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 階段を下りながら、体の周りに糸が繋がっていないか確認していると、後ろを歩く神足がはっとしたように声を上げた。


「そうか、きっとあれは罠なんだ」

「え? 罠?」

「そう。誰か――これをとりに来た人間をあそこから落とすための罠だったんだよ、あのフェンス」


 神足が差し出したのは、小さな黒い箱だった。どうやら糸が巻き付いているらしい。屋上の金具か何かではないのかと首を傾げる八紘に、神足は箱の内側を見せる。

 そこには、カセットテープがぴったりとおさめられていた。


 ――なんだこれ。


 八紘は、きょとんとして尋ねた。


「ええと、これって……」

「あのフェンスのあたりを探ってたら、周りとちょっと色が違うこいつが、フェンスの縁にくっついてたんだ。このビルの古ぼけた外観には合わない、新品みたいな金具だしね。で、これをとるためにはフェンスに手をかけなきゃいけなかったのに、見た目には全く問題のないあれは、体重をかけたとたん急に奥に倒れた」

「はあ……」


 確かに、それならばあのスチールウールも〝人を落とそうという悪意〟が表れた糸で説明がつくかもしれない。

 不自然に体勢を崩した神足を思い返し、八紘は表情を硬くした。


「ねえ上桐サン。これって、僕みたいな奴を屋上から落とすための罠だと思わない? で、それはまんまと成功して、人が一人落ちて死んだ」

「……それって、もしかして」

「あの人だろうね。三か月間ずっと、自分が死んだとも思わずに、自分の家でもないビルの屋上まで何かをとりに行っては、延々と落ちている幽霊」


 神足が視線を滑らせると同時に、例の橙色の糸がするりと横を通り抜け、上って行った。相変らず、こちらを気にする風もない。

 八紘は黙って目を伏せた。もしそうならば、このビルは殺人事件の現場ということになる。


「――ああそうそう、質問なんだけどさ。上桐サンには何が見えたの?」

「私?」

「そうだよ。それを聞くためにここまで来てもらったんだからさ」


 階段を下りながら、いつの間にか開いてある手帳に何事か書きこんで、神足はちらりと視線を向けた。


「えっと、そうですね……まあ、あのフェンスのあたりに、悪意があるっていうか……よくないものがあるかなあとは思いましたね」


 巨大スチールウールを見た、というのもおかしな話だ。

 迷った挙句にぼんやりとした答えを返すと、神足は冷やかに目を細めた。


「どうして誤魔化すわけ? 階段でも屋上でも一瞬で顔色変えておいてさ。きみには人の縁が見えるんだろ? 僕が知りえない情報だって、見えたんじゃないの? きみは当代の〝縁切り〟なんだから――」

「うーん……あの、確かに私は縁切りですけど」


 八紘は、神足の態度に困惑しながらも、先に立って階段を下りる。


「部長さんは、縁切りを何かすごいものだと勘違いしてますよ。あれは、言ってしまえば生きている人間に向けたおまじないみたいなものなんです。やってる私にさえ、完全に効果があるかもわからないんですよ?」


 縁切りについて、少なくとも八紘は、そう解釈している。縁を切ったところでまた結ばれることもあるし、切っても切れない縁というものもあるのだ。

 神足が何を期待しているのかはわからないが、八紘の力は心霊現象に対して効果があるわけではない。八紘からすれば寧ろ、神足の方がよっぽど特別なものが見えているように思う。


「私に見えているのは、ただの糸です。ご縁の糸とは呼ばれているけど、どうして結ばれたのか、どうしてその色なのか、切るべきなのか、そんなの全然わからないんですよ。だから、縁切りの私が見極めて、切るか放っておくかするっていうだけで――」

「ふうん……じゃあそれを踏まえて聞くけどさ、きみには何が見えたの? ――いや、質問を変えようか。きみは、この事件をどういうものだと思った? きみは見たものをどう見極めたの?」


