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第157話 その頃、一堂家の屋敷では

「いきます」


 栗毛のショートヘアを後ろで結び、執事服に身を包んだ瀬川ステラのレイピアが空気を切り裂いた。

 豪華絢爛な舞踏場のシャンデリアが、その軌跡に虹色の光の粒を散らす。ステラの瞳には覚悟が宿り、唇は噛み締められている。


「うん、悪くないのです」


 リナは腕を組んだまま、ゆっくりと腰を落とした。

 犬耳がぴくりと動き、尻尾がわずかに揺れる。

 電光石火の速さで放たれたレイピアの切っ先を、リナは最小限の動きで難なく躱した。


「まだまだ!」


 激しいステップの踏み込みと同時に大理石でできた舞踏場の床が軋む。ステラは肉眼で追えぬほどの連続突きを繰り出した。無数に放たれたレイピアの刃は、まるで豪雨のようにリナに襲いかかる。


 しかし当たらない。


 リナはやはり最小限の動作で、時には紙一枚分の距離でレイピアを躱し続ける。一流のダンサーが相手の動きを完璧に読み、巧みなステップを踏んでいるかのようだ。ステラのレイピアは空中を虚しく切り刻むだけだった。


「速いし動きも悪くないけど――」


 リナは一歩踏み込み、軽やかな動きでステラの懐に入ると、腰の回転を使った右肘で脇腹を打つ。

 ステラは咄嗟にバックステップを使い、相手から距離を取った。その際にちらりと脇腹を見ると、特別繊維で編まれた執事服が焦げたように破れていた。


「――力任せで単調なのです」


 冷や汗がステラのこめかみを伝う。彼女は距離を取りながらレイピアを握り直す。

 一堂家の側近として磨き上げた技術が、世界最高峰の学び舎である帝都学園で研鑽を積んだ技能が、この犬獣人の前にまるで通用しないことに焦燥感が募る。

 だが、それ以上に譲れないことがあった。


「当てて構いません!」


 ステラは腹の底から声を上げる。

 今の攻防で、ステラが受けたダメージはほとんどない。あれだけの攻撃を受けたはずなのに、まったくの無傷なのだ。

 代わりに彼女の着ている頑丈な執事服が、物の見事に破れている。

 これらが意味することは単純だ。

 つまり、リナはステラに攻撃を当てず、服のみを攻撃したのだ。


「シャァアッ!」


 渾身の突きが唸りを上げる。

 ステラのレイピアが鋭く風を切る音。それは彼女のプライドと決意そのもののようだった。

 しかし再び寸前でレイピアは躱された。

 そしてリナは、再びステラの懐に入り、先ほどと寸分狂わぬ軌道でがら空きの脇腹に右肘を構えた。


「了解なのです」


 次の瞬間、重い打撃音が舞踏場に響き渡る。


「ぐっ……!」


 ステラの苦悶の声。そして体をくの字に曲げて、執事姿の淑女は飛ぶように大理石の床を転がった。


「ステラさん!」


 周りでちらほら見ていた人々が息を飲む。中でも一堂ミリーは悲鳴のような声を上げて、ドレスの裾が乱れるのも構わずステラのもとへ駆け寄った。


「大丈夫、です……私はまだ……」


 年若い主人に強がって見せたのは、彼女なりの最後の意地だった。

 しかしそれも、やはり悪あがきにすぎない。

 腹部を焦がす燃えるような痛みとともに、ステラは意識を手放したのだった。


◇◇◇


「リナさんが勝つに決まってんだから、見てもしょうがないだろ」


「もうっ、兄様は情緒がありませんわ」


 一堂弥生は、腹違いの兄である淳が部屋にこもって延々とスクワットをする姿を見て嘆息する。確かに体を鍛えるのはいいことだが、仮にも仲間が一戦を交えているのに全く心配しないのは如何なものか。

 ちなみに淳の服装は白い無地のTシャツと赤い短パンという貴族とはかけ離れたものだ。本人は認めないだろうが、こういう所も天の影響を受けているなと、弥生は思わず苦笑した。


