二話
マリが茶室でケンジとアザミをもてなす間、ギイチはその光景を眺めて筆記帳に綴った。
ケンジもアザミも直帰ということで、ケンジを見送った後に三人で七地蔵竹林長屋へ。
今日も今日とてマリはレイに教わりながら二人分の料理をして、完成後にギイチに「一緒にいかがですか?」と尋ねたけれど、今夜も拒否された。
ギイチの拒絶の理由は「これ以上、食べ物に釣られてたまるか」である。マリの手で毎日用意される、温かくて量や彩りのある朝食と昼食の二食でほっこりしているので、更に拐かされたくない。
マホ達がレイにたまに指導されながら作った料理を男性達と食べながら、ギイチはマリはまたユミトと二人で楽しげに夕食をとっていると苛々。
「シン君、明日のことでちょっとええ?」
夕食の時間帯は自室で一人で書き物をしていることが多いレイが、部屋から顔を出してギイチを手招き。呼ばれたギイチはレイの部屋に入り、彼女と板間に並んで腰掛けた。
「明日なんだけど、姉や姪っ子がマリさんに会いにくるでしょう?」
「ユリアというマリの友人と彼女の両親だと聞いている」
「姪の婚約者も来ることになった」
「そうか。話はそれだけか?」
レイは前のめりになって、少し下からギイチの顔を覗き込んだ。
「それだけだけど、何か相談とかある?」
「ある訳あるか」
「婚約者が毎晩他の男と楽しそうにしていてムカついているのに?」
「興味無い。あれは父上が用意した女だ」
「シン君は普通にお見合いして、気の合う女性と結婚したい?」
「したくない。普通にお見合いという資料は欲しい」
ふーん、と自分の顔を眺めるレイからギイチは顔を背けた。
「お節介は必要としている奴にしろ。俺は君の押し付け偽善受け入れて、自尊心を満たす道具になるつもりはない」
立ち上がって部屋を出ようとしたギイチの背中に、レイの「フユツキ家の借金を義理のお姉さんが肩代わりしようかなって」という言葉がぶつかった。
ほぼ反射的に、ギイチは勢い良く振り返った。
「はぁ?」
「大型金貨二枚と小型金貨十八枚。あげるんじゃなくて無利子で貸す。残りはマリさんを使わなくても、家族総出なら一生かけて金貸しに返済出来るはずの金額。逃げたお姉さんもそのうち見つかるだろうし」
「君の義姉はフユツキ家の借金を調べたのか?」
「お兄さん達が調べてお姉さんと相談」
「お兄さん達……。六番隊副隊長と裁判官か?」
ギイチは明日来訪しそうな、マリの友人ユリアの家族関係の情報を多少仕入れている。
「君はマリさんという女と結婚なんて嫌。マリさんはお金が欲しいだけ。お金があれば二人の若者が幸せになれる。だからお姉さんが、そのお金を出そうかなって」
「……」
「誰にでもはしないけど、マリさんはかわゆい姪っ子の友人で、学校でも評判の性格良し。何も悪くない良い子が悪いお姉さんの犠牲になるなんておかしいでしょう?」
「……」
資料は減るけど代わりに金が戻ってくる。マリは未知のお嬢様という情報の片鱗を教えてくれたので、そこから想像出来ることは増えた。
なので、「構わない」と言えると考えたのに唇は全く動かず、ギイチの顔色もじわじわと悪くなっていく。
「君の親戚は随分とお人好しで金持ちなんだな」
「何も悪くない女の子が辛い目に遭うから、一銀貨を寄付して下さい。お兄さんがそうやってマリさんの家族と一緒に頭を下げて回れば集まる額だって」
マリが家から去る。そのことに慄いたギイチは、慄いた自分に怯えた。
家から出てみて、帰宅したら出迎えられたとか、朝起きて居間へ顔を出すと美味しい料理と笑顔があることが、瞬時に脳内を駆け巡って更に怯む。
「……。番隊副隊長が頭を下げれば、金が集まりそうだ……」
「昔からずーっと、殆どお礼を断っているから、そのお兄さんが区民に頼めばあっという間。でもお義姉さんはそれは嫌で、それなら自分が働いて稼ぐって。その額ならちょっと働けば稼げるみたい」
「ちょっと働けば? 君の義姉は何者だ?」