 無機質な階段に、真剣な声が反響する。

 後ろを振り返る気にはなれず、当代の縁切りは階下を見ながら、「正直なところ」と、静かに答えた。


「部長さんが私を――縁切りを試すためにわざわざ仕組んだんじゃないかなーと思いました」



◆◆◆



 階段を降りる音だけが踊り場に響いている。八紘が答えてから、神足は黙っているので、何を考えているかはわからない。

 八紘は屋上の様子を思い浮かべながら、確かめるようにゆっくりと口を開いた。


「――あの、幽霊がどうとか人が落ちたとか、私には真偽を確かめる方法はないですけど、少なくとも部長さんは一回あの仕掛けを見てますよね」

「……へえ、なるほど。じゃあ僕は知ってて落ちかけたわけ?」

「そうじゃないかと思ってます。事件自体は本当にあったとしても、あの箱に細工をしたのは……っていうか、カセットテープを入れたのは部長さんなんじゃないですか?」


 振り返って言うと、あの挑発的な笑みを引っ込めた無表情の神足と目が合った。続きを促すように黙ってこちらを見ている様子に、八紘の背を冷たい汗がつたう。


「私にはあの箱、真っ黒に見えました。黒い糸がめちゃくちゃに絡みついていたからです。でも、カセットテープにはそれがない。そんなのおかしいじゃないですか。罠の要になるようなものですよ? どうして誰にも思い入れがないようなものを入れるんですか?」

「……確かにそうだね。でも、だからといって僕が入れた確証はないはずだよ。元々本物のカセットテープを渡す気がなかったとしたら、なんの思い入れもない新品が入っていてもおかしくはないよね」

「そうですね、悪意を持って新品を入れることもあるかもしれません。でもそうだとしたら、一本も糸がないのはおかしいんです。だって……あの罠に関わっている人間はたくさんいるから」


 目を凝らしても、黒い糸は見つからなかった。わずかに、見覚えのある明るい橙が見えたかというくらいだ。

 だが、フェンスに絡みついた糸の塊から出た黒いそれは一本や二本ではなく、蜘蛛の巣のように周囲のビルの窓へと伸びていた。


 ――まるで、獲物がかかるのを監視するかのように。


「ここで起きたっていう投身自殺が殺人事件なんだとしたら、きっと……公開処刑なんだと思います。落ちた方がどういう人かはわからないですけど。罠があった場所は他のビルからよく見えるし、階段も窓が多くてどこにいるか外からすぐにわかるから……」


 ここまでされるとは、よほど恨まれていたのかとも思う。そういえば、このビルはおあつらえ向きに十三階建てだったか。まるで処刑台のようだ。


「それだけたくさんの人が見ているのに、誰も仕掛けの中身を気にしないなんて、おかしいと思いました」


 そこまで言って、真っ直ぐに神足を見る。

 新聞部長は考え込むようにしばらく黙ってから、ぱっと笑みを浮かべて明るく言った。


「――なるほどね、面白い考え方だ。じゃあ、後で答え合わせをしようか」

「えっ? どういうことですか?」

「でもその前にもう一つしたいことがあるんだよね。さあ、きりきり下りて! まだここ三階だよ、あの人にまた追い越されたいわけ?」

「いやそれは……って、部長さん? 部長さーん!」


 今までの鈍足が嘘であるかのように、二段飛ばしで軽快に階段を下りる神足に慌ててついて行くと、あっという間に一階までたどり着いたのだった。



◆◆◆



 手のひらを返すかのような神足の態度に目を白黒させている八紘に構わず、当の本人はカーテンで覆われた小窓をとんとんと叩いていた。黄ばんだ管理人室のプレートが夕陽にちらついている。


「すみませーん、屋上の鍵、返しに来ましたあ」


 後ろで聞いていた八紘が若干腹立たしくなるほど愛想よく言うと、奥の方で何か物音がして、カーテンが開いた。

 と、八紘の両親より少し上くらいに見える、爬虫類のようなのっぺりとした顔の男が小窓から現れた。


「ご苦労様。写真は撮れたかい?」

「はい、おかげさまで。ありがとうございました。――ああところで、こんなものが落ちていたんですがご存じないですか?」


 いつ取り出したのか、例の黒い小箱をちらつかせて、神足は微笑んだ。

 いったい何を、と八紘が眉をひそめるより早く、管理人は真っ青な顔で身を乗り出した。


「こ、これは……どこで……?」

「落ちてたんですよ、屋上のフェンスの内側に。随分と新しいから、何かの部品かと思って持ってきちゃいました」


 神足は朗らかに言って、黒い小箱の角度を変えて眺めている。震える手を伸ばす管理人に、すぐに返す気はないようだ。

 八紘は、管理人の男から黒い糸が伸びていることに気付き、わずかに目を見開いた。いや、予想はしていたことだ。屋上に仕掛けをするのだから、ビルの管理人がこの〝処刑〟に関わっていないわけがない。

