三話
縁側に腰掛けているギイチは、白銀のように霞む夜明けを眺めながら万年筆を動かしている。
言い訳ならいくらでも思いつくので、少しでも気持ちを提示したらどのような感想が返ってくるかとマリに古典龍歌を送ったら、彼女は教養足らずで何も分からず。
知らない短歌を読み解けるくらいの教養はあることは確認出来た。古典煌物語という、多少玄人向けの文学に載っている古典龍歌を使用するので、知らないという可能性も頭にはあった。
「イノハ。これで確信だ。マリは政略結婚の道具としては育てられていない」
格上の家へ娘を嫁がせたい場合、何かしらを極めさせて特技としたり、使用人として潜り込ませて相手の家の男性を誑かせるようにしたり、茶会などで目立てるように上流層とも渡り合えるようにするもの。
それがギイチが読んだ王道古典や王道文学で繰り広げられるお嬢様の日常や生育環境で、編集を通して集めた資料でも相違ない。ナガエ本家が絡んだ行事で、実際に観察したことでもある。
一方、マリの家事はイマイチで、煌物語すら読んでいない。茶道も表面だけ覚えたという様子だった。おそらく華道や琴の腕も大したことないだろう。
「家に返せ……か。その時は君も行くか? イノハ、勝手に居なくなるくらいならそうしろ」
自分はこの古びた屋敷で一人朽ち果てていく。彼には、たまに襲われるその恐怖に抗う気力は無い。
生まれ落ちた瞬間に家族に背を向けられ、物心ついてそれを知り、後は拒絶と言葉の暴力と裏切りの連続。
魑とはもののけ、化物のこと。
偽異魑という名前には、怪物ではないという彼の叫びが込められている。それを受け取って、受け入れて、優しくしてくれる者を信じたり、求めたり、縋る気持ちは失われてしまっている。
「ふぁ……。おはようございます……。シンさん、今日は早いのですね」
夜明け最初の五時の鐘が鳴る前に、マリが起きてくると思わなかったギイチはかなり驚いて体を仰け反らせた。それを見たマリはふふっと微笑み、幽霊ではありませんよと一言。
「ぼさぼさ頭で白装束は幽霊に見える」
「ぼさぼさ頭……はしたなくてすみません!」
どういう寝方をしたらそうなる、という程ぐしゃぐしゃな髪をギイチが指摘したら、マリは慌てた様子で顔を隠した。彼女はギイチに背中を向けて走り出して、廊下の板が飛び出しているところに躓いて、顔から突っ込んで床に直撃。
驚いた白兎イノハがぴゅーっと庭へ逃げていく。
「君は何をしているんだ」
呆れ声を出して立ち上がったギイチはマリに近寄ってしゃがんだ。マリは起き上がって右足の指先を押さえている。
「ったく。家事の通り、君は鈍臭いな」
「自覚があるので気をつけているのですがうつけ者です……」
シンは完全に座り、マリの右足を軽く持ち上げて足の上に乗せた。彼女の指を確認して、親指に刺さっている棘を爪で摘む。
「あーあ。木の屑が棘のように刺さっている。嘘つきでバカで鈍臭くて運も悪いとは。君の取り柄は見た目くらいだな」
「……」
返事がないと少し顔を上げたギイチは息を飲んだ。昇り始めている朝日がマリの白くてきめ細やかな絹肌を輝かせている。
自分が足を持ち上げた結果、浴衣が少々はだけており、それをマリが隠そうと裾を引っ張っている。彼女の顔は赤らんでいて、困惑したようにそっぽを向いていた。
幼稚な女にも多少の色気はある、と意識してしまった結果、ギイチの心臓はバクバクし始めたけれど、彼は平静を装ってマリの右足に刺さった棘を抜いた。
「っん」
痛くてあげた呻きも若干艶かしかったので、ギイチはマリの足をほっぽり出して勢い良く立ち上がった。
「これか。こういう場面にすれば良い。ボロ屋敷を掃除していたら怪我をして、男が手当をしようとして欲情。実に自然な流れだ」
「……あの」
「これを例にすればいくつも思いつく。書いて一番情緒的だった場面を編集に採用させよう」
ほらよっ、血の出ている足を押さえておけとギイチはマリに小さな手拭いを投げつけた。それも顔に。
「わっ」
「手足の指先は化膿しやすいから、よく洗ってやっつけ酒で消毒しろ。それをサボって腫れても知らないからな」
実に色気のない間抜けな声で助かった、危なかったとギイチはその場を離れた。あのまま足に指を這わせて、足の付け根まで登りたい衝動に駆られていたので。
マリはというと、彼は優しいのか優しくないのか分からない、と憤った。
