五話
赤鹿乗り体験後、ギイチは赤鹿を観察している。小説に赤鹿を出す予定はないけれど、いつか使うかもしれないと、それはもう熱心に。
「なぁ、飽きないのか?」と近くに立っているテオがギイチに声を掛けた。
「飽きない」
このように触っても平気と言われている部分——背中と側腹部——をギイチは再度撫でて、感触をどう表現するか思案して反芻。
「まぁ、赤鹿を触れるなんて珍しいことだからな」
「もう二度とないだろうから」
「二度と? マリさんはユリアの友人なんだから赤鹿に乗りたいって頼めばネビーさんはまたここに来るだろう。なぁ、ネビーさん!」
テオが叫んだ方向は縁側で、そこに腰掛けているネビー・ルーベルは膝の上に乗る白兎イノハを撫でながら「ええ」と返答。
ギイチは赤鹿からネビー・ルーベルへ視線を移動した。彼はイノハを眺めてニコニコ笑っている。
マリやアザミから仕入れた一閃兵官の逸話は勇猛果敢なものばかり。兵官にしては背が低く、撫で肩気味で華奢そうな体つき。この兵官は強いと聞いても見た目からではまるで想像出来ない。
人気浮絵兵官といえば活躍しているか美形のどちらか。厳つい兵官達の中で美形は貴重。しかし、彼は凡庸な顔立ちで麗人とはとても言えない。不細工! でもないが彼の顔を一目で気に入って振り返る女性はいないだろう。
「自分はたまにしか来れませんが、ユミトがすぐ近くに住んでいるから頼めば更に触れるし、また乗れますよ」とネビー・ルーベルが穏やかな声を出した。彼はまだイノハを眺めながらその体を撫でている。
「赤鹿に触ったり乗ってみますか? なんて言われたことはありません」
「昔よりもマシになりましたけど彼は人見知りです。人見知りというか、壁のある相手に突っ込んでいけないという方が正しいかな。表情が豊かではないし口下手なんで分かりにくいけど、情に厚い優しい男ですよ」
顔を上げたネビー・ルーベルはイノハに向けていた微笑みをそのままギイチへ。ギイチは彼の目が炭のように真っ黒な瞳ではなくて、少々青みがかっていると気がついた。
弟のレイとも、今日一緒に来た顔がかなりそっくりのユリアの母リルとも異なる瞳の色合いはギイチの興味をそそった。
「ん? ルーベル? ネビーさんもルーベルでロイさんやリルさんもルーベルってどういうことですか? レイさんにリルさんがロイさんに嫁いだと聞きました」
嫁ぐ前もルーベルで嫁いだ後もルーベルということは、従兄弟に嫁いだということだろうかとギイチは首を捻った。
しかし、レイは最初に平家で鶴屋の奉公人レイと名乗った。その兄となると同じように平家なので違和感。
今気がつくなんて考察力や洞察力が低いと、ギイチは己に少々落胆。
「自分は二十年程前にルーベル家の養子にしてもらいました」
ロイ・ルーベルは特殊公務員家系の卿家で、裁判官は裁判官でも中央裁判所の人間である。その父となると、そこらの役所の役人ではないはず。
妹の嫁ぎ先に媚を売って家柄という肩書きを手に入れたか、最初からそれ目当てで妹をロイ・ルーベルへ当てがったのだろう。貧乏から成り上がって地区兵官、というだけ満足しないとは野心家。
ただ、鶴屋で大狼襲撃事件の話が出ても、アザミが彼の武勇伝を尋ねても、遠慮がちで口数が少なかったので印象がチグハグだ。
「レイさんが元貧乏と言っていました。本当ですか?」
「ええ、教育費貧乏です。金食い虫の長男のせいで妹達も道連れでした。弟が一人でもいたらどうなっていたのやら」
「……弟が一人でもいたら? レイさんがいますよね?」
「ん? レイは妹……って、教えて無かったんですね。勝手に言ったって怒られる。まぁ、別に良いか。必死に隠している訳ではないから」
