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第69話 弓使いの英雄譚

「……直線距離でおそよ800ほどか」


 小高い丘の上に立ち、カイトは川と緑に囲まれた街道を一望のもとに見渡す。そして自分の現在地と標的との間合い、今幼い冒険士達が置かれている状況、それらすべてを瞬時に把握した。


「カイト様!」


 慌てた様子で駆け寄ってきたのは動力車を運転していたサリカだ。カイトはそちらを振り向かなかった。彼女が何を言いたいのかは分かっていた。


「あのまま動力車で向かわれた方が良かったのではッ」


「それだと間に合わない」


 激しく狼狽の色を示すサリカに、カイトは断言した。仮にここから動力車で向かったとして、あの子達のもとに辿り着くまで少なとも数分はかかるだろう。直線距離で約一キロということは、普通に街道を走れば単純に考えてそれより大分距離があると見るべきだ。最短でも三分、下手をすれば五分。それでは間に合わない。


「グロロロロロロロロロロロローーッ‼︎‼︎」


 かの魔物は、目と鼻の先で怯えすくむ少年と少女を今まさに蹂躙しようとしているのだから。


 ……本当に怖いぐらいあの時と一緒だな。


 その光景を見下ろしながらカイトは当時のことを思い出す。以前ライニア街道でリザードキングと相対した時の話だ。天は今と似たような状況下で、やはり動力車から降りて淳とラムを助けに向かった。だがそれは、天の並外れた脚力でもって、自分自身で走った方が早かったからだ。あれは天だからこそできる芸当、救出劇である。


 ――だけど今この場に彼はいない。


 カイトはそっと瞼を閉じて呼吸を整える。

 あの時は、自分ひとり何もできなかった。

 だが今は違う。否違わなければならない。

 カイトは数秒にも満たない時間で覚悟を決めると、カッと目を見開いた。


「ひ、ひぅっ」「た、助け、て……」


 あの幼い二人の冒険士を救うには、もうこれしか方法はない――。


「この場所から奴を仕留めます」


「ここからでございますかっ⁉︎」


 正気ですか、とも取れるサリカの言。魔法国家ミザリィス皇国出身の聡明なエルフの淑女は、感情を抑えることも忘れて訴えるような声で言う。


「ここまで距離が離れていては、どのような魔技も届きはしません!」


 そう。この距離は明らかに魔技の射程距離外である。しかし。


「魔技は使いません」


 きっぱりとそう言うと、カイトはとある武器をその手に顕現させた。


「そ、それは……!」


 サリカから息を呑む気配が伝わってくる。

 カイトの手には一張の弓が握られていた。


 《神宝器(セフィラスフィア)赤凰弓(せきおうきゅう)


 紅蓮の煌きを放つその弓はあまりにも圧倒的な存在感に満ちていた。それこそ一目見れば伝説級の武具と分かるほどの。サリカが絶句するのも無理はなかった。


 ……できれば人前ではあまり使いたくなかったけど。


 その心とは裏腹に、カイトは淀みのない動作で弓を構える。それは天が神界より持ち帰った二つの武器のうちの一つ。生命の女神フィナより授けられた地上で四つ目となる最上級レアリティ装備、弓の【神宝器】である。


『これは儂の筆頭眷属じゃった赤陽(シャクヨウ)が愛用していた弓での。まあダーリンは使わんじゃろうが、そのうち何かの役に立つじゃろ。そうじゃな、たとえば我が生涯の伴侶が選んだ相棒、その者の武器にピッタリかもしれんぞ』


 美の女神のウインクと共に授けられた武具とあわせて、天は神々の至宝たる青の刀と赤の弓を地上に持ち帰った。


 このうち青の刀《月青刃》は、天の従者であるSランク冒険士シャロンヌが。


 そして赤の弓《赤凰弓》は、今カイトの手の中にある。


 ――見ていてくれ、父さん。


 カイトはすっと弓の弦を引いた。今は亡き父の背中を脳裏に浮かべて……。



 ◇◇◇



 カイトの父コルトは、ランド王国でも指折りの弓の名手であった。


 百の距離から虎をも仕留める。


 平民出身でありながらその弓の腕を当時の国王に認められ、コルトは王国騎士団の副団長を務めた。また妻を早くに亡くしたコルトは、男手一つでカイトを育てた。コルトはひどく寡黙であったが、高潔な魂を持った男でもあった。そんなコルトはカイトにとって自慢の父親であり、誇りそのものだった。


 いつか自分も父のような弓使いになる。


 カイトは幼い頃から父親の背中を追いかけるようにして育った。弓の的当ての記録が伸びるたびに城まで押しかけ、勤務中の父親に報告するような子供であった。そんな少年カイトが父コルトに不信感を持つようになったのは、彼が突然騎士団を辞めた時からだ。


 あれは王の器ではない。


 あろうことかコルトは、自分が忠義を尽くすべき相手を批判し、城を去ったのだ。その人物はコルトの妹達の夫でもあった。周囲は自慢の妹二人をいっぺんに取られた腹いせだろうと言った。カイトもそう思った。あの厳格だった父が、なんと女々しいことか。カイトは子供ながらに父親に幻滅した。そしていつからか、弓の稽古もやめてしまった。