★
あれこれ思いついたギイチは次々と数々の場面を書き続け、マリに「お客様が来ました」と声を掛けられても気が付かず。
彼の集中力は凄まじく、何かに没頭していると耳が聞こえなくなる程。
「シンさん! お客様がいらっしゃいました。一緒に昼食へ行きますよ」
アザミが「多分執筆中です」と静止したけれど、マリはシンの部屋に続く障子を開いた。
執筆を邪魔されたギイチは烈火の如く怒ると知っているアザミは青ざめたけれど、ギイチはこれでもなおマリの声や音に気が付かず。
部屋に入るな、と言われていると思い出したマリは、慎みは無いけれど、今朝の仕返しだと自分の手拭いを出して丸めて、シンの後頭部へ投げつけた。それは狙い通り見事にギイチの頭に命中。
流石に気がついたギイチは「不法侵入者か! だ……」というように、叫び掛けて停止。
目に飛び込んできた、悪戯っぽく笑うマリがあまりにも可愛らしくて思考も停止。
「今朝のお返しです。そのように腹が立つものですから、二度と物を投げ……」
ギイチは思わずマリに手拭いを投げ返した。
「本当に君はお嬢様ではなくて下街お嬢さんだな! この詐欺師!」
「詐欺師って、私は自らお嬢様だとは名乗っていません!」
マリも再度手拭いを投げ返す。
「何が華族の血も混じっているお姫様だ!」
「それは事実なので詐欺ではありません!」
再び手拭いが体にぶつかったギイチは、すっかり集中力が切れたと、呆れ顔で立ち上がった。
「いきなり物を投げるなんてどういう了見だ」
「何度も声を掛けました。部屋に入るなと言われていますので、呼んでも無駄なら、怪我をしない手拭いかなぁと。今朝の仕返しという意味もあります」
「仕返しって、むしろ感謝しろ」
「それはもちろんしています。シンさん、昼食はレイさんが働く鶴屋さんだそうです。ユリアさんのお父上が予約をしてくれていました」
「昼頃に来るけど昼食の準備は要らないという手紙だったから予想通りだな」
「お支度出来ましたら居間へお願いします」
この一連の流れを、来客達は廊下の角から盗み見していた。現在、シン・ナガエの屋敷を訪れてマリとアザミが家に上げた人間は四人。
一人はユリア・ルーベルでマリの同級生。もう二人は彼女の両親。それからもう一人はユリアの婚約者だ。彼女達の位置からはギイチの姿は見えず、声しか聞こえない。
「仲良しそうです」と最初に小さな言葉を発したのはユリアである。
「そうだ——……」
同意しようのしたユリアの婚約者テオは、ギイチが「俺は行かない」と言ったので唇を結んだ。
「まぁ、なぜですか?」
「筆がのっているからだ。婚約者は具合が悪いとでも言っておけ」
シンはマリに背中を向けて机に向かい筆を手に取った。
「具合の悪い方を置いていったりしません」
「それなら仕事が佳境だと言え。米は余分に炊いてあるよな? 昨日言った通り、勝手に食べる」
「アザミさん。シンさんには急ぎのお仕事があるのですか?」
「いえ、ありません。出不精と人見知りでしょう」
「シンさん、それなら思い切って行ってみましょう? レイさんの料理は気になりませんか?」
マリの懇願のような声色はシンの背筋をソワソワさせ、ついつい振り返った。そこにあるのは、少々上目遣いというマリのおねだり顔。
「……」
「きっと美味しいですよ」
マリはギイチは食べ物で釣れると認識していて、それは概ね正解なのだが、今は「可愛さ」が釣り餌となっている。
「仕方が無いから行ってやる」
「居間でお待ちしていますね」
畜生、と心の中で叫びながらギイチは筆を手から離した。
★
鶴屋。
本店は南三区六番地にある老舗旅館かめ屋で鶴屋はその分店。観光地である北部海辺街の激戦区に、堂々と乗り込んだ旅館だ。
立地、建物、内装などでは目立てない代わりに、鶴屋がこの地に根付いて人気を得るために選んだ道は若い女性客の心を掴むこと。
親に頼んで鶴屋に泊まった彼女達はそのうち結婚して新しい家族を連れて来る。下街お嬢さんから下流華族のお嬢様達を標的にした鶴屋は、とにかく色彩豊かで見て楽しい料理やハイカラ料理に力を入れている。もちろん、鶴屋の料理は見掛けだけという評判は困るので味にも拘っている。
その鶴屋の料亭の個室にて、ギイチ達は昼食中。鶴屋で合流したネビー・ルーベルと妻ウィオラを加えた九人。