声変わりしなかったような高い声、小さな背に女っぽい顔立ち。男性ではなくて女性だと発覚したら全てが腑に落ちる。
「……なんでレイさんは他人を騙しているんですか?」
「あの通り美人だから、かなりの男に言い寄られるんです。それに疲れたようです。一人で道を歩くのも苦労する時があるくらいで、少年風の方が快適だって」
「あの長屋の住人は知っていますか?」
おそらくアザミは知らないだろう。
「さぁ。ユミトは知っていますけど他はどうだか。あそこにはたまに顔を出すくらいなので把握していません」
「ユミトさんは知っているんですね」
「そりゃあ、ユミトが出会った時のレイは髪が長くて、服も花柄の着物などでしたから」
ここへ、そのレイが登場。仕事が終わったから遊びに来たと満面の笑顔である。家にあげたのはアザミかマリだろう。
「お兄さん、なんでオルガ達は居ないの?」
「たまにはウィオラさんとのんびりデート。鶴屋に泊まる」
「うわっ。万年新婚夫婦!」
「たまには良いだろう」
「たまにって、出張は毎回夫婦だけで最早旅行じゃん」
「その出張がたまにだろう。さっき、レイは女だってシンさんに口を滑らした。何も考えてなくて。別に良いよな?」
「そうなの? シン君〜。私は女でした〜。惚れたら火傷するぞ!」
片目つむりと指差しをされたので、ギイチは思わずそれを避けた。
「何その顔!」
ギイチは「三十才前後のババアなのに気持ち悪い」と本音は言わず肩を竦めた。
「若い愛くるしいお嬢さんは何をしても許されるけど、中年女性だと痛々しい。レイ、お前はもう少し落ち着きのある大人になれ」
「ちょっと! 私はまだお姉さんで通じる年だよ」
「俺がその年の時に片足ジジイって言っていただろう。だからお前はもう片足オババだ」
「でもほら、私は童顔だし、ご覧の通りかわゆいでしょう?」
「年増妹にはもう飽きてる」
「飽きてるって何よ! しかも年増って!」
「あはは。最近中年やオジジじゃなくて、ジジイって呼ぶ仕返しだ」
愉快そうに笑う兄妹をギイチはぼんやりと眺めた。街中で見かける仲の良い家族もこういう雰囲気である。自分には一生縁の無い世界。大半の人間が当たり前のように持って生まれる家族という関係性。
「シンさん? 顔色が悪いですけど大丈夫ですか?」
「……誰かに何か聞いていると思いますが闘病中で、体力が無いので失礼します」
ギイチは自室へ行き、机に向かって筆記帳を開き、衝動に任せて仲良し家族が強盗に襲われて若い娘が強姦される、という話を書き始めて途中で手を止めた。
若くて美しい下街お嬢さん、という設定で書き出したものだから、マリの姿がチラついて、自分が作り出した想像のお嬢さんに酷い扱いをしたくなくなったので。
「んー……」
両手で髪をぐちゃぐちゃにすると、ギイチはそのまま後ろに倒れて天井を見上げた。元旅館のこの屋敷の中で、この部屋はどのような役割を果たしていたのか知らないが、天井には色褪せた絵が並んでいる。
色紙を並べたように飾られている天井画は龍神王説法を描いたようなもの。
「神など居ないと思っているのに、この部屋を選んだ俺はバカだな……」
加護があると無意識に信じてこの部屋を選んだのだろうかと自問自答。もう何年も長い時間を過ごしている自分の部屋なのに無関心だった。
「……」
「シンさーん」
この声はテオだ、とギイチは横を向いて体を丸めて無視した。明るい性格の美形の火消しは目に毒。火消しや下街のことや一閃兵官の情報が欲しいから我慢していたけれど、虚無感が強い今は会いたくないどころか話したくない。
「大丈夫ですか!」
スパンッと障子が開いたのでギイチは慌てて起きて振り返った。
「た、倒れていたんですか!」
「い——……」
いや、と告げる前にテオはギイチに駆け寄ってしゃがんで彼の手を掴んだ。掴まれてから、執筆するのに不自由だからと左手を出していたとハッとする。
