第158話 貴族令嬢の憂鬱
「素晴らしい試合でしたわ」
パチパチと柔らかな拍手の音が、熱気冷めやらぬ舞踏場に響いた。その人物が言葉を発しただけで、場に緊張感と秩序が生まれる。漆黒のドレスに身を包んだ麗しい貴婦人は、まるで舞台の主役のように優雅に歩いてくる。
「楽しめたなら良かったのです」
そしてそんな人物に、唯一リナが気安く対応する。
もともとこの試合自体が、一堂家当主である一堂真冬の提案であった。
真冬は舞踏場に併設されたサロンで試合を眺めながら紅茶を嗜んでいた。時おり愉快そうに微笑みながら拍手を送っていた彼女が立ち上がり、ステージまで移動してきたところである。
「でも、ただの模擬戦なのにちょっとやりすぎちゃったから、そこは反省してるのです」
「お気になさらず。本人が望んだことですもの」
真冬は穏やかな笑みを浮かべつつも、その黒い瞳を爛々と輝かせていた。
「あれ、もしかして本当に楽しんでたり?」
「ええ、それはもう」
「意外なのです。天兄とかシャロ姉ならまだしも、あたしの戦いぶりなんて見ても、そこまで価値はないと思うけど」
「ご冗談を。人型の歴史を塗り替えた『天拳』の試合を間近で見られるなら、いくら払っても惜しくありませんわ」
「なんか照れるのです。でも悪い気はしないし、居候中でお世話になってるから、相手さえ用意してくれたら誰とでもやるのです」
「まあ、では早速手配しましょう」
広々とした舞踏場に二人の会話の声だけが響く。
まるで雲の上のお喋りを聞くように、周囲の関係者が畏怖と尊敬の念を持って二人を見守っていた。
そんな中、唯一ミリーがいまだ気絶中のステラを介抱しながら、ぎりぎり失礼にならない程度のジト目をリナと真冬に向けていた。
「ステラさんも良く戦っていましたわ」
「うん。それはあたしも認めるのです」
ミリーの視線に気づいたという訳でもないが、二人の話題がステラの戦いぶりに移る。
「リナさんから見て、彼女に伸び代はありますか?」
「少なくとも、以前この屋敷で見た時よりは強くなってるのです」
リナはどこかつまらなそうに頭を掻いて続ける。
「剣さばきだけでもBランクの上位、そこに魔技や練気を加えた戦術も取り入れれば、きっとAランク冒険士にも引けを取らない実力なのです」
「まあ素晴らしい。けれど、いかにも続きがありそうな言い方ね」
「はっきり言って頭が固いのです」
リナは気絶しているステラを一瞥して言った。
「多分本人も気づいてないけど、エリート意識が強すぎて魔力の低い獣人を下に見てるのです。だからこっちの得意な肉弾戦で勝負を仕掛けた。初撃で実力差を見せたのに、さらにムキになって突進してきた。才能もあるし努力も認めるけど、あんな戦い方してたらいつか死ぬのです」
「ごもっともですね」
リナの厳しい意見にも真冬はニコニコ顔で頷いている。実際に真冬も『素晴らしい試合だった』とは言ったが『いい勝負だった』とは言ってない。
「リナさ〜ん!」
そこで可愛らしい呼び声が、舞踏場の入口から聞こえた。思わずその場にいた者達が目をやると、聞こえてきた声のイメージにピッタリな、小柄で愛くるしい猫獣人の少女が駆け寄ってくるのが見えた。
「ラム〜」
リナが綻んだ笑みを浮かべる。いつも余裕そうで冷静沈着な彼女がここまで朗らかに笑うのは珍しい。ラビットロードで溜まったストレスに加えて、エクス帝国で足止めを食らっているフラストレーションも癒しの妹分を見れば浄化されていく。
今やラムは、リナにとってもなくてはならない存在になっていた。
「あの、リナさん、お兄ちゃんがお話があるって」
「うん。ありがとうなのです」
リナは差し出されたドバイザーを受け取ると、ラムの頭を優しく撫でる。要件についてはかなり言葉足らずだが、持ち前の察しの良さでカバーできる範囲だ。
通話が繋がった状態の端末を耳に当てて、リナは目で真冬に確認を取る。
会話を中断された挙句、その場で別の誰かと通話するなど、帝国貴族の当主を前にあまりにも非常識な態度だが、真冬はにこやかに頷いた。