「オケアヌス神社の奉巫女で芸妓。たまに陽舞妓や演奏会に参加したり、道芸その他で稼いで、保護所とかに寄付してる」
長屋住まいの男性レイの兄夫婦がそのようなとんでも人物なんて。
そのような物語を書いたら、現実味が無さすぎるとそっぽを向かれる。事実は小説より奇なりとはこのことだとギイチは軽く髪を掻いた。
「君の兄夫婦はとんでも人物達ってことか」
「貧乏長屋で育った貧乏長男が雲の上〜。お兄さんはきっと、人を助けまくったから強運なんだと思う。でもずっと貧乏人性。お金で買えないものが好きだからわりと質素」
「人を助けたから? 誰かを助けたって人は理不尽に傷ついたり下手すると死ぬ。報いはない。マリだってそうだろう」
「マリさんは君が買って、これから自分のお義姉さんが買おうとしてる。シン君。お父上は無関係で、君が自らの意志でマリさんを手に入れたのはもう知っている」
レイはにこやかに笑いながらギイチを見つめた。ギイチの背中につぅーっと汗が流れる。それからフユツキ家に裏切られたと憤った。
「お義姉さんは一区花街で慈善活動をしている。裁判官のお兄さんは卿家だから調査が得意。副隊長のお兄さんも調査が得意。アウルム銀行にもツテがある」
ユリアという人物をアザミに軽く調べさせて、嫌な予感はしていたがこれだとギイチは唾を飲んだ。
「……この話が本題か」
「どこでマリさんと会って目をつけたのか知らないけど、これは好機だってお金で手に入れたのなら、もっと優しくしてあげたら? 人は言葉にしてもらわないと自信を失くすし腐る」
「……」
ギイチは心の中で首を傾げた。
「……。俺は……」
あんな女に惚れていない、と言うのはやめた。そうではないのなら、何のために大金を積んで結納したという話になり、この契約の中身は買売春だと難癖つけられたら破滅である。
裁判官と地区兵官、それも番隊幹部が組んでいたら、ギイチだけ罪に問うような難癖をつけられ、それを回避する能力も権力も発言力も自分には乏しい。
「それなら、なんだ……。一目惚れして、どうにか手に入れようとするなんて、よくある話だろう……」
「それなら何だって、どう見たって惚れているんだから、優しくしなさいって言うたの」
彼の中で、これは目を背けても無駄な事実だから受け入れるしかないと降参。自覚がある上に、このように他人に指摘されたらもう逃げ場は無い。
「……」
「マリさんは楽しそうだし、シン君はマリさんに家にいて欲しそうだし、お義姉さんが稼ぐのも変な話だから止めた」
「俺は……まぁ……」
あんな女には出て行って欲しいと口にした瞬間、このレイという男はマリを自分の屋敷から連れ出すだろう。なのでギイチはその台詞は言えなかった。惚れているどうこうもあるが、貴重な資料が失われる。
「照れ隠しの天邪鬼はやめなさい。半年間口説いてダメならマリさんを家に帰しなさい。帰した後も口説いて良いけど同居は終わり。君、病気ではなくて元気でしょう」
「……分かった」
逆らっても敵わなそうな権力者達がいるようなので、ギイチは抵抗せず項垂れた。
「同居結納だから手を出しても良いけど、無理矢理の場合は裁判官お兄さんがそれなりの罪に問う。マリさんは分かりやすいし素直だから、観察していたら分かる。彼女が怯えるようなことだけは禁止」
「……分かっている。女の立場は強いから気をつけている」
一気にマリと自分の立場は逆転だ、とギイチは心の中で舌打ち。こんな長屋に来たせいで、と考えたものの、マリにユリアという友人がいた時点でこの話が出てくることは確定していたとすぐに気がつく。
掘り出し物の希少品を手に入れられて幸運、と思っていたのに、これだと疫病神を自ら手中にしてしまったである。おまけにその疫病神に気持ちを持っていかれるとは。
「では、これよりレイさんが特別に練り切り作りをします」
「……はぁ?」
「明日、仕事の都合がつかなかったから、ユリアとマリさんにはまた今度」
おいでおいでと促されて部屋に上がり、机に向かって並んで着席すると、机の上にある包みが開かれた。木箱には丸めてあるだけの練り切りが三種類、二つずつ入っている。
