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そうしてしばらくすればアルバート家の屋敷にある大広間に人が集まりだし、準備の慌ただしさがパーティーの華やかな賑わいに変わる。この日のために遠方から呼び寄せられた楽団が音楽を奏で、給仕が忙しく、それでいて優雅に来客達に酒を配る。
並ぶ料理はどれも美しく盛りつけられ見るものの空腹を誘い、一品一品から漂う高級感はとうてい調理場の戦場ぶりは想像できない。
まさに祝いの場と化した空気の中、最終準備を終えたアディが緊張した面もちで扉を前にしていた。意を決して袖を通した上着には胸元にアルバート家の家紋が刺繍されており、それだけで緊張が高まる。
この扉を開ければ大広間へと続く階段がある。
その時が来たらメアリの手を取り、来客の視線が注がれる中、ゆっくりと階段を下りていくのだ。
扉の向こうにいる来客達もその瞬間を今か今かと待ち望んでいるのだろう。とりわけ関係者には箝口令がしかれている今回のパーティーは注目度が高く、普段ならば中庭あたりに人が散っていそうなものだが、今日だけは来客のほぼ全てがこの扉の前に集まっているのが賑やかな声で分かる。
その光景を、そして扉が開けた瞬間に注がれる視線を、それらを想像するとアディの額に汗が浮かぶ……が、それが伝うより先に白いレースのハンカチが汗を拭った。
「……奥方様」
「アディ、あなた緊張しすぎよ」
クスクスと上品に笑うアルバート家夫人キャレルに、アディが困ったように苦笑を浮かべて返した。
「こういうときは堂々と構えてれば良いのよ」
「そう仰っても……」
「ほら、せっかくの男前が台無しじゃない」
楽しげに笑いながらキャレルがアディの背中を叩く。その仕草や表情はどことなくメアリを彷彿とさせ、緩やかなウェーブのかかった銀糸の髪はさすが親子と言えるほどである。
「ところで、お嬢は……メアリ様は?」
「もう準備は終わってるはずだから、すぐに来るはずよ。あの子が来たら二人でこの扉から出てきなさい。ちゃんとエスコートしてあげてね」
「はい、かしこまりました」
「それじゃ、私は客人の反応が一番よく見える場所にいるから! 皆どんな反応するのかしら、楽しみだわぁ!」
何かあったら自分達で何とかしなさいね、と無責任な発言を残し楽しそうに去っていくキャレルの後ろ姿に、アディが「相変わらずなお方だ」と呟いた。
だが次の瞬間コホンと聞こえてきた咳払いに条件反射のように背筋を伸ばし慌てて振り返る。そこに居たのはもちろん、アルバート家当主。
アディの描くヒエラルキーの最頂点に君臨する人物である。
「だ、旦那様!」
「あぁ、頭を下げるな。髪が崩れるぞ」
普段通り無意識のうちに頭を下げようとするアディを片手で制し、ゆったりとした足取りで歩み寄る。
これだけの規模のパーティーを開いていてもどこか余裕を感じさせ、威厳さえ感じられるその貫禄に、アディが背を痛めかねないほどに背筋をただした。
アルバート家当主、自分の……それどころか一族の雇用主、加えて義父となれば緊張するなと言うのが無理な話で、それが分かっているのだろうか彼は苦笑を浮かべ「せっかくの祝いの日に怖い顔をするな」とアディの上着の襟をなおしてやる。そして最後の仕上げだと胸元にあるアルバート家の刺繍をポンと叩いてやるのは、勿論彼なりの景気付けである。
「旦那様、あの……」
「どうした?」
「本当に自分で良かったのでしょうか? メアリ様はアルバート家のご令嬢で、結婚だってお家のために……」
「ほぉ、なら返してくれるのか?」
「いえ、それはもう無理です」
キッパリと拒否しつつ申し訳なさそうな表情を浮かべるアディに、対してアルバート家当主は流石と言わんばかりの落ち着きを払って「そうだな」と返した。
元よりメアリはアルバート家の為に結婚する予定だった。
それは政略結婚が常のこの世界において当然とも言え、とりわけアルバート家などという名門中の名門貴族の家に生まれたのなら尚更。メアリ本人でさえ、それを悲劇に感じることもなく当然だと思っていた。
だが結果的にメアリは当初から予定されていたパトリックとの婚約を破棄し、アディと結ばれた。国内はおろか、諸外国の貴族や王族とも結婚出来る価値をもちながら、選んだのは従者。
アルバート家からしてみれば最高の外交カードを、まったく何の利点もない従者にやったのだ。信じられないと、なんて勿体ないと、そう考えるのが貴族ならば当然だろう。
