六話
南三区六番地の火消しテオの母親は、まだ未婚だった頃に職場が火事になり、そこそこの火傷を負った過去がある。
若い女性が怪我をして体に跡が残る事の苦痛を知っている彼女は、火傷跡どころか片足を失ったマリ・フユツキに同情的。
使用人だった過去の記憶があやふやな女性アリアが、記憶を取り元戻したので帰宅すると聞いて、彼女は「マリさんに人手は足りるのですか?」と息子テオに確認。
テオは「平気って言われたけど、やっぱり心配だから聞いてきます」と、すぐに家を出た。
母親は、明日息子は夜勤なので泊まってくるかもなぁ、今夜は少し静かになると考えた。
私は静かに暮らしたい。なのに年を取っても騒がしい落ち着きのない夫と、夫に似た性格で元気溌剌な男児三人がいるので毎日、毎日騒々しい。
一人減ったら少しは静か、と考えていたら二刻程で長男テオが帰宅。息を切らして、開口一番「父上! 友人が困ってる! 俺は許せねぇ!」と叫んだ。
なんだなんだと始まって、家族揃ってテオの話を聞いて、全員が「それは確かに酷い話」とシンやマリに同情心を抱いた。
「こういう時のネビーだ。行こうぜテオ。ユミトも行くぞ」
「だよな親父! 親父がそう言わなくても俺は頭を下げに行くぜ!」
「テオ、父上と呼びなさい」と母親は息子を注意。彼女は息子を火消しらしい火消しにする気がない。
ただでさえ、テオは生粋火消し中の生粋火消しである夫に見た目も中身もそっくりなので、夫の苦手な部分を息子からこそぎ落としたいからである。
「興奮してつい。気をつけます」
さて、テオと彼の父親イオはルーベル副隊長ことネビー・ルーベルに相談。
ユミトは既に、兄弟子ネビーがナガエ本家をほぼ包囲していると知っているので、手伝うことはあるかと尋ねたが首を横に振られた。
イオとネビーは幼馴染で、お互いが一番の親友の勢い。そして、ルーベル副隊長はマリ・フユツキが可愛い姪が気にかけている友人なので、かなり前から彼女とフユツキ家を影から支援している。その過程で、弟弟子ユミトと共にシンやナガエ家の調査も進めていた。
なので、彼は二つ返事で「その件は悪いようにならないようにするから安心しろ」とテオとイオに告げて、ユミトには引き続き手伝って欲しいと頼んだ。
ルーベル副隊長が取った主な行動はこうである。義兄ロイに相談して、集めてあった資料を渡して彼に丸投げして駒使いでユミトを使ってくれと依頼。彼は独断と偏見で優先順位をつけて、人に任せられることは任せる性格である。
義弟に丸投げされたロイは、可愛い娘の親友の為ならと引き受けたが、面倒くさがりで多忙な為、この問題を父親ガイへ横流し。ただ、その前に資料は増やしたしユミトをこき使った。
「引退した父親に働かせてばかりの息子達だな。まったく。俺は明日にはもう死んでいるかもしれないのに」
老人ガイはそうブツブツ文句を言いつつも、生き生きとした顔をして、張り切ってこの問題に取り組んだ。
彼はかつて地区兵官と災害実働官——火消し——を管轄する煌護省で働いていた。それも南地区本庁でだ。
何十年も勤め上げて、優秀なので中々退職させてもらえず、完全引退後もかつての部下が家に来ることがある、仕事となると非常に有能な人物である。
ガイはせっかく引き受けるのなら我が家に得、親戚に得、頼み事をする仲間にも得……とあれこれ思案して、こういう結論に至った。
成り上がり中の商家なら、叩けば埃が出るだろう。ユミト及び福祉班の記録に聞き込み話を追加したら、虐待疑惑でも叩けそう。
脱税疑惑と実子虐待の嫌疑に加え、もしかしたら寄付金詐欺疑惑もくっつけられるかもと息子達や知人に指示を出した。指示されて働く主な人物はロイとネビーである。