「体温も脈も正常……。おお、袖から出ていないから左手は無いのかと思っていたらあったんですね」
「さ、触るな!」
ギイチは慌ててテオの手から逃れようとしたけれど、彼の力では難しかった。火消しという一族は生来力が強めであり、ギイチは逆に生来左腕左手の力が弱い。
「あっ、ごめん。接触で痛むのか。悪かった。それにしては布か何かで保護していないんだな。皮膚病ではなさそうだけど」
テオは彼としてはそんなに力を入れていなかったが、さらに力を緩めてギイチの左手を持ち上げた。マリと同じく、ギイチがこれまで受けた罵倒や蔑み、怯えによる拒絶などではなく物珍しそうにしているテオに、彼は面食らって言葉を行方不明にさせた。
「……」
「これはまぁ、隠すか。皆が皆、龍神王様の爪の形だーって言うてくれる訳ではないからな。人と違くて生きにくい人は多い」
「……他にもいるのか?」
「四本指でこんなに細い手は知らないけど、短い尻尾が生えていたとか、指が六本や、口の真ん中が少し裂けているとかはまぁ。それで捨てる親が居るから火消しが拾う」
「……拾ってどうするんだ?」
「火消しが拾うんだから育てるに決まっているだろう。病気で子が育たなかった家族が欲しがるから養子にする。火消し家族じゃないこともあるけど概ね俺らの家族になる。火消しって大体頭が悪いから補佐官候補として育てるんだ」
「……補佐官?」
「一部の火消しの肩書きでもあるけど、防所で働いてくれる役人のこと。これは動くのか? 外だと片手しか使わないから支障があるけど家の中では大丈夫か?」
「……」
以前のギイチだったら、触るなと叫んだ後にテオを突き飛ばして逃げていただろう。しかし、今彼は目の前にいるテオの瞳がマリと似たような輝きであると気がついている。
この瞳の光は慈しみや優しさ、心配と呼ぶ。偽善者で詐欺師だと疑う気持ちがイマイチ湧いてこない。
惚れたと自覚しても、認めてなるものか、受け入れてなるものか、信じるものかと拒絶していたマリという存在をつい最近受け入れたからだろう。
「何にそんなに驚いているんだ?」
「……。気味が悪い、妖や鬼だと言わなかったから……」
テオは顔をしかめて口をへの字にした。
「ここで闘病生活って嘘か? 親にここで一人で住んでいろって言われているのか? さっき、捨てる親がいるって言うた時に恨めしそうな顔をした」
「……だったらなんだ」
「殺す親もいるからここまで大きく育って良かったな。親っていうのは覚悟がなくても、他人に情を抱けなくてもなれる。なれちまう。不運だからロクデナシの親に生まれて、幸運だからこうして育った。本当の家族は自分で作ろうぜ。俺も協力する」
屈託ない笑顔を向けられたギイチはぼんやりとテオを見つめた。
「……」
「この手を見られたらどうしようっていう心労で疲れたってところか。にしても汚い部屋だな」
「汚くない。掃除している」
放っておけと言うギイチを無視するアザミとマリが乗り込んで掃除しているだけである。今のところ、その頻度は二日に一度だ。
「これで?」
「散らかっているだけだ。布団も干している」
布団を干しているのもアザミとマリである。二人が放置したら、この部屋の畳には万年床が生成される。
「小説家って聞いているけど、俺はあまり読書家じゃないからシンやナガエって名前は知ら……おお、良さげな題名の本を持っているんだな。緊縛女学校講師って既にエロい」
「それならそっちに女学校講師緊縛っていう対本もある。攻められるのと攻めるのどちらが好みだ? この二冊はその違いだ」
「そんなの攻める方に決まっているだろう。うおっ。春画付き。これ、花街本じゃねぇか」
