短編2
「その茶色い美味しそうなものを私にも用意しなさい!」
という威勢の良い声に、今まさにコロッケを食べようと口を開いていたアディがそのまま硬直した。
場所は市街地、その中でも総菜屋がいくつか並んだ区域。
たまの休みを市街地で過ごしていたアディが小腹がすいたとこの区域に立ち寄り、ちょうど揚げたての良い香りを漂わせる総菜屋に引き寄せられ今に至る。店主から一つコロッケを受け取り、今まさにかじらんとしていた瞬間、聞き覚えのある声に硬直した……という、今にである。
「お、お嬢……」
ギシと音がしそうな程ぎこちない動きで声のした方を見れば、市街地の総菜屋には似合わぬ少女の姿。
上質のドレスに銀色の逞しい縦ロール。今年ようやく七つになった幼い顔は、それでも既に知性と気品を感じさせる。可愛らしく、美しい、まるで人形のような少女。
それが市街地のど真ん中で仁王立ちである。それはそれはもう見事な仁王立ちで、風が吹くと共に彼女の銀の縦ロールがブンと揺れてその豪快さに拍車がかかる。ふわ、ではなくブンなのだ。
もちろんアルバート家の令嬢、メアリ・アルバートである。
その姿にアディが慌てて「どうしてここに!?」と駆け寄った。本来なら彼女は今頃アルバート家の屋敷でダンスのレッスンをしているはずなのだ。
「お嬢! なんでこんなところに!?」
「お父様が市街地の視察に行くって言うから着いてきたのよ」
「本日はダンスのレッスンじゃありませんか」
「サボりたい時に難なくサボるために、私は常に自分を高めているのよ。先生が「メアリ様は普段から頑張ってますから、今日くらいは良いですよ」って微笑みながら送り出してくれたわ!」
「真面目なんだか不真面目なんだか……」
将来のダンス相手が可哀想だ、とアディが呟きつつ、メアリの視線が自分の手元に向かっているのに気付いて慌てて背後に隠した。
先ほど彼女が言っていた「茶色くて美味しそうなもの」である。それがコロッケなのは言うまでもなく、まさに庶民の料理といったものをアルバート家の令嬢であるメアリに食べさせて良いわけがない。
そんなアディの反応に対し、メアリが眉間に皺を寄せた。いくら幼い少女と言えど露骨に隠されれば不穏な空気を感じ取るというもの。ましてやアルバート家の令嬢メアリなのだ、アディが隠した理由など探るまでもない。
そうして「ふむ」と小さく呟いた後、思考を巡らすように視線をそらした。
「……泣くか、怒るか……地団駄を踏むのはみっともないわね。ここはやっぱり儚げに泣くのが良策かしら」
「なに冷静に駄々こねようとしてるんですか」
「だって美味しそうだったんだもの」
私見たんだから! とメアリがグルとアディの背後に回れば、慌ててアディがコロッケを頭上にあげる。そのなんとも子供らしいやりとりに総菜屋の店主が苦笑を漏らすが、メアリからしてみればこれ以上不満なことはない。
元より五歳の年の差があるのだが、それを考慮しても最近のアディは日に日に背が伸び、こうやって手を頭上にあげられるとメアリでは届きようがないのだ。試しにとピョンと跳ねてみても指先すら掠らない。
背の高さを利用するなんてズルい、従者のくせに私に隠し事をするなんて! と、こんなところである。あと、やはり自分より先に成長期に突入した彼に対しての嫉妬もある。
――もちろん、メアリだって日々成長している。七歳と十二歳なのだからどちらも成長期だ。それでもアディの方が日々の成長が顕著で、メアリは常々「いつか追い越してやるんだから!」と宣言していた。もっとも、この宣言は最後まで叶うことがないのだが――
とにかく、こうやって手を上げられてしまえばメアリに抵抗策などあるわけがない。おまけに「大人しく旦那様のところに戻ってください」とまるで子供を叱る大人のように言われてしまう。
これにはメアリもプクと頬を膨らませた。が、次の瞬間にはしょんぼりと俯き踵を返す。諦めたと言わんばかりのその背中に、アディが僅かに安堵の息をもらした。