「確かに、メアリは家のためにダイス家に嫁がせる予定だった。だがあの二人はまったく別の道を選び……その結果、どうなった?」
「どうって、それは……」
逆に問われ、アディがふとアルバート家とダイス家の現状を思い浮かべた。
メアリとパトリックの政略結婚こそ破棄となったが、アルバート家とダイス家には深い繋がりが出来た。そのうえ、ダイス家の跡取り問題では貸しまで作ることが出来たのだ。
さらに言えばメアリは王女であるアリシアからも慕われ、王家に次ぐとまで言われていたアルバート家は、今では王家公認の『王家と並ぶ一族』である。アリシアやパトリックはおろか、その親達も今では親しく茶会や食事の場を設けているのだ。
最早アルバート家にもダイス家にも、そして王族にも、追い抜く追い抜かれるといった感覚は無く、周囲の貴族や庶民達も『三家があってこそ国が成り立つ』とまで考えていた。
「考えてみれば、パトリック様とメアリ様が結婚するより上手くいってますね」
ポツリと呟かれたアディの言葉に、アルバート家当主が満足そうに頷いた。
「メアリはどこか変わっていて、時々私達でも予想しないことをしでかす子だ」
「申し訳ございません、その件に関しては一切否定できません」
王女様に喧嘩を売って没落を目指していた、などと口が裂けても言えるわけがない。もっとも、目指したその結果が今という真逆の状況に至るのだが。
「変わった娘だが、自分の考えで動いて私達が決めた婚約より多くのものをこの家に与えてくれた。それなのに、いったいどうして私達があの子の選んだ道に文句を言える? それに、メアリがあの子らしく動けたのも、アディ、おまえがずっとそばに居てくれたからだ」
「……旦那様」
「メアリにも感謝しているが、おまえにも感謝している。だから堂々と、メアリの手を取ってこの扉を通りなさい」
「はい!」
「それじゃ、私はキャレルと一緒に客人の反応がよく見える場所に陣取っているから、何かあったら二人でどうにかしなさい」
それじゃ、とアディの肩を一度ポンと叩き、あっさりと去っていく。
その楽しそうな後ろ姿と言ったらなく、最後の最後で感動を覆されたアディは一人ポツンと取り残され「なんてお似合い夫婦だ……」と呟いた。
そうして気付けばいよいよをもって一人きりである。
客人はもちろんアルバート家夫婦までもが扉の向こう側で待っているのだ。それを考えれば緊張が再び這い上がってきて、アディが自らを落ち着かせるために深く息を吐いた。
扉から聞こえる賑やかな声に反して、誰もいないこちら側は妙な静けさを感じさせる。
「……ていうか、本当に誰も残ってないってどうなの? 皆そんなに客人の反応がみたいのか!?」
「あら、私だけじゃ不満なのかしら」
誰にともなく訴えたつもりが背後から返事が返ってきて、アディが慌てて振り返った。
そこに居たのは真っ白なドレスを身に纏ったメアリ。輝かんばかりの純白と胸元に飾られたアルバート家の家紋が彼女の魅力を深め、きっちりと巻かれた銀糸の縦ロールが歩くたびに揺れ……ず、懐かしいまでの安定感で顔の両サイドに構えている。
「お嬢……」
「どうかしら?」
自慢げに笑い、メアリがドレスを見せつけるようにクルリと回った。
純白のドレスの裾が大きく広がる様はまるで咲き誇る花のようで、頭上のティアラがその美しさを後押しするようにキラリと光る。それと同時にブンと豪快に揺れる縦ロールのなんと懐かしいことか。
その美しさにアディが見惚れつつ、そっと手を伸ばした。
「触れても?」
「えぇ、良いわよ」
許可を得たアディの手がそっとメアリの髪に触れようとし……「あ、待って!」と掛けられた言葉にピタリと止まった。
「あまり強く掴むとドリルが崩れるわ!」
「崩れる……まさか、ドリルが!?」
「えぇそうなの、そもそも貴方をこんなに待たせたのも、なかなか縦ロールが巻けなくてね……人為的に作り出そうとして思い知らされたわ、あのドリルは奇跡の産物よ」
真剣な表情で語るメアリにアディも同じように真剣な眼差しで返し……どちらともなく、もう堪えきれないと言いたげに笑い出した。
「こんな日に、いったいなにを言ってるんですか」
「あら、失礼ね。せっかく貴方が喜ぶと思ってこの髪型にしたのに、喜んでくれないの?」
「いえ、喜んでますよ。嬉しいです。本当に……心から、嬉しいです」
笑いすぎて涙目になった目尻を拭い、アディが改めてメアリに向き直る。
「髪に触れても良いですか?」
「えぇ、いいわよ」
再度伸ばされた手が今度はちゃんと髪に触れ、メアリが嬉しそうに瞳を細めた。
