十一話
色っぽい場面で女と手を絡めたことはあるけれど、今のような手繋ぎは人生初というギイチは、全身の毛穴から汗が吹き出しているのではないかというくらい緊張し始めた。
ほんのりと頬を桃色に染めて、恥ずかしそうに
俯いて微笑むマリを時折横目で見ながら、首筋がくすぐったくなるとソワソワ。
これは経験しないと書けない心理だったとか、近くで観察しないと知らなかった女の顔だと考えつつ、マリの手は小さいとか、手汗をかかないようだとか、気持ちの悪い手で触るなというような素振りや表情を見せないな、などと思考は高速回転。
小神社へ到着して、マリが副神様に挨拶をするというので彼女が参拝するのを眺める。それが終わるとギイチはマリの手を引いて境内の裏に回った。
そこには逢瀬中の若い男女がいて、丁度良いことにキスしていたので定番は本当に定番で、花街外以外で男女がキスしているのところを目撃したことはなかったので、これは良い資料だと若干興奮。
「シ、シンさん。お邪魔むしですので行きましょう」
「昼間に容姿が平均並みの男女だと絵になるというかエロさより美しさが際立つな。金が絡んでいないからか?」
マリに繋いでいる手を引かれたけれど、ギイチは無視してしげしげと観察続行。
「……へぇ。外でここまでするか」
触れ合いだけのキスだけではなくて、互いに貪欲になったし、男が女の胸を弄り始めた。
「シ、シンさん……。シンさん……」
背中に熱と重さ、それから柔らかさを感じたギイチは勢い良く振り返った。マリが身を寄せていて、見える範囲であるおでこと耳が秋の紅葉のように真っ赤になっている。
「欲情……はしないか。君のことだから羞恥心が爆発したのか?」
「は、は、はい……」
「学校帰りに街の影でああいうことを目撃したことは無かったのか?」
「付き添い人なしで歩くことはありませんし、このような人の少ない場所は、襲われることがあるらしいので近寄りませんでした」
「それは正しい判断というか、正しい教育だな」
この調子のマリに手を出したらどうなるだろうかと、ギイチの中で知的好奇心だけではなくて色欲がむくむくと湧き上がる。
体の向きを変えて、近くの木の幹にマリを追いやって、彼女の体を木の幹に押しつけた。
「き、きゃああああああ! い、家の中でにして下さい! 見られてしまいます……」
大絶叫後、マリは小さな声を出して、うるうるした瞳でギイチを見据えた。色々と幼いのにこの上目遣いには色気があるなと考えていたら、先程の男女のうち男が「何事ですか!」と登場。
「貴様! 女の敵は許さんぞ!」
「えっ?」
殴りかかってきた男を避けたギイチは彼から遠ざかった。女がマリに近寄って「大丈夫ですか?」と声を掛けている。
「何かあったのか!」
「兵官さん! 強姦魔です!」
「ち、違っ、違う!」
振り向いたら後方から見回り兵官が二人登場。男が叫んだ瞬間、ギイチは大声で叫んで否定。
「婚約者さんですって!」
女性のこの発言により、ギイチは見回り兵官に軽い聞き取りと身分証明書の確認をされるだけで済んだ。
「かわゆいお嬢さんと婚約者になれて浮かれる気持ちは分かるが配慮してあげなさい」
兵官のこの見送り台詞に対し、ギイチは苦笑いで会釈して、マリと二人で神社の敷地を出た。
「君と出掛けると毎回兵官に職質される」
「うどん屋へ行った際は……いえ、少しありましたね……」
「過保護にカゴの中で育てられて、兵官達にも過保護にしてもらえるとは。殺人で死罪にならないのも若い女の特権だ。襲われたので懐刀で刺したと言えば罪から逃れられる」
「兵官さんや火消しさんは、いつも私達を気にかけて下さいます」
