乱している暇などない。


「担当の先生がおっしゃるには、多分明日の朝は迎えられないだろうって……」


「「……」」


 少女達の顔がより沈痛なものになる。どうやら分かってくれたようだ。ラムの事情を。そう。あの子はこれから最愛の母の最後を看取らねばならない。身が引き裂かれるほど辛い体験をしなければいけない。しかし同時にそれは母娘の最後の思い出づくりの場でもあるのだ。


 だから絶対邪魔をさせる訳にはいかない。


 ラムが一日でも早く立ち直るには、目の前にいる彼女達の力も必要となるだろう。だがそれは『今』じゃない。少なくともこれだけはハッキリしている。


「――病室は」


 静まりきった白い廊下に声が響いた。


「その母親がいる病室を教えてくれ」


 口を開いたのは、これまでじっと黙っていたあの青年であった。


「あ、あんたッッ‼︎」


 視界で火花が散った。怒りのあまりレディース時代の自分が顔を出す。今の話を聞いてなかったのか。この無神経男が。そんな罵声が喉元まで出かかった。


「頼む」


 だが、我を忘れそうになるほどの怒りはたちどころに鎮火した。深く腰を折り発せられた青年の言葉は胸の奥に届くものだった。アンナはちらりと彼の横に立つ悪友を見る。ごれでもかと真剣な顔で頷かれた。犬の看護婦は重い溜息をひとつ。そして窓の外をすっと指差した。


「……502号室。向こうに見える緑色の屋根の病棟の二階フロアにある、一番奥の病室です」


「感謝する」


 それだけ言うと、その青年は現れたときと同様に、いつの間にか姿を消していた。


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