それを見ていた周りの使用人達の方が慌ててしまいざわつき出すが、真冬のひと睨みでまたすぐに押し黙り、舞踏場に静寂が訪れる。
『リナか。近くに真冬殿がいるならスピーカーをオンにしてくれ』
まるでその場の状況を把握しているかのような天の言い回しに、リナは苦笑しながら音声通話のスピーカーをオンにする。
天が話し始めると、ラムはあたふたしながら真冬に一礼してからリナの横にくっついた。音声のみの怪しげな男の登場とは対照的に、実にほっこりする光景である。
「ラムと真冬さんの他にも、周りにかなり人がいるけど大丈夫?」
『問題ない』
そのやり取りを聞いていたミリーは、ものすごく耳を塞ぎたそうにする。ただそれをすると、後で真冬に嫌味を言われるのは目に見えてる。
「(……あー、あたしもお姉ちゃんみたく能天気で察しが悪くなれたらいいのに)」
ミリーは内心で自棄気味に愚痴を零した。ここには居ない姉のジュリと、すぐそばで気を失っているステラが羨ましい。ろくな話じゃないことは分かりきっているので、できれば無関係でいたいというのが彼女の本音だ。
「家の者には気にせずお話しください、天殿」
『なら遠慮なくいくぞ、真冬殿』
絶対者二人の楽しげなやり取りに、ミリーは無の表情になる。こうして立場の弱い者が泣かされる。典型的な弱肉強食である。
『例のスタンピード騒動の黒幕だが――』
そして話が本題に入った瞬間、ミリーの胃が小さく悲鳴を上げた。
『黒き魔女だ』
舞踏場の空気が、一瞬で凍りつく。
凛烈な吹雪が吹き荒れたかのようだった。
その場にいる殆どの者が絶句し、呼吸すら忘れたように固まる。
何故なら、その呪い名は――
「不禍の大厄」
リナの言葉が重く響いた。それは文字通り人類史上で最大級の災厄の象徴であり、人では防衛や克服が極めて困難な様々な災難の代名詞である。
中でも『黒き魔女』が関わる事件は規模が尋常ではなく、古来よりこの魔女が現れると、人類に絶望を撒き散らす大災害になりやすいとされている。
ソシスト共和国で起こったスタンピードが黒き魔女の仕業といえば、誰もが納得してしまう、それほどまでに邪悪で恐ろしい存在なのだが……
『こっちは三日以内にケリがつく』
まるでひと仕事を終えた後のような気軽さで、天は言い切る。
まったくその場にそぐわない声のトーンに逆に寒気がする、そんな顔つきになったのは一人や二人ではなかった。
舞踏場に居合わせたほぼ全員が、鳥肌を立てて身震いした。
平気なのはスリルを楽しむように微笑む真冬と、単純に天の声が聞けて喜んでいるラム。
そして現在彼と通話中のリナだけだった。
「相手が黒き魔女なら、この通信もそれなりの確率で聞かれてるかもしれないのです」
『その時は今日中にケリがつくな』
「あ、そっか、これ『釣り』の目的もあるんだ」
『まあ、そっちはあまり期待してないがな。相手が通信を傍受した瞬間に、シャロ特製の探知魔法で居場所が丸分かりになる』
「そうなったら天兄がアジトに行って蹂躙して終わりなのです」
『そういうことだ』
あまりにも物騒な会話に、ミリーの胃がまた小刻みに悲鳴を上げる。
「ねえ、天兄。今回ソシスト共和国で黒き魔女がスタンピードを起こした理由って……」
『ペイル病の特効薬が完成したことへの腹いせだ』
「やっぱり」
リナは呆れたように肩をすくめる。
『あれは元を辿れば奴のペットが撒き散らした呪いだからな。それを打ち消す特効薬の完成は、奴にとってこの上なく面白くないニュースだったんだろうさ』
「冒険士協会が狙われたのも、ペイル病の薬を供給する組織の一つだから……でもそうなると、あたしがこっちにいるのはタイミングが良かったかもしれないのです」
『俺もそう思ってる』
現在ペイル病の特効薬である『ロハンワクチン』を生産して供給できるのは、冒険士協会、帝国軍、世界警察の三つの組織だけだ。そこに国際的にも大きな力を持つ財閥グループ、一堂家がスポンサーとなり多額の資金提供を行っている。