「若い方は君に惚けていたからな。格上お嬢さんと話せて幸運みたいな締まりのない顔で呆れた。しかし、外に出ないと知らなかったことだ」
「仕事に役立つお出掛けということですね。楽しそうで何よりです」
「楽しいのではなくて愉快なだけだ」
「それは楽しいということではないのですか?」
「違う。そういえば君の懐刀はどこだ」
「教えたら護身になりません。夫にも教えるべきではありません。夫が代わりに使ったら大変ですから」
「帯に刺してある懐刀を手にして、という表現は誤りってことだな」
そこそこ人がいるところでなら、変なことにはならないだろう。そう考えて、ギイチは海岸へ向かうことにした。
今日のマリはとにかく喋る。早口ではなくておっとりしているけど、一言二言返事をしたら、次から次へと話題を出してくる。
家の中だとこうではないので、この変化はギイチにとってかなり謎である。
ただ、ギイチ自身も普段よりも饒舌になっているということを彼は自覚していない。
ギイチはマリが繁華街へ来たから楽しくて、それで良く喋るようだと考えているが、マリが沢山喋るのはギイチが笑顔で返事をしてくれて、あまり嫌な台詞を口にしないからである。
ギイチは育った環境故に他人の感情の機微に敏感だが、鈍い面もある。
なにせギイチには自分が好まれる、という発想が無い。
☆
砂浜を歩いているとマリが足を止めた。
「シンさん、シンさん。おちびなザリガニさんがいます。巻き貝を背負っていますよ」
マリがしゃがんで見つめる先にいるのはヤドカリ。以前散策した時に見たことのあるヤドカリとは異なり、鎧のような鉛色の殻のような体で、ギイチの掌の半分くらいの大きさだ。
海には数多の生物が暮らしていて、なまこやイソギンチャクのような訳の分からない形態のものもいるので、ギイチもマリもこの生物を変わったヤドカリだと認識。
「それはヤドカリだ。ザリガニではない。ヤドカリだからちびよりはデカい」
「ヤドカリ。宿を借りているからヤドカリですか? せっせと歩いて愛くるしいですね。ハサミに金平糖のようなものを持っていますよ」
マリがどういう反応をするのか気になり、ギイチはヤドカリを蹴飛ばした。ヤドカリの鉛色の体に太陽の光が乱反射して虹色に輝き、煌めきながら海へぽちゃんと落下。
「おー。今のは綺麗だな」
「まぁ! シンさん! 弱いもの虐めは酷いです!」
立ち上がったマリはぐいっとギイチに近寄り、眉間にシワを作った怒り顔。
「この世は弱肉強食だぞ。どうせ君も無自覚に蟻を踏み潰している」
「無自覚とわざとでは違います!」
マリは先程までニコニコ笑っていたのに、今は正反対の怒った顔なので、その落差になんとなく胸がざわつく。
「シンさん、命は失われたら……」
自分の後ろに視線を向けて驚くべき何かを発見した、というようにマリが表情を変化させたので彼は振り返った。
そこには赤鹿が一頭いて、その赤鹿に頭でうりうりされて砂浜に転がる男性。それからその男性を眺めて楽しそうに笑う警兵ユミトの姿があった。
「まぁ、ユミトさん」
マリの声が上擦ったのでギイチの眉根が自然に寄る。
「今日も遊ばれていますね」
「畜生、また振り落とされた」
ユミトさん、とマリが小走りで彼に駆け寄っていく。ギイチは思わず腕を伸ばして彼女を捕まえようとしたが、その手は空を切った。
無意識の行動に仰天して、自分の手を見つめる。
「こんにちはマリさん。お出掛けですか?」
「その、シンさんとデートです」
聞こえてきた単語にギイチはゲホゲホとむせた。
「シンさんと一緒……おおおおおお!」
