四話
わざわざ厨房から出てお見送りに来てくれたレイに見送られながら鶴屋を後にして、皆でシンのお屋敷へ向かっている。
シンはすっかりユリアの婚約者テオと仲良しのようだ。何やら延々と話している。二人の会話は気になるけど、私達との間にアザミとユリアの両親がいるので話の内容は聞き取れず。
それに私もユリアに話しかけられているので、当然そちらに意識が向いている。
☆
シンのお屋敷に到着すると、アザミがお茶を淹れてくれることになり、ユリアの母親に「久々に会って色々話があるでしょう」と促されたので彼女と二人で自室へ。シンも「そうしたらどうだ」と言ってくれた。
自分の部屋はここだとユリアを案内したら、彼女に「物が全然無いですね」と言われた。
「はい。まだ引っ越してきたばかりですので」
荷物は少なくと指定されたので当然部屋に物は少ない。
「ご本人が近くにいるので世間話でしたが、今からは違います」
「心配してくれているのですよね」
「はい」
座布団すらない部屋だったと慌てたけど、無いものは無いのでどうぞと告げて、私が先に腰を下ろした。
「この通り元気です」
「はい。少し安心しました」
ユリアは正座したので私も真似して横坐りから正座に変更。憧れのお姉様で、趣味会が一緒になってからも二人だけだったことがない彼女と二人きりとはドキドキする。勇気が出なかったけど、今日私は彼女の一本結びという髪型を真似したかった。
「なぜマリさんの家は私達からの手紙を受け取ってくれなかったのですか?」
この問いかけはごくごく自然なものなので想定可能なことだから、あらかじめ両親と私とシンで口裏を合わせてある。
「新しい生活に慣れる前に手紙を読むと寂しくなり、帰りたくなってしまうからです。でももう大丈夫です」
「こちらは娘に会ったら渡して下さいと、ご家族からの手紙です」
両親からの手紙、長女姉からの手紙、それから学校の友人達からの手紙を受け取って感極まる。こんなに沢山の人に心配されている事実は嬉しい。
「ありがとうございます」
「それから……迷いましたが、以前一緒にお話しした、マリさんを気にかけていたお役人さんからです」
「……」
初恋の君からの手紙も差し出されて、私は戸惑いながらそれを受け取った。返事を出来るのは、シンとの契約が終わって実家に帰った後。
「……」
「マリさん。この婚約はマリさんからすると理不尽で不当です。放蕩なお姉さんの借金のせいで、昔々のようにあの家の嫁になって働けだなんて」
「いえ、あの。それはお姉様に気を配っていなかった自分への罰です……」
それに、と続けた。確かに話だけ聞くと、今の私の状況は酷い話かもしれない。しかし、お家総出で最短で稼いで没落回避をする為には、自分は花街奉公が必要だったのだ。
ナガエ家はそれを回避してくれて、代わりにごく普通の政略結婚はどうかと用意してくれた。
「それでシンさんは優しいです。口も態度も悪いけど優しいのですよ」
私は今日着ている着物は彼が買ってくれたこと、購入理由は私のうつけで持ってきた着物を酷く汚したこと、右足の親指の少しの包帯を見せて、これは今朝転んで棘が刺さって、シンが助けてくれたことなどをユリアに語った。
「でもシンさんに家守り失格の烙印を押されてしまいました」
ユリアに家事の失敗の数々や、教養が無いから勉強しろと軽く怒られた話をしたら、彼女はとにかく家事が苦手だからそこは共感出来ると言ってくれた。
「お母様は素晴らしい家守りです。教わりましょう」
「お手本を知らないので、色々と教えていただきたいです。あっ、すみません。私ばかり話してしまって。ユリアさんは最近どうでした?」
婚約者に手を繋がれたのに、恥ずかしくて突き飛ばした結果骨折させてしまった。笑顔で許してくれたけれど心苦しいという手紙の内容について改めて質問。
今日、その婚約者テオも来ていて、ユリアと親しげに話していたから心配無い気がするけど。
「コホン。それはその、同じ婚約者がいる者同士、マリさんに助言を求めにきました」