「ちょっと暗いから見えにくいけど薄桃色、菜の花色、白藍。少し待ってて」
待たされたギイチの前に様々な道具が並べられた。それから紙の束が数枚置かれて、レイが「片手でも出来そうな意匠の見本」と告げた。
「今夜も照れて夕食を拒否したから、練り切りを完成させて、食後の甘味を家で二人で楽しむように」
「……」
面倒くさい世話焼きをされるようだが、練り切りという食べ物は気に入ったし、作るという経験にも興味があるし、レイの背後にいる者達が曲者揃いそうなのでギイチは素直に「お願いします」と会釈。
するとレイは「シン君がお願いしますだって」と大袈裟に驚いた。
「バカにしているのか? 必要があれば言う」
「これは参考資料だから真似しなくてええ。シン君は感性豊かだから見本は要らない気はしたけど、見本がある方が捗るかなぁって」
絵か口頭で意匠を伝えてくれれば、形作りの手本を見せて、その後に指導すると告げられたギイチは、これも素直に受け入れた。
理由は拒否してもグイグイくるレイに慣れたことと、その結果彼女に心を開きつつあるから。ギイチはその事を自覚してはいないけれど。
傷つけられ、孤独な人生を歩んできた彼は人を嫌っているが人に飢えてもいる。
沈思を始めたギイチに対し、深く考えていると察したレイは彼に話しかけず、自分の仕事関係の資料作りを開始。
二人とも、扉を開いたままの部屋をチラッとマリとユミトが覗いたことには気がつかず。
一方、ギイチは練り切りの意匠考案にかなり真剣になり、ますます己の気持ちを受け入れた。
☆ 約一刻後 ☆
今夜も私の作った夕食はユミトのお腹の中だった。彼は美味しいと褒めてくれるけれど、マホ達に混じって実に幸せそうに夕ご飯を食べるシンが視界に入るから複雑な気分になる。
ユミトに「お弁当を作って持って帰って家で二人で食べたらどうか」と提案されたけど、私はシンに三食マリの食事が良いと言われたい。
「俺がシンさんの友人になるはずなのに、マリさんの番犬係。レイさんは本当に世話焼きだ。お兄さんそっくり。俺はあんな風にグイグイ行くのは難しいから悔しい」
「ユミトさんは私の番犬係なのですか?」
「あっちの奴らは若いし、お嬢さんやお嬢様達に慣れていなくてマリさんに惚れそうだから。他人の婚約者に横恋慕なんて不毛だ」
「そうでしょうか」
「その点、俺に幼女趣味は無い」
「……幼女? 私は幼女なのですか⁈」
「うん。俺から見たマリさんは、レイさんの一番下の姪っ子ちゃんと変わらない。半元服くらいの子と同じ」
大袈裟に言うと、実に子どもらしく色気がないと笑われた。君から見ても俺は父親だろう? とも。
色気がないことは自覚があるし、ユミトという男性は父親寄りの印象ということと正解だけど、少々悔しい。私はあと数ヶ月で成人なのに。
色気がない、色気がない、色気がない——……。
君の尻は貧相というシンの言葉がぐるぐる脳内を回る。
男同士だと思っているからか、シンとレイはどんどん親しくなっている。一方、私とシンは最初の立ち位置からあまり変化していない。
帰り道、長屋からのシンのお屋敷へ向かう時に、お地蔵様にこの間はすみませんでしたと手を合わせて謝ると、昨夜と同じように遅いと怒られた。
「シンさん」
「なんだ?」
「レイさんと仲良しですね」
「あれはあの男の普通の距離感だ。誰に対してもああだから別に親しくない」
「私とレイさんはあまり話していません」
「それは君がユミトにべったりだからだろう」
「それはレイさんが、ユミトさんに私が作った夕食をどうぞと言うからです。シンさんが要らないと申すから」
小さなため息を吐くと、シンは気難しい表情で歩き続けて無言。番犬係の話や、ユミトは私を子どものように感じているし、私は彼を父親世代のように思っている話をしようとしたけど、気まずくて止めた。
提灯の光苔の灯りが足元だけではなくて、彼の顔を照らしているから不機嫌顔が良く分かる。基本的に、シンは私にこういう顔ばかりする。