黒き魔女の目的がワクチンの供給網の破壊も兼ねているなら、それを流通させている組織は全て魔女の潜在的ターゲットになり得るということだ。
「つまり、帝国軍と一堂家の本拠地があるエクス帝国は、次の標的にされる可能性が高いのです」
リナの言葉に同意するように、周囲の空気が張り詰める。ミリーだけでなく、舞踏場に集まった一堂家が誇る古強者の使用達の顔も青ざめていた。
数多の魔物を従える伝説の魔女。
その底なしの悪意が、次は自分達に向けられるかもしれない。
恐怖と絶望が場を支配しようとしていた。
しかし、それも一瞬のことだ。
『次はない』
天は事実を述べるように、断言したのである。
『黒き魔女は三日以内にこの世から消える。これはもう決定事項だ』
「うふふふ」
真冬が心から楽しそうに笑う。同じくリナとラムも表情を緩めていた。他の者達はまだ回復に時間がかかっている、というより、この場で笑顔を浮かべられるのはやはりこの三人だけだ。
ミリーは気絶したままのステラのほっぺたをぷにぷにしながら、いよいよ現実逃避を始めている。
『とりあえず、奴がエクス帝国に現れる確率は限りなくゼロだが、奴の手下が一堂家を襲う可能性はゼロじゃない』
「その時のために、あたしが護衛としてここに駐留してる方がいいってことなのです」
パシッと拳を叩いて、リナが鋭い犬歯を剥き出しにして笑う。
『そっちの戦力はどうだ?』
「エメルナさんとブリジットさんがいるから十分だと思うけど。あの二人がいれば、あたしが戦闘に入ってもラムと淳達の守りを任せられるし」
リナの言葉を聞いていた豊かな金髪の美女があからさまに眉をひそめる。
Aランク冒険士ブリジット。
彼女は厄介事に巻き込まれるのも苦手だが、とにかくタダ働きを嫌う冒険士なのだ。
「当然ですが、リナ様とお二方には護衛の報酬を支払わせていただきます。当家が被害に遭うかどうかは別として、了承をいただければたった今より契約を開始いたします」
「そこまで頼まれては仕方ありませんわね」
老執事の瀬川が恭しく頭を下げると、ブリジットが満足した顔で頷いた。そばにいた同じAランク冒険士のエメルナは、肩にかかる銀髪を揺らして友人の調子の良さに溜息をつく。
『ラム。リナが近くにいない時に困ったことがあったらエメルナ殿を頼れ。彼女にしがみついてれば大概のことはなんとかなる』
「はいです、お兄ちゃん。何かあったらエメルナさんにしがみつくですぅ」
やるぞーと可愛らしいポーズをとって答えるラム。それを見て、ブリジットは冗談の通じない友人にこっそり耳打ちする。
「あんなこと言ってますけどよろしいんですの?」
「一向に構いません」
エメルナは真顔で即答する。そのあまりの堂々とした態度に、ブリジットは口元をひくつかせて黙るしかなかった。
「(……もういっそのこと、あの消しゴムを使って記憶を消しちゃおうかな)」
ミリーは今にも燃え尽きそうな笑みを浮かべて、自分が神界で授かった《虹の消しゴム》を使うべきか本気で悩んだ。この消しゴムには額を擦った分だけ対象の記憶を消せる『記憶消し』という機能がある。それを上手く使えば、ミリーはこれまでの不必要な情報を脳に刻むことなく生きていけるのだ。
『これが最後の要件になるが――』
――よし決めた。
次にやばい話を聞かされたら記憶を消そう。
ミリーは密かに決心すると、ドレスの袖に忍ばせた虹色に輝くそれを軽く握り、その時を静かに待った。
『ハルネ村はマトに頼んで直してもらった。村人も全員無事だ。もう引っ越しも終わってる。帰ってきたらみんなで村に行こう。今言ったことを、淳と弥生にも伝えてくれるか?』
「は……、はいですっ!淳さんと弥生さんに絶対伝えますです!」
花が咲くような黒猫娘の声が舞踏場に木霊する。
ミリーは短く息を吐くと、三柱神から授かったアイテムをそっと袖の奥に戻した。
大好きな弥生と世話のかかる淳の名前を出されては仕方がない。貴族の少女は早々に白旗を上げた。
それに――
この屋敷は広いから、私が案内しないとね。




