第32話 昨夜のこと
それは昨夜のこと。
「じゃあ、俺達はこれで」
と、軽く手を上げてスタスタと歩いていく見た目は十代な中年男。ミレーナの首から奴隷の首輪を取り外し、そのまま彼女の住まう一堂家の別邸を去ろうとするまでの動きに一切の迷いがない。いっそ清々しいほどさっさと帰ろうとする天に、彼の右腕たるメイドを除くその場にいた全員が呆気に取られた。だが当の本人は「それが約束だしな」と極めて平常運転だ。とりあえずマリーとはあとで合流すればいいか、淳達の方は明日にまわすしかないな、今夜はどこの宿に泊まろう、などなど。紫髪の耳長メイドとこの後の打ち合わせをしながら、天は逃げるように部屋を出て行った。
「お待ちください花村殿!」
しかし慌てて後を追いかけてきたミレーナの夫、知尚に捕まり、泣きつかれ、天の逃亡はあえなく失敗に終わった。
「宿の手配ならば私にお任せください! なんならこの屋敷の部屋を好きに使ってくれて構いません! 使用人には私から話を通しましょう! 娘たちにも文句は言わせません!とにかく、愛する妻を救ってくださった大恩人をこのまま帰すなど言語道断ですッ‼︎」
こういう空気苦手なんだよ、と頭を掻きつつ。しかしあとから来たマリーやジュリ達にまで懇願されては、天も首を縦に振るしかなかった。
「ジュリさんが一緒なら、二十四時間いつでも淳さんをお見舞いできますわ」
夜に奇襲をかけずとも、朝から堂々と正面突破でいきましょう。きりりと眼鏡を持ち上げながらそう主張する敏腕秘書さんに、しかしその作戦にはとてつもない穴があるとはとても言えない天であった。
「とりあえず、あいつらにも言っておかないとな」
外に残してきた二人の仲間に急な予定変更のお知らせを伝えるべく、それと気晴らしも兼ねて、天はすっかり暗くなった夜道をひとり歩いていた。すると、月明かりの下で固く握手を交わす、ツルピカの騎士とやけに凛々しい犬娘の姿が目に映った。
「リナ殿。貴殿はなんと素晴らしい御仁なのか!」
「そんなに持ち上げられたら照れるって、ハゲ兄」
いつの間に意気投合したのだ、というありきたりな感想は抱かなかった。自慢の一番弟子はコミュ力の化け物である。彼女にかかれば、女が大の苦手な成人男子でも、打ち解けるのはそう難しいことではないのだろう。ちなみに『ハゲ兄』というのはもちろんグラスの愛称なのだが。これについてはリナが考えたとは言い難い。というのも、端的に言うとこの呼び名はグラス本人が自分から言い出したことなのだ。
「うーん。このまま名前が無いとちょっと不便なのです」
「ならば、小生のことは『ハゲ』とでもお呼びくだされ」
「……え?」
「この剃りあげた頭はいまや小生の誇り。なんの遠慮もいりませぬぞ。はっはっは」
新メンバーからの実に困った申し出に、最初はリナも渋ったという。だが本人がそういうならと、彼女お得意の語尾に兄を付け足すという対処法でなんとか切り抜けたそうだ。その柔軟性と適応力は流石としか言えない。それとこれはどうでもいい余談だが、天はこの日から「ハゲ」という単語をむやみやたらと使えなくなった。
「え! あの〔リザードキング〕を倒したのって天なの⁉︎」
「生命の女神フィナ様直属の英雄……あんな芸当ができるんだし、只者じゃないとは思ってたけど……てゆーか、なんでそんな大物がお姉達なんかとパーティー組んでたのよ?」
深夜。あてがわれた客室に騒がしいハーフエルフの姉妹が訪ねて来た。なんでも母親と父親があまりにもイチャつくので避難してきたらしい。なぜ俺の部屋? と疑問に思わないでもなかったが。仕方ないので部屋に招き入れて色々とぶっちゃけトークをしてやった。ちなみにツインテール娘の顔の腫れは、この時にはすっかり消えていた。おそらくは彼女の仕業だろう。きちんと反省してることだしと説教交じりに姪を治療する教育エルフさんの姿を思い浮かべ、天は思わず苦笑した。
「今日はこちらに泊まっていく。それと、くれぐれもお客人方に粗相のないように」
「「かしこまりました、旦那様」」