 それから月日は流れ、コルトが騎士団を辞めてから十年余りが過ぎた頃。


 城が邪教徒に襲撃された。そして王妃クリアナが奴等に連れ去られた。この凶報は瞬く間に国中に広がった。


 しかし驚くべきはその後だ。


 ランド王家は国の英雄が攫われてから一月も経たぬうちに、クリアナ王妃の捜索を打ち切ったのだ。しかもその決定を下したのは他ならぬ彼女の夫、国王アルトだという。


 この時もコルトが腰を上げることはなかった。


 カイトは城まで抗議に行こうと何度もコルトに呼びかけた。しかしコルトはまるで動こうとはしなかった。騎士団を辞めた後、確かにコルトとクリアナ姉妹はある種の絶縁状態となった。だがそれでも実の妹が賊の手に落ちたのだ。なにより国の一大事に粛々と山守を続けるコルトを見て、カイトは父を薄情者だと思った。


 だがその考えは誤りだった。


「城へ行くぞ、カイト」


 ある日。コルトが山を降りてカイトのもとまでやって来た。当時すでに冒険士だったカイトは父親とは暮らさず、街で宿屋住居を続けていた。カイトはいきなり訪ねてきたコルトを最初は訝しく思った。あれほど自分が誘ったのに、なにをいまさらとも感じた。だがそれよりも、肩を怒らせて拳を握りしめるコルトに気圧された。これほどまでに怒りを露わにした父を、カイトは一度として見たことがなかった。


 父と共に城の前まで行くと、幼い少女と若い騎士が寄り添うように立っていた。


 コルトとカイトが近づくと、幼い少女は何かに怯えるように身を強張らせ、若い騎士はいきなりその場で土下座した。騎士の名は暁グラスといった。カイトはグラスの行動にも驚いたが、それ以上に彼が語った言葉に思わず耳を疑った。


 本日をもって、自国に災いをもたらした青髪の王女をランド王家から追放する。


 およそ馬鹿げた話である。貴人達の誘拐事件は全世界で同時に起こったことだ。それを一個人の、それも呪いのせいなどと。要は体のいい責任転嫁である。つまりこの国の王侯貴族たちは、母を奪われたばかりの幼い姫君を生贄にしたのだ。そしてその中には彼女の父である国王と、コルトの妹である第二王妃も当然含まれているはずだ。コルトが激怒するのも無理はなかった。カイトも、それまでほとんど顔を合わせたこともない従兄妹が不憫でならなかった。


 コルトは怯えきった少女の肩に手を置いて言った。


「うちへ来るんだ。今日から私とカイトが君の家族となる」


 青髪の呪いなど存在しない。たとえあったとしても自分には関係ない。コルトはすがりつくようにして泣きじゃくるアクリアを腕の中に抱きすくめた。カイトはその父の背中を見て、自分の愚かさと父の正しさをようやく理解した。コルトは誰よりも早く見抜いていたのだ。王家の腐敗と祖国の歪みを。


「ふざけるな! こんなもので、貴様らが犯した罪が少しでも軽くなると思うな!」


 その後、第一王妃となったリスナから、毎月のように多額の養育費が送られてくるようになった。しかしコルトは一度としてそれを受け取らなかった。今思えば、その金さえ受け取っていれば、父が生活難で危険な狩猟に手を出し、命を落とすこともなかったのかもしれない。


 だがそんな父だからこそ、カイトはその背中を追いかけ、目標にしたのだ。


 矢のように真っ直ぐで、曲がったことが大嫌いだった寡黙な騎士。


 コルトは今もなお、カイトの中で誇りであり続けている。



 ◇◇◇



 ……見ていてくれ、父さん。


 カイトは鋭い視線で敵を見据え、矢を引き絞る。


「グロワォオッ!」


 眼下には荒ぶるドラゴン型のモンスター。カイトは呼吸をするように狙いを定める。自分でも驚くほど落ちついていた。一度は弓を置いた身であるが、不思議と微塵も不安を感じない。通常なら届かせることすら困難な距離だが、なぜだか外す気がしなかった。


 カイトの父コルトは、百の距離で虎を仕留める弓の名手と言われていた――


「――ならば俺は、千の距離で竜を落とす」


 そして風を切り裂く音があった。赤の閃光が空を疾る。それは音速をはるかに超える速度。一直線に放たれた矢は、あたかも決められた運命を辿るかのように、魔物の頭部に命中した。


 …………ドサッ


 リザード種の王は、首から上を消失し、枯れ木のごとく地に倒れ落ちる。


 ――この日――


 ランド王国にひとりの弓使いが誕生した。

 その者、弓の常識をことごとく塗り替え。

 やがて全大陸にその勇名を轟かせていく。


「……リザードキング、討伐完了」


 天下に並ぶものなしと謳われる弓使いの英雄譚は、ここから始まったのだ。


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