七話
シンに与えられた五月の仕事は家守りと言われた感想文や街中観察日記の提出くらい。
あやめの龍歌を元に文通して、文通資料を作るかと尋ねたら、バカとは文通にならないと断られた。
私が下街お嬢さんなのは誤算だけど、買い直しは難しいから、大型金貨五枚に相応しいお嬢様になれと命令された。これでは詐欺だとは、ぐうの音も出ない正論だと思う。
契約当初は禁止だったけど、両親に手紙を出して良いと言われたので早速手紙を送った。長女姉への手紙も許されるだろうと考えてそちらにも。
返事はすぐにきて、親切にされているようでとても安心したというような内容。会いに行って良いという許可も得られたと教えた結果、すぐに来たいというので、シンに相談したら「好きにしろ」で終わり。
さっそく来た両親と姉は、土下座の勢いでシンに感謝したけど、シンは「必要だから許しただけで、感謝されるような事はしていない」と逃亡。照れ屋なのと、まだまだ人見知りが直ってないのだろう。
家事をしないで読書をしろとは悔しいので、私は早寝遅起きを敢行して家事にも読書にも励もうとした。
結果、共倒れしてどちらも中途半端になり、シンに家事禁止令を出されてしまった。
三食マリの作った食事が食べたいと言われるはずが、朝食のみで良いになり、ついに作るなと言われるなんて、努力は必ずしも報われない。
夕食だけではなくて朝食も長屋でになり、昼食は朝作ってもらうお弁当に。私は炊事に参加禁止。シンに「君は下手過ぎるから教われ」と言われたアザミが、レイやマホ達に混じって料理に勤しんでいる。
洗濯物は洗濯屋、縫い物は針子、掃除は三日に一回日雇い女性が来ることに。洗濯屋も針子も家に来るように手配されたので、私がすることは応対や支払い。
使用人を一人雇う方が効率的で安い、とシンは住み込み奉公人を募集すると言い出した。
長屋にいた時にそういう話が出たので、レイが「それなら心当たりがあるので少し待って欲しい」とシンに依頼。
アザミが「人嫌いの引きこもりがここまできた」と喜んでいるけど、家守りをクビにされた私としては少々複雑。
私は色春込みの住み込み使用人の予定だったのに、色はちっともされないし、春に至っては正しい知識を与えられずに調べることもまだ禁止されていて、家事禁止令である。
なんだか、当初の裏契約内容からどんどんズレている。
★ 約一ヶ月後 ★
雨宿りで濡れる、を改訂する過程でギイチは知恵熱を出した。死に別れでサラッと終わらせる予定が、テオに悲恋は嫌だとメソメソ泣かれたので、この作品でどう大団円にすると悩みに悩んだ結果だ。
下地に身分格差があるので、病という障壁が無くなっても、二人の問題は解決しない。貧乏男とお嬢様の秘密の恋はどうしたら成就するのか、その問題の答えは試行錯誤しても分からず。
何度も改訂した短編小説は中編小説になり、担当編集や編集者会議で褒められて長編になるも、どうこねくり回しても悲恋物になる。
これは乙女の胸を打つ、と編集達から解決策の意見を提示されて改編し、遊びに来るテオに「知人作家が変更した」と読ませては「この結末だけは嫌だ」と言われ、それに妙に同意してしまって納得出来ずに熱発。
同時進行で進めている作品が数作あり、そちらにも同じような熱量なので、発熱は一作に対する心労や苦悩だけが原因ではない。
☆
朝、長屋へ行く時間になってもシンは居間へ来なくて、待っても待っても来なくて、アザミが来訪。
彼に「何かありました?」と尋ねてきたので彼は寝坊していると伝えた。
「先生はまた朝まで執筆していたんでしょう。昼だけではなくて、朝食分もお弁当を作ってもらいました」
「ありがとうございます」
二人分のおにぎりと、おかずが詰めてあるというお弁当箱を受け取って、出勤するアザミをお見送り。アザミはそこそこ売れっ子の小説家「偽異魑」の世話係としての仕事が減った分、出版社での仕事が増えているらしくて、前よりも早く出勤するようになった。
今日は日雇い掃除人も針子も来ない日で、雨がしとしと降っているので洗濯屋も「洗濯物はありますか?」と来ない。
一人で朝食をとって身支度を済ませ、居間でルロン物語を読み続けていたら、十一時を告げる鐘が鳴った。シンはまだ起きてこない。
読書に飽きたので、完全禁止にはされていない掃除を開始。目的の部屋を綺麗にしたので、雨だから中庭近くの小部屋に入れたイノハと遊ぼうと移動。