「助言ですか?」
「手を繋がれても照れずに突き飛ばさないコツを教えて下さい」
「手を繋がれても……繋いでいません」
「……まだですか?」
「はい」
私はここでハッと気がついて、ユリアにもう閨教育を受けたのかと問いかけた。すると凛とした表情で、わりと無表情気味だったユリアの顔はみるみる真っ赤。
「……こ、こんにゃくしたのでおしょわりました……」
「私もです」
私はまだ教わっていないけど嘘をつくことにする。ユリアから何か聞けるかもしれないので。
「それでその、過剰に恥ずかしくなってしまって……。手繋ぎくらいで……。くらい……。くらいとは酷いです! 大体テオさんには羞恥心が無いのですよ!」
先程までは私ばかり話していたけど、ここからはユリアがかなり喋った。真っ直ぐ気持ちを伝えてくれる婚約者のようで素敵。しかも二人は幼馴染だから余計に。
「テオさんは……」
「マリ、赤鹿に乗れるぞ」
ユリアの声を遮るように、シンの声が障子の向こうから届いた。赤鹿に乗れる? と首を傾げながら障子を開いたらシンとテオが一緒にいた。
「ユリア。ネビーさんが赤鹿に乗せてくれるって!」とテオが笑顔で叫んだ、
「乗ります! マリさんに夢中で忘れていました!」
こうして、私達は門の前へ移動。ルーベル副隊長が私達を順番に赤鹿に乗せて、手綱を引いてくれた。
方向は七地蔵竹林長屋方面なので人通りは全然無い。私、シン、テオ、ユリアの順で今はユリアが赤鹿に横坐りしている。
「……叔父様。これは子どもの赤鹿乗りです」
「ユリアはまだ子どもだろう」
「秋には成人です」
「それならまだ子どもだな」
「私も赤鹿で走りたいです」
「ロイさんの許可が出たらな」
「お父様は過保護です」
「元服したらロイさんの許可は要らない」
「はい」
「でも俺はロイさんに逆らえない。ユミトも俺やロイさんに従う。ユリアは誰から赤鹿乗りを教わるんだ?」
「……」
「成人しても、父親すら説得出来ない弟子は取らないからな」
「……お父様は病的に過保護です」
「普通の範囲だ。親になったら分かる」
頼み事を断られたユリアは女学校では見たことのない、子どもっぽい膨れっ面になった。テオが「俺も一緒に説得するから」と話しかけて優しい笑顔。
テオが移動したので、私とシンは一人と一人のようになった。それなら、と彼の隣へ。
「シンさん、赤鹿は……あっ。昨夜のあやめはあちらですか? 私は気がついていませんでした」
草むらの中にあやめ発見。
「同じ道を何度も歩いているのに今更か。洞察力が無いんだな」
「言われてみれば、ほととぎすも鳴いていますね」
ルーベル副隊長は急にユリアを赤鹿から降ろして、私達が眺めていたあやめを手折った。それでそれを赤鹿の鞍部分に上手く挿して、またユリアを赤鹿に乗せて出発。
お地蔵様が見えると、ルーベル副隊長はまたユリアを降ろして、一つ一つに丁寧に手を合わせたので私も続く。ユリアとテオもそうしたのにシンは無視。
「神など存在しないと背を向けるのに、いざとなったら神頼み。人とはそういうものですが、そういう者に加護はないですよ」
ずっとニコニコ笑っていたルーベル副隊長がシンに向かって渋い顔を向けた。真剣な眼差しに、なぜだか少し背筋が寒くなる。
シンは返事をせずに無言でお地蔵様一体に手を合わせたけれど、その表情は明らかに面倒を避けるために渋々というような顔だった。
☆
長屋に到着したけど誰も居ないようなので帰宅。
家に到着して玄関でユリアの母親とルーベル副隊長の妻に出迎えてもらった。この家でお帰りなさい、と言われるのはこれが初めてな気がする。
「ウィオラさん。あやめが咲いていました。どうぞ」と、ルーベル副隊長は摘んだあやめを妻に差し出した。
「まぁ、ありがとうございます」
「ほととぎすが鳴いていて、五月だなぁと思っていたらさらにあやめ。何度五月が来ても道は見つかりません。見つける気がないんでしょう」