軍師役を放り投げることに成功した二人は、言われた通りにするのは楽だと喜んで資料増やし。
この辺りまでなら、ナガエ家は「運悪く役所の監査対象になった」くらいで済んだのだが、問題はここからである。
ロイの妻、つまりユリアの母親リルは「娘の友人が可哀想な事になっているけど、頼れる家族がいるから安心」とわりと呑気。
マリを世話する者達は足りていて、妹レイがとても親身だから、自分が出来るのは娘と共にたまにお見舞いに行くことくらいだと、娘の友人に対して過剰でも不足でもない対応をした。
しかし、このリルが火の海の原因人物である。
彼女は新婚当初に旅先で出会った身分格差のある親友に、いつものように手紙を書いた。
手紙の内容の一部はこうだ。あっという間に人を腐らせる恐ろしい病があると知った。娘の友人が被害に遭ってしまったけれど、運良く命は助かった。赤鹿が守ってくれた。赤鹿は相変わらず賢くて偉い。
娘の友人は片足になってしまって、実家に帰ると借金取りに売られるから、婚約者の家で守ってもらっている。
注)既に真実とズレ始めている。
その婚約者の家が借金のかたに売られてしまうようで辛くて悲しい。
婚約者は龍神王様と同じ形の左手を持って生まれた幸運の子なのに、そう思わないで「気持ち悪い奇形だ」と家族に捨てられたようで、天涯孤独と同じような状態だそうだ。
注)ほぼ合っていて義父と夫と兄の会話を聞いて把握。
お金がわんさかあれば助けてあげられるので、夫と兄が頭を下げて回ったり、義姉が稼ぐと張り切っている。
注)かなり真実からズレている。
頼りになる家族がいるから、娘の友人まで助かって、娘もまた毎日笑顔になるだろう。自分は自分の出来ることをして、娘の笑顔を作ってくれる娘の友人を助けてあげたい。
リルは皇居で暮らす華族ルシーに、そのような世間話と子育て話を手紙に書いた。
これを読んだルシーは、親友が教えてくれた恐ろしい病についてあちこちで話した。兆候に気がつけば命が助かる可能性が高くなるので、知っている者は多い方が良いと。
さて、縁とは実に奇妙なものでルシーのこの忠告で一人の皇子が小指を失うだけで済んだ。侵食兆候が出たら切り落とす部位が増えるところだったが、小指のみで対処出来て万々歳。
助かったのは、久々に帰国していた猛虎将軍ドルガ皇子の第二子。猛虎将軍ドルガは現皇帝の弟にして、大変重宝されている人物である。
煌国東部守護神、敗北知らずの猛虎将軍は煌国国防の要にして全ての兵官の頂点。
よって、当然のようにルシーは大変褒められた。しかし、彼女はその誉を独り占めせず、自分ではなくて下街暮らしの友人のおかげだと語った。
それならその友人にも褒賞を与えると、皇帝陛下と猛虎将軍ドルガはルシーに何が欲しいか考えるようにと命じ、友人にも尋ねるように指示した。
ルシーは、友人リルの性格を考えると仰天して驚愕して何も要らないと言いそうなので、色々隠して単に「今、何でも望みが叶うとしたら何を望みますか? 何が欲しいですか?」と質問。
リルはうんうん悩んで、悩みに悩んで、そういえば最近読ませてもらっているシンが書いた小説の一つは「灰疹病」が題材で、そうしたのは読者の誰かが誰かを助けてくれるようにだと思い出して、今一番欲しいものはこれだと決定。
ルシーは皇帝陛下と猛虎将軍ドルガに対して、この望みと理由を伝え、皇族から褒賞と聞いた友人は畏れ多いと辞退したり、うんと小さな頼み事しかしないと判断したことと、庶民中の庶民がいきなり皇族から褒賞を賜ったとなれば、数多の者にすり寄られたり詐欺師に狙われるので、全て彼女には内密にして、彼女の望みだけを叶えたいと伝えた。