ユミトが拍手を始めたので、ギイチは「その拍手はなんだ」と軽く叫んだ。
「何ってお祝いです。引きこもりで陰鬱だから心配な若い男がこのように出掛けているとは良いことです」
「君はちょこちょこそのようにズケズケ言うよな」
「ええ、仕事柄。しかしシンさん程ではないです」
「口では調子の良いことを言う奴よりも何倍もマシだ」
「お世辞や愛想、建前も大事ですよ」
「うるさい。行くぞマ……」
マリは「きゃあきゃあ」と表現出来そうな楽しげな様子で体に赤鹿に頭を寄せられている。
「くす、くすぐったいです。ふふっ」
「……」
こういう場面を書くかもしれないとギイチはマリに改めて行くぞとか、帰るぞとは告げなかった。
これも取材は言い訳で、単に可愛いから永遠に眺めていたいだけである。
「うわぁ。ユミト先輩、どこのお嬢様ですか? すこぶるかわゆい……」
「あの、俺は先輩ではなくて、先輩はトガワさんです」
「赤鹿関係の先輩はユミトだ。それに俺は十才くらい年下なんで、そういう意味でも後輩です」
「うーん」
「それで彼女はどこのお嬢様ですか?」
「そこのシンさんの婚約者さんです。会話を聞いてなかったんですか? いや、赤鹿にうりうりされまくって、それどころじゃなかったか」
「……」
トガワはシンを見据えて、無表情からしかめっ面になり、次にマリを見つめてヘラッとした笑みを浮かべ、すぐさまうずくまって「畜生!」と呻いた。
「ユミト、なんだこれは」
「兵官は女にモテないので僻みと嘆きです」とユミトが呆れ顔でギイチに返答。
「モテそうだけどな。人気兵官は浮絵になるくらいだぞ」
「人気者とその他で落差があるってことです。まぁ、庶民の中では人気がありますけど、兵官って庶民の中から抜きん出たとか成り上がったって考えている者が多いのでお嬢さん狙いなんですよ。それで撃沈。このように中流層の男を羨ましがります」
「赤鹿乗りになれたらお嬢さんにモテるって聞いたから俺は赤鹿乗りになる。女学校の先生に文通お申し込みされてみせる!」と若い兵官が立ち上がって、空に向かって拳を振り上げた。
「女学校の先生は取り合いですけど、赤鹿乗りだと女学校に招かれる機会もあるから励んで下さい」
「先輩は女学校に招かれたことがあるのか!」
「いや、まぁ。はい」
マリを買ってから色々なことを知ったが、まだまだ知らないことが多いなとギイチは兵官に改めて興味を抱いた。それに女学校に赤鹿乗りが出入りするという話も気になる。
「き、きゃあ!」
マリの叫びでギイチの視線は警兵達から移動。赤鹿に衣紋を噛まれたマリが連れ去られ始めていた。
「お、おい!」
「ケルウス! どこへ行く! 戻ってこい!」
赤鹿が走り出したので、シンとユミトも駆け出した。少し遅れてトガワも疾走を開始。
「あ、赤鹿さん! これは少々怖いです!」
「ケルウス! 止まれ!」
足の遅いシンを置いて、ユミトとトガワはみるみる進んでいく。しかし、赤鹿の足はそれよりも速くて遠ざかっていった。
しばらくして赤鹿は速度を落とし、やがて一人の女性の前で止まり、マリの衣紋から口を離してお辞儀のように頭を下げた。
ギイチは眼前で起こった光景に目を奪われた。
海から注ぐ七色の輝きの中で微笑む神職服の女性に向かって、海から突如として貝が飛んできた。その数は一つではないが数多でもない。
まるで数個の流星とういうように注いだ貝に、ギイチは己の目を疑い、その目を擦った。
「ケルウスさん。私に貢ぎ物ですか? 人を貢がれても困りますよ」
「こんにちは、ウィオラさん。赤鹿さんになぜかここまで運ばれました」
赤鹿が奉巫女ウィオラの体に甘えるように身を寄せる。