ルーベル副隊長はよく分からない事を言ったな、と思ったら妻のウィオラは頬を染めて小さく頷いて、先程よりも大事そうにあやめを握りしめた。
「春におうらんぶを願っていますもの。皆さん、居間へどうぞ。お夕食はもうすぐです」
ルーベル副隊長とウィオラが並び、その後ろにはユリアとテオが続いて「次はいつ赤鹿に乗れるでしょうね」という会話を始めた。私も後ろに続こうと草履を脱いだけど、シンは眉根を寄せて動かない。
「シンさん、どうしました?」
「別に」
「おうらんぶとは何かご存知ですか?」
「キョトンとした顔をしていたが、それも知らないとは。君はお嬢様風の下街お嬢さんだな」
また呆れ顔をされてしまった。私はウィオラに「おうらんぶ」とは何かを質問。
「先程の会話を解説することになるので恥ずかしいです。そうですね。私達夫婦の会話は話題に出さずに、ロイさんに尋ねてみて下さい」
それならそうしようと、ロイがいるはずの居間へ顔を出した。シンはテオと将棋をしている。正確には将棋盤と将棋の駒で何やら遊んでいる。なにせ駒があまり並んでいなくて、賽子のように駒を振っているので。
ルーベル副隊長は居間にいなくて行方不明で、ユリアの父親ロイは何やら本を読んでいたので、勇気を出して声を掛けた。
「あの、少々教えていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
私はロイにルーベル副隊長と妻の会話とは教えずに、街中を歩いていたら夫婦がこういう会話をしていたと告げた。
「奥様らしき女性が照れていたのですが、照れるような内容なのでしょうか」
「マリさんはあまり龍歌に興味が無いですか?」
「百取りはなんとか覚えていますが、そのくらいです」
「それは娘と同じですね」
ロイは懐から矢立と短冊を出してサラサラと何かを綴った。
【ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな】
「こちらは短歌では無かったのですか……」
「上の句はご存知でした?」
「あの、はい。ほととぎすが鳴く五月にはあやめが咲く、というような短歌だと思っていました」
あやめも知らぬ恋もするかなの恋、という文字に驚く。
「旦那さんはこの龍歌を妻へ贈ったということです。あやめは花のあやめに文目を掛けています」
ほととぎすが鳴く五月に咲くあやめ草の名のように、文目を見失って、無我夢中になってしまうような恋をしている——……。
ロイの解説を聴きながら、ぼんやりしてしまった。
「つまり、何度五月がきても貴女に夢中でお慕いしています。この恋の道から抜け出す気持ちが無い。この先も夫婦でいましょう、みたいなことを伝えたということです」
「教養が無いと分かりませんね……」
「ほととぎすは別名妹背鳥なので、おしどり夫婦の暗喩としても使われます」
私はチラリとシンを見て、視線を短冊へ戻した。彼は下の句まで知っているから、分からなかった私に「バカ」と言ったのだろう。
「おうらんぶはなんでしょうか」
「桜の乱舞で道が見えなくなってしまえば、あなたはどこへも行かないのにというような龍歌があります」
「あっ。龍歌には龍歌を返すものです」
「そうですね。なので単に桜の乱舞のことではないと、サラッと古典龍歌をもじれる方は相手は察します。よそ見や別れを望んでいないということは、私も貴方をお慕いしていますと答えたということです」
「教養が無い相手には伝わりませんし、もし理解出来ても……このような会話はすとてきです」
シンは私の反応を小説に利用しようと考えたのだろう。しかし、教養の足りない私は彼からしたら期待外れだったので、バカと言われたということだ。
本心で私にあやめの練り切りと文を贈った訳ではないのに、なんだかドキドキしてくる。
もう一度こそっとシンへ視線を移動させたら、彼とパチリと目が合って動揺。恥ずかしさがどんどん増していったので、この後の事はあまり記憶にない。