糞尿をしても良いように草を敷きまくってある小部屋を掃除。次にイノハを廊下へ連れて行って撫でたり餌の野菜をあげた。
十五時を告げる鐘が鳴って、流石に遅いとシンの様子を見に行った。寝坊したシンはいつも「腹が減った」と居間に現れるか私を探す。
しかし、二回だけ寝坊してもそのまま執筆を開始して、延々と食べることを忘れて夕食の時間になったことがある。今日は三回目なのかもしれない。
シンの部屋へ行き、声を掛けてから障子を少し開いた。私は最近、声が聞こえない程集中しているシンの後ろ姿を盗み見するという趣味を得た。
私は何かに真剣に打ち込んだことがない。なので、破廉恥作品を書いているとはいえ、音が聞こえなくなったり、寝食を忘れる程熱中出来ることも、更に世間に評価されていることもとても尊敬する。
しかし、今日は机に向かっている背中は無くて、シンは畳の上に倒れていた。
「シンさん!」
勝手に部屋に入ることは禁止だけど、これは緊急事態なのでその約束事は破る。障子を開け放って駆け寄ったら彼は苦悶に顔を歪めていた。横を向いて寝ていて、軽く震えていて、呼吸が浅くて速い。
伸びてきている前髪が汗で濡れていて、顔やおでこに張り付いている。もしかして風邪、と考えてそっと手の甲をおでこに当てたら高温。
「すみませんシンさん。てっきり寝坊やお仕事だと……」
彼から返事はなくて目も開かない。まずは布団へ、とシンを動かそうとしたけど、シンは体格が良い方ではないけれど、私よりは背が高いし男性なので筋肉も多いのか重くて無理。
寒気をどうにかしてあげたくて、押し入れから布団を出して掛けた。梅雨だからカビるので、絶対に万年床はダメなんて言わずに許していたら、熱が上がる前に自分ですぐに布団で眠れたかもしれない。
シンは一瞬薄目を開けて、私に向かって「出て行け。風邪はうつる。このバカ……」とかなり小さな声を出した。
具合が悪いのに他人を気遣える彼は、やはり優しい人だと感じたけど、バカは余計だ。シンは口の悪さを直すべきである。
高熱の時は熱を下げた方が良いので、濡らした布を用意しておでこに乗せて首の上から横にかけてつけた。首の後ろは冷やさなかった方が良かったはず。
シンに声を掛けたけど返事はない。家を出て、以前火消し見習いに教えてもらった薬師所へ行って順番を待って診察相談。
受付で問診を取ってもらい、いつからか分からないけれど発熱して倒れていたと伝えたら「早めに呼ばれます」と言われた通り、あまり待たなかった。
「発疹が出る風邪が流行っていますが、発疹はありました?」
「見えるところにはありませんでした」
「見えるところとはどこですか?」
「顔と首と手と足が少しです」
手足はこのくらい浴衣から見えていたと説明したら「違そうです」という返事。
「風邪の兆候はありました? 咳や鼻水、喉の痛みなどです」
「いえ」
「体のどこかを痛がっていたりは?」
「いえ」
「それで倒れていて、辛そうな顔で倒れていて、呼吸が小さく荒かった……。現時点で必要な薬は熱を少し下げる可能性のある薬くらいです。あまり下げるのは良くないので意識がはっきりしている時は飲ませないように」
最大一日二回を二日分だけど、四では縁起が悪いので縁起数字の三つだと薬袋を渡された。
おでこと首を濡れた布で冷やしていて良いので、それに脇も追加。
それで少し熱が下がって目を覚ますはずなので、そうしたら首の後ろは温めること。それから汗をかいている服をそのままにせずに着替えさせること。
看病する時は鼻と口を覆って、前掛けをして、部屋から出たらそれは外から内側へ向かって丸めてすぐ洗濯するように。洗濯が無理なら叩いて風通しの良いところ、出来れば外で干す。
提示した身分証明書が未成年で、同居結納相手と二人暮らしと伝えたからか、基本的な話もしっかりしてくれたので、落ち着いて帰宅したら何をすれば良いのか考えられる。
「飲み物や食べ物はこちらの用紙を参考にして下さい。呼吸など様子が変になったり、どこかを痛がったらまた来るように
女学校で習った範囲の話をされたし、渡された紙の内容も同じく。やはり、現段階ではお医者さんにかかる程ではなさそう。
お礼を告げて、受付で相談料と薬代を払って小走りで帰宅。まだ熱にうなされているなら早く薬を飲んで欲しいし、少し熱が下がって意識がはっきりしていれば水分補給や着替えなどのお世話を早くしてあげたい。
急ぎつつたまごを二つを買って帰宅したら、シンの意識はまだ辛そうに寝ていた。