「弥生の方こそ、リナさんの試合を直接見なくて良かったのかよ。昨日の夜から、あんなに楽しみにしてたのに」


「私が間近でリナお姉様のお試合など見たら、周りの方々のご迷惑になりますわ」


 弥生が恍惚とした顔で笑みを浮かべる。淳はげんなりした顔をしてスクワットのスピードを上げた。それは冗談ではなく本気で起こりえることだ。


「あのさ弥生、お前がリナさんのことを大好きなのは分かるし、リナさんが格好いいのも認めるけどさ。せめて周りに人がいる時はもう少し落ち着かないか?」


「兄様、自分ではどうすることもできない、それが感情というものですわ」


 弥生は真白な肌に濃い紫色のドレスが良く似合っていて、淳にとっても非常に可愛らしい妹なのだが、リナのことになると周りが見えなくなる一面があった。


「……そういやさ、ハルネ村のことだけど」


「残念ですわ」


 弥生の顔から明るさが抜け落ちる。ハルネ村が大規模なモンスタースタンピードによって壊滅したことは冒険士協会の緊急メールで知らされている。

 ハルネ村は田舎で小さな農村だが、それ故に貴族社会に疲れた兄妹には憩いの場だった。それが永遠に失われてしまったのは、淳と弥生にとってもかなりショックな出来事であった。


「どうにもならなかったのかな?」


 淳はスクワットを中断して、静かに拳を握る。


「どうにもなりませんわ」


 弥生は真顔で首を横に振りながら、兄の言いたいことを先回りして諌める。


「いくら天さんでも、いつ起こるか分からないスタンピードを防げるわけがありませんもの」


「そりゃそうだけどさ……」


 弥生の正論に納得いかない顔をしながら、淳はまたスクワットを再開した。


「あいつなら、もしかしたらって、心のどっかで、思っちゃうんだよ」


「そのお気持ちは分かりますわ」


 がむしゃらにスクワットを続ける淳を、弥生は温かい目で見つめながら呟いた。

 それは単なる甘えであり、無責任な期待だと分かっていても、天ならハルネ村を救うことができたのではないか。花村天のことをよく知っているからこそ、可憐な兄妹はそう思わずにはいられないのだ。


「……ところで、兄様」


 弥生は少し躊躇い、意を決したように言った。


「そのマスクは、お部屋の中でもつけられているのですか?」


「え、だってカッコいいだろ、このマスク」


 得意げに答えた淳の顔には、カラフルで派手な覆面のマスクが装着されていた。


「……」


 弥生は兄のファッションセンスに口を出すタイプではないが、さすがに部屋の中でも常に覆面マスクを被っている淳を見て、ツッコまずにはいられなかった。


「(……はっきり言って変人にしか見えませんわ)」


 喉元まで出かかったセリフを、弥生は辛うじて飲み込んだ。

 淳が身につけている《克服マスク》は、曲がりなりにも三柱様から頂いた貴重なアイテムなのだ。それを遠回しでも貶すような発言は御法度である。

 ただ思うだけはお許しください――弥生は密かに三柱神に祈りを捧げた。


「あらゆる苦手を克服できるなんて、本当に夢みたいなマスクだよな。しかもカッコいいし、鬱陶しい自分の顔は隠せるし、俺にピッタリのアイテムだよ!」


「そう、ですね……」


 この分だと、きっと食事や買い物にも覆面姿で行く気だ。その未来を想像して、弥生は胃が痛くなった。


「997……998……999……1000!」


 淳は煌びやかなマスクからはみ出た長い黒髪を乱れさせて、汗だくでスクワットを続けている。

 この世界に『美少女覆面レスラー』というジャンルがあれば、あるいは淳の奇行も黙認されるかもしれないが、ここは異世界なので彼は変人のままである。


「(……天さんとラムちゃんは普通に受け入れそうですし、ジュリさんはそもそもアテにできませんわ)」


 弥生は重い溜息をつく。きっと今後も色々と問題行動をして、関係者の胃を痛めることであろう。


「よっしゃあ!スクワットあと1000回追加だ!」


 なによりも兄の将来が心配である。


 

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