その頃、歌姫アリア、奇跡の生還という一報が皇居に届く。
彼女は海辺街で保護されて、記憶が曖昧なので自身が歌姫アリアだとは知らずに過ごし、美しい容姿と舞や演技の才能があるのでと誘われて、東地区の|陽舞妓〈よぶき〉一座輝き屋へ。
歌姫アリアは巡業の際に輝き屋で舞台を観劇し、さらには特別公演も実施していた。なので、ここで歌姫アリアの生存が判明。
記憶が曖昧な彼女をどうするものかと悩んでいたら、彼女は若手役者が持ち帰った小説を読んで、自身が何者なのか思い出した。
その小説の題名は「奇跡の歌姫」で、南上地区では大手の出版社が発掘して売り出そうとしていた青年が書いたもの。
新人小説家の筆名はシンイチで「奇跡の歌姫」は病で足を失った妻を元気づけたくて書いた、売る予定のない私的な小説だ。
皇居でこの北部海辺街暮らしのシンイチという小説家は、例の「雪萼霜葩の君となら」と同じ作者なのでは? という話になり、紆余曲折を経て「奇跡の歌姫」も印刷しようとなった。
何も知らないリルは親友ルシーから「リルさんが教えてくれた小説が皇居で流行り出したから、印刷本になるようですよ」と教わり、きっと本が沢山売れるから、シンとマリは借金取りに屋敷を取られずに済むと、とても安堵。
こうして、とある日の新聞記事に「歌姫アリア、奇跡の生還。奇跡の歌姫という私小説が歌姫に奇跡の記憶復活をもたらす」というような歌姫アリア生存と発見という記事が載り、そこには「奇跡の歌姫」は近日発売調整中、初作「雪萼霜葩の君となら」は先行全国一斉販売決定と書かれた。
☆★
リルが親友に送った手紙が原因で、別の事件も起こった。
猛虎将軍ドルガは、姪がとても親しくして信用している女官吏ルシー宛の庶民リルの手紙を帰国のたびに読んで、庶民は愉快だ、絵が下手うまだと大変面白がっていた。
それはもう何年も前に、たまたま姪に「ルシーが貸してくれた愉快な手紙」を姪に読ませてもらったことがきっかけ。
しかし、そのリルの手紙が、今回は彼を激怒させた。
「兄上と同じ左手を持っている息子を疎んで捨てる区民がいるとは兄上と俺への侮辱だ!」
猛虎将軍の双子の兄のアルガは、第一属国に婿入りして華国 で王を務めている。彼の左腕は細めで短めで指が四本しかない。
アルガを尊敬してやまないドルガは激昂し、これを宥めるのに皇族や数多の官吏が右往左往。
その怒りは龍神王の住まう霊峰ユルルングル山脈よりも高く険しく、元々弟を制御出来ない皇帝陛下は根を上げて、父亡き後にドルガを制御出来る双子の兄アルガを召喚。
それでもドルガの怒りは止まらないので、今度はわざわざ西の大蛇の国から兄フィズを召喚。
アルガとフィズに宥められて、ドルガの怒りはおさまった。
ガエン・ナガエとその一族郎党はシン・ナガエ以外全員処刑しろ、むしろ俺が直々に一人一人生きるに値するか確認して性悪は全員殺す。という残酷無慈悲な命令は撤回され、常識的な罰になる。
そういう経緯で、ナガエ家に入るはずの監査や調査は地方区庁ではなくて本庁が担当するという、何も知らない者からすると過剰気味なものへ変化。
この監査や調査は、俺と兄上を侮辱した家など滅ぼせ、という猛虎将軍ドルガの命令があったなんて知らないナガエ本家ガエン・ナガエには寝耳に水。
ナガエ家の調査や監査を扇動していたガイ・ルーベルも、皇居での騒動を知らないので、なぜか本庁が乗り気だから、叩いたら思ったよりも埃が多かったようだと認識。
嫁が手紙に書いた内容で、あの気性の激しい猛虎将軍ドルガが激昂して、本庁が出張ってきたなんて夢にも思わず。