 男は薄い唇を大きく開き、声を裏返らせて叫んだ。


「フェンスの内側!? ありえない! きみたち、いったい何を――」

 


 ――と、果物を地面にたたきつけたかのような音が、玄関いっぱいに響いた。



 神足は笑みを浮かべたまま、八紘は肩を跳ねさせ、男は引きつった悲鳴を上げて外を見る。

 車通りの少ない路地は、耳が痛くなるほど静まり返っていた。

 窓の外は、夕陽で赤く照らされている。緊張と恐怖に満ちた、現実離れした時間は、まだ終わらないらしい。


 きい、とか細い音がした。


 ゆっくりと振り返ると、透明なドアを押し開けて、男が入ってくるところだった。八紘は思わずひっと息をのんだ。

 今の季節には合わない、厚手のコートを着た大柄な男だ。白髪まじりの髪をぴったりと後ろに撫でつけている。

 片側が引きつったようにつりあがった唇からは、黄ばんだ歯がのぞいていた。立派な鷲鼻の上に本来あるはずの目はくぼんで、真っ黒な闇だけが広がっている。

 もしかしたら、男は笑っているのかもしれない。しかし、随分と歪だった。


「あ、あ……あああああああああ!」


 突如、つんざくような悲鳴を上げて、管理人が小部屋から飛び出してきた。「許してくれ」だの「悪かった」だのわめき散らしながら、階段の方へ後ずさっている。

 足が張り付いたように動けない八紘は、突然手首を掴まれて、咄嗟に神足を見た。


 当の神足は――笑っていた。


 ぎらぎらとした視線を乱入者に注ぎながら、反対の手にカメラを構えている。毒々しいほどに明るい橙色の糸が手首から伸びて、被写体の体に巻きついていた。

 八紘にはもう、ぼんやりとわかっていた。この橙色の糸は、余すところ無く観察して、骨の髄まで知りつくしたいと願う、あまりに執拗な知識欲――神足の強い思いだ。厄介なことに、本人にとってはいたって純粋な気持ちのようで、鮮やかな橙には少しのにごりも無い。

 男は、先ほどまでのように階段を上り始めた。

 違うのは八紘にも姿が見えていることと、その先に管理人がいることだけだ。


「来るな……来るなあああああぁぁぁ!」


 両手を振り回しながら、管理人は階段を駆け上がっていく。その後に続いて、男は軽やかな足どりで階段を上っていく。

 男は、管理人のことなど目に入ってはいない。ただ屋上を目指し、そこから落ちて、また上っていくだけだ。


 ――ただし、そのことは、神足と八紘しか知らない。


 喚き声と足音が遠ざかっていく。神足はちらりと腕時計を見て「もうこんな時間か、あーお腹すいた」と小さく呟いた。

 その声で我に返った八紘は、がくがく震える膝に手をついて大きく息を吐いた。


「……な、なんですかあれ、なんですかあれー!!」

「え、幽霊かな。今度こそ見たでしょ? あの人下の階ほど元気だから」

「いや、なんか色々全体的によくわかんないんですけど! っていうかあのおじさん危ないんじゃないですか!? と、飛び降りちゃったりとか――」

「何言ってんの、屋上は僕らで施錠したじゃん。ほら鍵」

「そ、そうか……! いや、でもほんとに一体――」

「はい残念、今日はここまでです」

「えっ?」


 目を見開く八紘に、神足はにっこりと笑って腕時計を指さした。


「もうすぐ六時だよ、上桐サン。健全な学生は夕飯時には帰るべきだ。僕も目的を達成したわけだし、今日はもうこれ以上の進展はないだろうから、ここで解散だよ。お疲れ様でした」

「えっ、あの、ちょっとよくわかんないんですが」

「答え合わせはまた後日、上桐サンが暇そうな時間に伺おうかな。きみも管理人サンが冷静になる前にさっさと帰っちゃったほうがいいと思うよ、僕は帰るから。じゃあね!」

「ええ!? ちょ、ええー!?」


 上機嫌で颯爽と帰って行った神足の背中を、八紘は呆然と見送った。

 なんだかよくわからないが、散々振り回された挙句、ひたすら気味の悪いものばかり見せられた気がする。

 やはり後輩に「気をつけろ」と念を押されるだけはあるな、と目頭を押さえてから、八紘も足早にビルを後にした。


 クリーム色のビルは、怪しい影を纏ったまま、夕暮れの中で佇んでいた。



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