尚、この屋敷の使用人達はとうの昔に買収済みだそうで、執事もメイドも仲良く知尚の忠実なる部下とのこと。家の目を盗んではしょっちゅう愛妻に会いにくる主人に鍛えられているためか、二人の使用人は知尚の急な申し出にも「またですか」程度の反応しか示さずに、手早く偽装工作を済ませた。それと並行して瞬く間に人数分の食事と部屋も用意して見せた。ついでにベッドメイキングも完璧である。その仕事ぶりは思わずチップを支払いたくなるほどだった。
「あのたぬきおやじ! ボクらに内緒で週二でお母さんに会いに来てたとか、ほんと信じられないのだよ!」
「ねー。お姉はともかく、せめてアタシには一言あってもいいよねー」
「はあ⁉︎ それどういう意味よ!」
「そのまんまの意味」
そんなやり取りが数えて10回を超えたあたりで、天はこっそり洗面所に行き、歯を磨く振りをしてドバイザーの通話機能を使用した。数秒後。
「あなた達、今がいったい何時か分かる?」
般若のような顔をした怖い怖いエルフの叔母様が部屋に現れた。そして恐怖のあまりフランス人形よろしく客室の飾り物と化した姪姉妹の首根っこを引っ掴み、そのまま回収していった。一拍置き、天は何事もなかったかのように部屋の明かりを消した。
◇◇◇
「マスターのお食事のご用意は私の役目ですので」
朝。朝食とは思えぬ豪勢な料理が屋敷の食卓を彩った。みずみずしいサラダ。ゆで卵にカリカリのベーコン、ソーセージ。脂の乗った白身魚のムニエル。湯気の立ったクリームシチュー。焼き立てパンの甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。食堂に集まった一堂家の面々は揃ってその光景に目を見張っていた。
「すごいお料理ね……それにこの感じ、なんだかとても懐かしいわ」
そんな豪勢な食卓を囲んだ家族の輪の中には、首に水色のストールを巻いたミレーナの姿もあった。
「こんな日がまた来るなんて、本当に夢みたいだわ……」
「さあミレーナ。席に着こう。せっかくの料理が冷めてしまう」
「あ、じゃあボク、お母さんの隣の席ね!」
「は? お母様の隣はアタシの席だから」
おそらくそれは約十一年ぶりとなる家族皆での食事。昨晩はミレーナが先に済ませていたため実現しなかったが、次の日の朝にはそれがあっさり現実のものとなった。そして天は知っている。シャロンヌが朝早くから起きて屋敷の厨房に籠っていたことを。おおかた主人のためという大義名分にかこつけ、この祝いの席に華を添えたのだろう。まったくもって粋なメイドである。
「トモ君。はい、あーん♪」
「はははは、まいったな〜」
ただし、このサプライズは約二名には効果がありすぎたようだ。昨夜からその片鱗を見せてはいたが、ついに夫婦は仕上がってしまった。幸せオーラ全開の新婚さんモードに。大勢の客人の前だというのに。いやむしろ見せつけてやるとばかりに。ミレーナと知尚は完全に二人の世界に旅立った。
「姉さんも義兄さんも……少しはまわりの目を気にしてちょうだい……」
「うう……勘弁してほしいのだよ」
「なにコレ……新手の拷問……?」
堪らないのはマリーとジュリとミリー。三人とも耳まで真っ赤にして顔を伏せていた。確かにこれは身内としてはかなりキツイ。とくに母親の反対隣をジャンケンで勝ち取ったミリーなど、早まったという顔つきで小柄な身体をさらに縮こませていた。察するに、いつ自分にも「あーん」のターンがやってくるのではないかと気が気ではないのだろう。とりあえず、彼女達が今後この両親と自ら進んで食卓を囲むことはなさそうだ。
「微笑ましいですな」
ふとそんな声が上がった。天の右隣の席からだ。ちらと横目をやれば、自らをハゲと名乗った光頭の騎士が、はっはっはっと朗らかに笑っていた。朝の食卓に彩りを添える、実に陽気な笑みだ。お前ああいうのは平気なんだな、と天はまた一つ暁グラスの生態を垣間見た。
「……いよいよだな」
食後のコーヒーを飲み終えたところで、天はおもむろに腰を上げた。
外はあいにくの曇り空であった。