……もっとも、その安堵すらメアリは感じ取っていて、彼に顔が見られない今は切なげな表情を悪戯気な笑みに変えていたのだが。
「分かったわ、お父様のところに戻る……」
「えぇ、そうしてください。でも視察の邪魔をしてはいけませんよ」
「そうね、そうするわ。お父様ぁー、このあいだ私がお父様のカップ割っちゃってお揃いのカップをプレゼントして首尾良く誤魔化した件なんだけど、あれ実はアディがうたた寝してねー」
「店主! コロッケもう一つ! お嬢、旦那様は視察でお忙しいから俺とここで待っていましょう!」
「分かればいいのよ」
「申し訳ございませんでした……」
うぅ……とアディが小さく呻き声をあげれば、メアリが誇らしげに笑う。
――ちなみに、この時アディは「いつか見返してやる!」と心の中で宣言したのだが、いつまでたっても叶うことなく振り回され続けたのは言うまでもない――
そうして「子守も大変だな」と苦笑を浮かべる店主がコロッケを一つ用意し、紙で作られた袋に包む。といっても包むのは下半分だけ、それも食べている最中に油が染みてくる代物。
さすがにこれは……と、アディが胸元からハンカチを取り出して紙の上からそっと覆った。アルバート家の令嬢であるメアリの手を油で汚すわけにはいかない……そもそも、庶民の食べ物であるコロッケを食べさせること自体が問題なのだが。
「……本当に食べるんですか?」
「食べるわ!」
メアリが瞳を輝かせて頷く。初めて見るその食べ物は、茶色い衣に覆われて適度な厚みがあり、そして食欲を誘う香ばしい香りを漂わせているのだ。見るからに美味しそうな気配がする、自分の勘が「これを食べなくては!」としきりに訴えてやまない。
そんなメアリの確固とした意志を感じ取ったのか、アディが小さく溜息をつきつつ、それでもとハンカチで包んだコロッケを差し出した。
……が、それに対してメアリは受け取ることも手を出すこともせず、困ったように眉尻を下げて彼の名を呼んだ。
「どうしました?」
「アディ、お皿は?」
どうしてそのまま渡すの? と、戸惑いながらも首を傾げる。そんなメアリの態度にアディが僅かに目を丸くさせ……小さく吹き出した。
彼女はやはりメアリ・アルバートなのだ、コロッケが食べたいと言い出したり令嬢らしからぬ行動をしたりするが、それでもやはり貴族の令嬢。なんて可愛らしい、とアディの中で愛でる気持ちが湧き上がり、それと同時に悪戯心が頭をもたげる。
「お皿なんてありません、これはそのまま食べるものなんです」
「そ、そうなの? でもそれだとナイフとフォークが使えないわ」
「使わずに食べるものなんですよ」
「なら、パンのように千切るのかしら。でもとても熱そうよ」
「揚げたてですから、千切ろうとしたら火傷をしますよ」
「それならどうやって食べるの?」
不思議そうに首を傾げるメアリに、アディが小さく笑みをこぼし「見ていてください」と勿体ぶって自分の分のコロッケを口元に持って行った。
そうして口を開いて、パクと一口かじる。その見せつけるようなわざとらしさといったらないが、なんてことはない極々平凡な食べ方である。
だがメアリにとっては衝撃でしかなく、驚愕と言わんばかりに目を丸くさせ息を呑んだ。既に食事のマナーを完璧にまで極めつつあるメアリだからこそ、アディの食べ方が信じられないのだ。
「そ、そう……そうやって食べるのね」
「大丈夫ですか? 出来ないなら無理をなさらなくていいんですよ」
「大丈夫、食べるわ!」
意気込んでメアリが両手を差し出す。それに対してアディが苦笑を浮かべ、メアリの分のコロッケをそっと手渡した。
「こ、これをそのまま食べるのよね」
「えぇ、そうです。どこかに座りますか?」
「座っても良いものなの?」
大丈夫なの? と不安げにメアリが問う。いったいどこの世界に「立って食べなくてはいけない」という食べ物があるというのか。