上座や下座などは関係無く、若者は若者同士、同性同士にしましょうというユリアの父ロイの提案で席が決まった結果、ギイチの隣はマリとマリの友人ユリアの婚約者テオ。
マリの隣はギイチとユリアなので、ギイチとマリはテオとユリアに挟まれて座っている。
アザミはユリアの父と叔父に挟まれて、同性同士にしようはどこへやらで彼らの隣にはそれぞれの妻。
マリとの痴話喧嘩を見られていたなんて知らないギイチは
とりあえず猫を被ることにして、口数を少なくして室内の者達を観察と思っていたのだが、隣のテオにやたら話しかけられる。
自己紹介をされて、左手が不自由同士だと笑いかけられ、婚約者同士だからよろしくと言われ、酒は飲むのか、仕事はなんだ、俺はこうだと延々と話しかけられたり、自分語りを聞かされている。
「マリさんとの会話では違ったのに大人しいですね。さすがにこんなに時間が経ったので人見知りしなくても」
こんなに時間が経った。まだ飲み物が運ばれてきて、ロイ・ルーベルが乾杯を告げたところだぞとギイチは心の中で突っ込んだ。
「いや、まぁ。はい」
「それなりに飲めるって言うていたからとりあえずこのくらいですか?」
テオに、目の前の酒器にお酒を注がれながら、酌なら隣にいるマリにされたいと考えて、自然とそう感じた自分に対して声を出さずに悶絶。
「どうしました?」
「別に、何も」
ギイチは「お酌しますね」と言わずに、再会した友人とお喋りに夢中のマリを睨んだ。
「ああ。かわゆい婚約者にお酌されたかったんですか」
「……はぁああああ⁈ んな訳あるか! 俺はこのうつけ女になんてお酌されたくない。着物が酒まみれになる」
口にしてから、猫被りをするはずだったのに、とギイチは固まった。
「ユミトは弟弟子なんで聞いているんですが、そちらのマリ・フユツキさんと婚約したことは不本意なんでしたっけ」
この台詞を口にしたのは、本日ギイチが最も警戒したい相手ネビー・ルーベル。南三区六番地の地区兵官を統べる幹部でその地位は副隊長。
彼とは別に副隊長がいるので、副隊長ではなくてルーベル副隊長と呼ぶ者が多いが、それとは別に一閃兵官とも呼ばれている。得意の突き技で逮捕した犯罪者は数知れず、それどころか厄災と呼ばれる大狼にも突きを食らわせて区民を守ったという英雄兵官の一人。マリ・フユツキを家に返せと考えている者。
ギイチは彼についてアザミやユミトから情報を得ているので、自分の前に座ったのはわざとだろうと疑っている。
「……多少日にちが経ったので、互いの家の為になるなら、そこまで拒絶しなくても良いかと、まぁ……」
鶴屋に来るまでは、マリの友人ユリアの父ロイに探りを入れられてのらくらかわしたのに、次は店前で増えたこいつだ、とギイチは心の中で舌打ち。
「マリさんはどうですか? 学生だったのに、いきなり親と離れて療養中の方の世話は大変そうです。大丈夫ですか?」
マリに向かって爽やかで穏やかな笑顔を浮かべたネビー・ルーベルに対し、マリは胸の中で「ひやぁ〜」と声を上げて大緊張。有名人、両親が尊敬して感謝している相手に話しかけられたと大興奮。
「あ、あの。あの。昔、両親が助けていただいて私が生まれました。ありがとうございます。両親とたまに、お仕事や剣術大会の見学をしていました」
「えっ? あー、はい。こちらこそ生まれてきて、そのようにお礼を言ってくれてありがとうございます」
マリとネビー・ルーベルは互いに会釈をし合った。ネビー・ルーベルは少々探りを入れるはずが、明後日の話をされたので、肩透かしというか予想外だと困惑。
「マリさん。そうなのですか?」とユリアが首を捻る。
「はい。ユリアさんともっと親しくなったら、この話をして両親に贈る記名を頼もうと考えていました」
そこから話はマリの両親はどこでルーベル副隊長に助けられたかになり、マリが両親にこう聞いたと一閃兵官の活躍を話すので、好奇心旺盛なギイチはあまり知らなかった大狼襲撃事件に食いつき、気がつけばネビー・ルーベルに質問を浴びせ続けていた。
その過程で生まれたマリとギイチの会話は親しげに感じられるものだったので、二人を心配している者達、特に親世代は余計な事はしないで様子見と判断。
金と情報の交換という契約関係の二人が、世間に親しくなりそうな婚約者同士だと認識された瞬間である。