各役所はこんな小物商家に対して大袈裟な事をしたくないし、後処理にも追われたくないので、資料を読んで使いやすいオケアヌス神社の奉巫女達と農林水省南地区本庁の権限を使用することに。
そのようにして、シン・ナガエの父親ガエン・ナガエは南西農村区の北部海辺街にあるオケアヌス神社の奉巫女一同に土地と屋敷と人材を寄付して、財務省本庁が指示する業務改善令に従いなさいという命令をされた。
それから、虐待疑惑の真相は闇の中だが、疑わしきは罰すると、煌護省南地区本庁は中央裁判所経由でガエン・ナガエとシン・ナガエを離籍。
シン・ナガエは既に商家、豪家並みに稼いで納税しているので小説家なら豪家だと、苗字「アルガ」拝命が決定。
アルガ家には通常の初代最下級豪家に対しては通常付与されない種々の特権が与えられたが、ナガエ家と永劫縁組み禁止令も付加された。
同時日、息子の体調がわりと良くなってきたので帰ることにしたドルガとその兄アルガは、帰宅前にシン・ナガエの屋敷を来訪。
突然、雲の上の者達が来訪して「オケアヌス神社管轄の新しい寺子屋を見たい」と言われてマリもシンも腰を抜かした。
皇族の家臣達が家の中で軽い宴席を手配し、シンとマリは居間の上座に座らされ、二人の左右にはドルガとアルガ。その間にはまだ幼いドルガの第二子がカゴの中ですやすや眠っているという珍事。
ドルガとアルガは庶民の反応を面白がって、なぜここに来たのか本当の目的は言わず。
マリは隣に座るドルガに延々とお酌をして、シンは隣に座るアルガに「お揃いの手だな」とか「君の本二冊を気に入ったんだが他にもあるのか?」と話しかけられ、目を白黒させた。
「なんだ。夫婦だと聞いていたのにまだ婚約か。どれ。この俺が二人を夫婦にしてやろう。セト、紙と硯、筆を用意しろ」
「かしこまりました」
ドルガはさらさらと美しい文字で、シン・ナガエとマリ・フユツキを夫婦と認め、龍神王様から民を預かる皇族として、その関係を祝福し、永劫安寧を保障するというような文を綴った。
「ドルガ様、本日よりその者は新たな苗字と豪家拝命となっております」
「そうだった。やはり揃いの手だからアルガの名を与えることにする。変更は無しだ。セト、これを龍皇礼書とし、豪家授与書にも俺とアルガの印を押せ」
「かしこまりました」
ここでシンは、官吏セトからナガエ家から離籍となり、彼がアルガという苗字の豪家を拝命したと知った。さらに茫然自失である。
「ドルガ。我が国の歌姫が世話になったようだから、そこに私の名前も足してくれ。セト、私の印は私が押す」
「かしこまりました」
「豪家アルガ家の特権は、兄上が常識的な範囲で足した。それとは別に、この俺は特注の義足に加えて半永久的な印刷機使用権を与えよう。つまらぬ作品には使わせないからな」
こうして、マリは歩きやすい、庶民ではまるで手の出ない義足を手に入れて、シンは小説家が喉から手が出る程欲しがる売れっ子作家の証を入手。
驚愕して萎縮しているシンの頭はあまり働かず、彼はこれまで書いた書籍全てと、販売待ちの本の原本、それから間違って日記の一部をアルガとドルガへ差し出した。
ドルガとアルガは一刻半程滞在。こうして、シンとマリは放心状態のまま夫婦になり、義足調整が終わり次第オケアヌス神社で挙式と決まり、帰国するドルガとアルガはその手配をオケアヌス神社と農林水省南地区本庁に一任。
それはリル・ルーベルが親友ルシー宛に手紙を送った日から数えて十八日後のことであり、歌姫アリア生存という号外新聞が煌国中に配布された日のことであった。