そんなメアリに対してアディが苦笑をさらに強め「大丈夫ですよ」と返すと近くにあるベンチへと誘った。
「これをパクっと食べるのよね」
再確認しつつコロッケに視線を落とすメアリにアディが頷いて返す。メアリの瞳は真剣そのもので、初めて社交界に出た時も、テストを受ける時も、ましてや陛下に挨拶した時でさえも、ここまで緊張することはなかったのだ。
いったいどうしてここまで……とアディが心の中で苦笑しつつコロッケを一口かじる。
「……なんだか悪いことをしてる気分だわ」
「悪いことって、また大袈裟な。そもそもお嬢のする悪いことなんて可愛いもんじゃないですか」
「そうね、皆が裏門で飼ってる子犬に『お手・おかわり・アタック』を教え込むぐらい可愛いものよね」
「どうりで最近飛びかかってくると思った。危ないことを教えないでください!」
「大丈夫よ、自分を受け止められそうでかつ格下の相手にしかやらないように教え込んだわ」
「なるほどそれなら安心……あの犬!」
俺が格下か! と怒りだすアディにメアリがクスクスと笑う。
そうしてふぅと一息着けば緊張も解け、メアリがゆっくりと口を開きコロッケにかじり付いた。その瞬間サクと小気味よい音がし、口の中に揚げ立ての暖かさと香ばしさが伝う、衣の触感と具の柔らかさが混ざり合い、なにより噛みしめるたびに溢れ出すこの旨味……!
味わうように咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。そうしてふはと吐息を漏らせば、一瞬にしてメアリの瞳がキラキラと輝き出す。
「いかがですか?」
「アディ、これ美味しい。とっても美味しい!」
よっぽどだったのだろう、興奮したまま更に一口食べ「美味しい!」と感嘆の声を上げる。なんとも子供らしい、そしてアルバート家の令嬢らしからぬはしゃぎようにアディが僅かに目を丸くさせつつ、柔らかく頬をゆるめた。
良かった。もちろんアルバート家の令嬢であるメアリに庶民の食べ物を食べさせたことは問題だと分かっているが、それでも彼女が喜んでくれて良かった、と、そう思えるのだ。そうして改めてメアリを見れば、彼女は小さい口ながらにモグモグと咀嚼し、嬉しそうに表情を綻ばせている。
「アディ、私これ大好きだわ!」
「そうですか、それは良かった」
「また一緒に食べましょうね!」
ね!と嬉しそうな笑顔で念を押され、アディが僅かに目を丸くさせた。
頭の中ではアルバート家の令嬢なんだからと何度も言葉が浮かび上がり、庶民の食べ物をやたらと食べさせてはいけないと心の中で自分に言い聞かせ……そして
「えぇ、また一緒に食べに来ましょうね」
と、頷いて返した。
それから数年、今日も変わらずアディが店主からコロッケを受け取り、ハンカチで包んでメアリへ渡す。
そうしていつものベンチに並んで座り、ほぼ同時にサクと音をたててかじり付いた。暖かさと食欲を誘う香りが鼻をくすぐり、衣の香ばしさと肉の旨味が噛みしめるたびに口の中に広がる。
「また腕をあげたわね」
「えぇ、衣の食感と具の柔らかさが絶妙な対比で文句のつけようがありません」
「あの店主、無限の可能性を秘めているわ……。あとはいい加減に私がメアリ・アルバートだって理解してくれれば良いんだけど」
「そりゃ無理でしょう」
もう一口かじりつつアディが告げれば、メアリがムゥと不満そうにしつつコロッケに口を付ける。だがすぐさま拗ねた表情が綻んでしまうのは、それほどまでに美味しいからだ。
だが所詮はコロッケ、ゆっくり食べたところでさして時間がかかるものでもない。ついでに言えば二人とも適度に腹をすかせていたのだ、気付けばペロリと平らげ、どちらともなく帰ろうかと立ち上がった。
そうして交わされる
「また一緒に食べに来ましょうね」
「えぇ、また一緒に来ましょう」
という会話は、あの日から今日までずっと変わらずにいる。