「嫌いな女性に手を出す事は資料になるのですか?」
「なんだ急に」
「そういう本を作るのかと質問したのです」
「嫌がる女を組み敷いた結果刺されて死ぬとか、逆に恨みの果てに刺し殺しながらヤッて悦楽とか、そういう話も書いたな」
「……」
私はシンが書いた本を一つも読んだことがない。想像していた話とは全く異なる内容を告げられて困惑。
「花街ではちょこちょこある話だ。金を積めば死罪前に取材出来るし、花街でしばらく過ごして待って、死体を見たこともある」
「……」
「俺の作品の多くは生来悪四欲が題材だ。因果応報や自分が出来ないことをしてくれる創作人物は一部に受ける」
「あの、読んでみたいです……。私はあまり読書家ではなかったので、本を読みたいと思っています。世間知らずなので広い世界を知り、見聞を深めたいです」
「四大恋古典は読破しているのか?」
「要約集でしたら」
「ルロン物語は?」
「要約集でしたら」
「煌物語は?」
「名前も存じ上げません」
「龍神王説法や副神説話は?」
「学校で習いました」
「どれも原典は読んでいない、と。大衆文学、それも裏文学で多少売れているだけの俺の本よりも、まずはそういう普遍的な本から読んだらどうだ」
シンにぐうの音も出ない正論を言われるとは。
「そうします」
「部屋にある本なら貸せる」
「貸して下さるのですか?」
「そもそも君に読書をする時間はあるのか?」
「今のところ、要領が悪いのでありません」
「洗濯は全部洗濯屋に回せ。繕い物も針子のところ。昼食も要らないし、掃除は午前中だけにしておけ。それで少しは本を読めるだろう」
「昼食は要らない……ですか……」
「茶漬けか焼きおにぎりなんだから、朝君が炊いた米があれば、そのくらい自分で作って食べる」
これは私が読書を出来るようにという親切なのだけど、三食君の食事が食べたいと言ってもらいたい私にとってはクビ宣言に近い。
「……」
「上品でも教養の無い女はつまらん。つまり資料として不足。君はお嬢様だけど所詮は金貸しの娘だな」
利害が一致した結果ではあるし、期限付きでもあるけれど、夫婦になるというのに、親しくなることをこのように拒否しなくても。
「茶道、琴、舞、華道はそれなりです」
「それらは全て文学や歴史と繋がっているんだろう? そう、レイが言っていた」
「シンさんはそのようにレイさん、レイさん、レイさん、レイさん、レイさん。それなら、レイさんと契約したら良いではありませんか」
「はぁ? 何を怒っている。レイと契約しろって、おれは男色家の資料は欲しくない」
「怒っていません」
そうだった。シンはレイを男性だと信じているんだった。
「茶道は見たが、他の手習の確認はしていなかったな。家事をするよりも読書をして、それなりと言った教養を披露してもらいたい。近いうちに琴を買ってくる」
「えっ? あの。琴を買うのですか?」
「必要な物は買う」
帰宅したら、また茶道をしてくれと言われたので疲れているけど仕事だから応じた。お菓子はシンがレイから貰った練り切り。
非常に美しい菖蒲と、形が歪な菖蒲の二つで、色は前者が水色で後者が薄桃色。シンはそのうち、歪な方を口にした。
きっと、形が良くない方は鶴屋の見習いが作ったのだろう。上手な方をさり気なく譲ってくれるとは、やはりシンは態度では親切だ。なのに口が悪過ぎる。
シンが見様見真似でどこまで出来るか体験するというので、お茶を点ててもらう間に美しい練り切りを食べたのだけど、やはりとても美味しい。
「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草。帰り道にあったな」
ほととぎすが鳴く頃である五月のあやめですね、とサラッと短歌を作れたのは小説家だからだろうか。その感想を述べたらシンは肩を竦めて「君はバカで教養無しだから参考にならない」という悪口。
風呂に入って寝る、とシンはお茶を点ててわりとすぐに茶室から去った。