愛おしむように撫でられる感触、ときおり指先が頬を撫でる擽ったさ。甘く痺れるようなこの感覚に悩んでいたのは昔のこと、今はもうこの感情の名前を知っている……そう考えれば、メアリの胸がやんわりと暖まっていく。
「あの……抱きしめても良いでしょうか」
「えぇ、構わないわ」
髪に触れていた手がゆっくりと背に回される。
ドレスに皺を作らないよう恐る恐るといったその控えめな抱擁にメアリが小さく苦笑を漏らした。応えるようにそっとアディの背に腕を回し、彼の上着に皺が出来ないようにと柔らかく上着に手を添える。
触れる感触が心地よく、ドレスの皺も、化粧も、いっそ髪型さえ崩れても構わないからもっと強く抱きしめてほしい……と、そんなことさえ思えてしまうほどだ。そしてどうやらアディも同じように考えていたらしく、メアリの背に回された手が一瞬だが強まり、次いで
「キスしても良いですか?」
と、囁くような甘い声がメアリの耳を擽った。
あぁ、いったいどうして拒否なんて出来るのかしら……と、溺れるような感覚に「もちろんよ」とだけ返す。それを聞いた彼の瞳が嬉しそうに細まる、それすらも愛しくて堪らないのだから、拒否など出来るわけがない。
そうしてゆっくりと二人の距離が縮まり、互いにそっと瞳を閉じ……
コンコン
と、まるで「いい加減にしなさい」とでも言いたげなノック音に、揃えたように目を丸くさせた。
「あらま……」
「あと少しだったのに……」
そんなことを呟きつつ、アディが手を差し伸べ、メアリがそれに己の手を重ねる。その瞬間にアディが嬉しそうに目を細めたが、メアリはそれに対して気付かないふりをして、急かすように軽く彼の手を握った。
今まで幾度と無くパーティーに出てきたメアリの、それでも初めての『愛しい人のエスコート』、柔らかく握り返されれば思わず頬が緩む。
そうしてゆっくりと扉が開かれ、二人を見た瞬間の来客の表情といったら無い。
なにせ皆揃えたようにポカンとし、頭上に疑問符を浮かべているのだ。中にはアディの胸元にあるアルバート家の家紋が見えていないのか、この期に及んでサプライズの演出だと考え「結婚相手はどこからくるんだ」と周囲を見回している者さえいる。家紋に気付いた者さえ、理解が追いつかないと言いたげだ。
だがそれも仕方あるまい。何せ彼等にとって、メアリは普段通り従者を連れているのだ。その光景に今更だれも驚かず、「あの変わり者の令嬢は、今日という日も従者をつれている」とそう考えたのだろう。
だからこそ不思議そうに新郎を捜す彼等に、メアリもアディも思わず小さく笑みをこぼした。
「ねぇアディ、みんな誰を捜してるのかしら」
「まったくですね。見てください、旦那様達の楽しそうな顔」
「えぇ本当、お兄様達、あれあと少しで笑い出すわよ」
「パトリック様も限界が近いですね」
唖然とする客人のなか、事情を知る者達の楽しげな表情といったら無い。なにせこの為にメアリの結婚相手がアディであることを箝口令をしいてまで隠し通してきたのだ。
そんな面々を眺めつつ、メアリが「良いことを思いついた!」とアディの服を掴み、自分の方へと向き直らせた。
「お嬢、良いことって?」
「とっておきの方法で皆を驚かせてやりましょう!」
「どうやって……」
そう尋ね掛けたアディの襟をグイと掴んで寄せ、引っ張られて屈む彼に合わせるようにメアリが背を伸ばした。
シン……と、一瞬会場内が静かになる。
「お……お嬢!」
「見なさいアディ、皆の顔!」
一瞬にして真っ赤になり慌てて離れるアディに、対してメアリが襟を掴んだまま楽しそうに客人を見渡す。目の前で繰り広げられた『主人と従者ではあり得ない』二人の行為に客人達がポカンと間抜けな顔をしているのだ。
もっとも、ごく一部の者はキャァと嬉しそうな声をあげたり、その隣では堪えきれないと肩を震わせたり、「流石は私の娘ね!」と喜んだり笑い出したりもしているのだが、ほんの一握りである。
「お嬢、貴女って人は……良いですか、節度ってものをですね」
「サプライズの為よ、やむを得ないわ。それにさっきの続きをしただけよ」
「続き? 違いますよ、さっきは俺が許可をもらったんだから……」
そう告げて、アディが再び、今度は自ら身を屈める。そうして軽くメアリの唇に触れると
「俺が許可もらったんだから、俺がキスしなきゃ」
とニヤリと笑った。
魅惑的な錆色の瞳に、ポッと頬を赤くさせたメアリが「ふむ、なるほど確かに」と頷いて返すも、その声は一瞬にしてあがったざわつきに掻き消された。