ギイチはこれが普段は凡庸に見える奉巫女の真の姿かと鳥肌の立った腕をさすった。
これで神職の末端なら、更に上の斎宮はどのような存在なのか、彼女達はどれだけ奇妙な偶然を引き寄せるのかと想像を開始。
「鶴屋で昼食後に散歩ですか? あら。この痣……」
ウィオラは腰を落として砂浜に座り込んでいるマリに話しかけて、そっと手を伸ばした。彼女の手が触れたのはマリの右足。
ここからでは見えないと、ギイチは回り込んでマリの足が見える位置へ移動。すると、マリの右足の親指にまるでカビが生えたような灰色の痣があった。大きさは末銅貨くらいである。
「この間気がつきましたが痛くないので大丈夫です」
「この間、数日前ですか?」
「はい。四日前です。先程は驚きました。服が違うのもあり、別人のようです」
「四日……。これがあるから私のところへ運ばれたのかもしれません」
「ウィオラさん、どういうことですか?」
「ご両親に手紙……ではきっと遅いので……ユミトさん。伝言をお願い出来ますか?」
ウィオラの表情が曇っていて悲しげなのでギイチの胸がザワザワし始めた。雲が多くても青空だったはずなのに、いつの間にか黒い雲が増えて世界が暗くなっていく。
「ウィオラさん、マリさんのご両親に何をどう伝えれば良いですか?」
「……。四日前……。いえ、その前に急いで彼女を運びましょう。連絡している場合ではなさそうです」
ユミトの手で赤鹿に乗せられたマリはオケアヌス神社へ運ばれた。到着直前にマリは熱発して、灰色の痣は全ての右足の指から足首まで進行。
「ど、どうなっているんだ! これはどういうことだ!」
「海の大副神様と人を繋ぐ者として貴方に命じます。海岸で誠心誠意謝罪してきなさい」
ウィオラはギイチを睨むと、神社の境内内の部屋なら畳の上でぐったりと横になって大汗をかいているマリの足首を縛り始めた。
「はぁ? 突然なんだ。謝罪? なんの謝罪だ」
「本斎宮様とは異なり、私達奉巫女程度では全てのお言葉を受け取ることは不可能です。しかし、海の大副神様は我らの民を傷つけたと貴方に対してお怒りです」
「は、はか、謀る気か! マリと共謀して金を巻き上げようと狂言か! 金があれば無傷で家に帰れるからな!」
ウィオラの襟元に手を伸ばしたギイチの体は後ろに引っ張られて尻餅をついた。後ろを見たけれど誰もいない。自分に手を伸ばせる位置に人はいないし、急いで自分から離れたという位置にも誰もおらず。
何に引っ張られた? とギイチはゾッとして全身から血の気が引いた。ウィオラが次々に指示を出していく。
お湯を沸かしなさい、斧の準備、火鉢と鉄の棒、それから医者と薬師、男手に奉巫女全員などとウィオラの命令や彼女への返事が飛び交う。
「おい! マリに何をする気だ!」
冷めた瞳のウィオラと視線がぶつかった時に、ギイチは一瞬だけその目の色が血のように赤いと錯覚した。しかし、それは気のせいで彼女の瞳は濃い土色。
「このままでは彼女は亡くなってしまいます」
「はぁ⁈ いきなりなんの冗談だ!」
「病に全身が侵食される前に、彼女の足を切り落とします」
その台詞にギイチは耳を疑った。得体の知れない化物のように感じるウィオラに気圧されて、侮蔑の含まれた瞳に射抜かれて、見下されるような視線に僅かに体を震わせる。
彼の本能が彼女に従え、逆らうなと告げた。他人を拒絶してまるで信じていないギイチですら受け入れてしまう程その感覚は強烈。
ミンミンミーン、ミンミンミーン、ミンミン——……。
蝉の鳴き声はやがて耳鳴りのように変化。ギイチは這いつくばるようにマリに近寄り、祈るように両手で彼女の右手を握りしめた。