★
久々に褞袍を身につけたギイチは布団に座って大きなため息を吐いた。
「なんだよ。怠いんだろう?」
匙を差し出すテオを軽く睨む。テオは前回と同じく、手紙などで知らせずに来訪した。「明日は休みで明後日は夜勤だから、やぁ」と夕食後の時間帯に登場。
マリが「シンさんは療養中です」と伝えたら、火消しの仕事の一つは病人の看病手伝いだからと家に上がって、今はシンの部屋にいる。
「そうだけど……」
「やっぱりマリさんに頼みたいならそう言え」
「だ、誰があんな女の世話になるか!」
「お前は本当に天邪鬼だな。俺の世話は嫌だと顔に書いてあるのにそうやって口からは別のことを言いやがって。素直になれ。損するのは自分だぞ」
テオに頬をつままれたギイチは「触るな」と言葉では抵抗したが、力が出ない状態なので手で払うことは出来ず。
「んー。やっぱり帰ろう。そうしたらマリさんに世話されないといけなくなる。遠くまで鍛錬がてら走ってきたのにもう帰るのかぁ。日勤明けで疲れているのになぁ。また走るのかぁ。温泉を楽しんで無いのに、もう、帰る、の、かー!!!」
わざとらしい台詞と言い方にギイチは小声で「やかましい……」と返答。
「熱くらいしかないから風邪とは違そうだけどマジで元気ないな。マリさんに疲れているから風呂に入って寝たい。明日の看病は任せろって言うてこよう〜」
マジとはどういう意味の言葉だ。真面目な省略か? と質問する前にテオは去って、しばらくするとマリが入室。
彼女は布で鼻と口を覆っていて、いつの間にか使うようになっていた割烹着を身につけている。
「テオさんはお仕事でお疲れで、入浴したら寝るそうです」
顔の下半分は隠れているけれど、マリの形の良い目が三日月に変化したなので、優しく笑いかけられたと伝わってくる。
「……。挨拶だけ来て、看病するつもりだったけど、思っているより疲れているからやめる。悪いって言われた……」
君に世話されたいだろうと言われたなんて口が裂けても言えないので、ギイチはそう嘘をついた。それで怠い腕をなんとか動かしてお粥を食べ始めた。
「お着替えは手伝ってもらったのですね。洗濯物を受け取りました」
「ああ……。別に…」
もうすることは無い、と言い掛けてギイチは最後まで口にしないで唇を結んだ。
権力者達が裏にいるレイに、半年間口説いてダメならマリを家に帰せと言われた瞬間、彼の中で入籍は面倒なことになるとギイチの中でマリとの結婚は取りやめた。
未婚女性と最後までしたら、誰に何を言われるか分かったものじゃないのでマリの処女も諦めている。
とりあえず今進行中の話では、生々しい破瓜話は必要無いので、そのあたりのことは一旦無視することに。
金の為とはいえ、ある程度覚悟を決めている彼女にわざわざ「君には味方がいて、その人達が怖いから何もしない」と言う必要はない。
言わなければ、多少手を出しても、それが婚約者の範囲のことなら、権力者達や世間に糾弾されたり、陥れられることはない。
半年間口説いてダメなら家に帰せということは、口説いた結果落とせたらこのままの生活で良いということになる。
己の気持ちを素直に受け入れて、練り切りの形をあやめにすると決めて、さらにそれを龍歌と共にマリへ贈った時からギイチは資料の為ではなくて、自分の恋慕に従って彼女を口説こうという気持ちを抱いている。
けれども、初っ端にマリの教養不足で不発に終わり、用意していた言い訳すら使えず出鼻をくじかれた。
決意がひび割れたので、本人を目の前にすると、羞恥心や猜疑心に拒絶されたらという恐怖心が勝って何も言えない日々である。
「テオさんは寝相が悪いそうで、シンさんとは一緒には寝れないそうです」
「それがなんだ?」
「熱を出した初日ですから、夜中や明け方に急変して気がつかなかったら大変だと助言されました。確かに心配です」
「……まさか、ここで寝るなんて言わないよな? うつるぞ」
「うつらないように障子のすぐ向こうの廊下に布団を敷いてで寝ますので、辛い時はすぐにこちらの棒鐘で呼んで下さいませ。火消しさんが連絡用に使う道具を貸してくれました」
一晩くらい歯を磨かなくても死にはしない。食べたら寝るとギイチはボソボソと喋った。
たまご粥をありがとう。そのくらいは口説きでも何でも無いので言わなければとぐるぐる考えながらお粥を口に運んでいく。
そうしているうちに、マリは「お休みなさいませ」と去ってしまった。