資料を勝手に読むな、と思いつつギイチはこれで火消しの夜話を聞けるなと考えて余計なことは言わず。
攻める方に決まっているという台詞で、あの背が高めで凛としているユリアを攻めるのかと若干妄想。勇ましい凛々とした剣術小町は攻められるとどうなるのかと想像しようとして、手を繋ごうとしただけで突き飛ばされて骨折した男だとテオの左手を凝視。
手を折られてもまだ婚約者って、そのうちこの男はあの女に縛られるかもしれない。ギイチはそんな失礼なことを考え始めた。
「花街本って呼び方もあるんだな。どんな分野も参考資料になるから編集に持ってきてもらった。この手だからあまり外に出たくなくて、色々な人間について、わりと本から知識を得ている」
「緊縛が先にくると女が縛って、後にくる方は女を縛る本ってことか。エロいどころかどエロい春画だな」
「絵があれば充分か?」
「いや、内容も気になるけど人前で読むもんじゃねぇだろう」
「部屋なら沢山あるから一人で読んできて良いぞ。他にもあるから選んで持っていけ」
ギイチのこの提案は、戻ってきたところで初体験はいつだとか、火消しだとその年齢は平均かなどなどあれこれ質問することが目的。
「他にも?」
「有名古典から玄人向けの古典、最近流行りの本に艶本までそれなりにある。見ての通りだ」
ギイチの部屋は本棚が複数あって本がギッシリ並んでいるだけではなくて、いくつもの本の山がある。
「……花街本で女学生ものとかある?」
あまり明るくない部屋なので実際の顔色は分からないが、テオは明らかに照れ顔を浮かべたので恐らく顔も赤いだろう。女に受ける作品に必要なのは色男なので、美形はこういう照れ顔をするのだなと観察。
「現実的なものか? 女学生という設定なだけのエロい女がエロいことをしてくれたり、されたりするものではなくて、本物の女学生っぽい人物が出てくるとの」
「……そりゃあ、まぁ。うん」
「強姦されるものではなく?」
「そりゃあそうだ。当たり前だ。強姦魔は俺ら火消しや兵官が捕まえて斬首だ斬首。そんな本は破く」
自分の作品のいくつかは凖強姦ものなので破られそうだな、とギイチは自分の作品は隠すことにした。
「いや待った。女学生ものは生々しいからやめておく。ユリアの顔を直視出来なくなる」
直視出来なくなったテオを観察したら良い資料になりそう。そう考えたギイチは先日書き上げたまだ未完成の短編が書いてある筆記帳をテオに差し出した。
「作家知人から借りた。仮題は雨宿りで濡れる。そこそこ売れている人の未発表作だから良ければ感想を知りたい。まだ改訂したいらしい。短いから帰る前までに読み終わるだろう。花街本だ」
「いやぁ、今読みたい訳では無いけど……父上に発見されるたびに捨てられるからありがたく読んで帰る!」
母親ではなくて? と問いかける前にテオは「隣の部屋を借りる」と出て行った。
★
部屋に戻ってきたテオは「雨宿りで濡れる」を「これはエロ本の皮を被った悲恋物で辛くて抜けない」と評してメソメソ泣いた。
「不幸話は現実だけで充分だ。創作話でまで病人を殺すなよ。奇跡的に回復して幸せになりましただろう!」
「あー……。作者に伝えておく」
「悲恋物だったからっていうのもあるけど、綺麗なエロだから抜けない。しかも女学生は避けてくれって言ったのに女学生じゃないか!」
「つい」
「ついってなんだ」
普通のエロ本を貸してくれと言われて、自身の短編を読んで泣かれたことに動揺していたギイチは、エロ本ではない最新流行っているという、アザミが買ってきた連続小説を貸してしまった。
結果、テオは「エロ本じゃないけど面白い。長くて読み終わらない」と本を借りていき、続と書いてあると続きを求めて再来訪。
このようにして、ギイチに人生初の友人が出来た。




