四話
今夜の夕食は、私が失敗した初日の夕食のやり直し。このような理由で失敗したので、今度は上手く作りたいとレイに頼んだ結果だ。
大根とこんにゃくの煮物は大根とにんじんとがんもの煮物に変更。焼き魚はさわらの味噌漬けになり、お味噌汁の具材は前回失敗したアサリ。三つ葉も入れると言われた。
人数が多いのでマホ達は別で料理をして、私は一人だけレイの部屋で指導してもらえる。彼女の部屋は居住部分はとても質素なのに、土間にある棚には料理の道具や食器が並んでいて賑やか。それでいて整頓されている。
男女が二人で密室内は外聞が悪いので、とレイは部屋の扉を開け放って、シンを自分の部屋に上げた。彼はレイの机を使って書き物をするそうだ。
レイが貸してくれたので、割烹着と頭巾を装着して夕食作り開始。
「慣れないうちは時間がかかっても、材料や調味料を事前に用意しましょう」
「はい」
「女学校ではそうしていませんでした?」
「あっ、そうしていました」
指示されたように板間に今日使う食材や調味料を並べていく。
レイは手を出さないことになっているけど口は出す。手順はこうで、味付けはこう、と指示が出たのでその通りに。慣れていないお嬢様だから、同時進行は二つまでだそうだ。
その間、レイは板間に腰掛けて漬物のきゅうりと茄子を飾り切りして、手を洗うと縫い物を始めた。縫っているのは着物の半襟のようだけど、実に鮮やかな手つき。
「レイさんって器用なんですね」
人数分の小皿に並べられたきゅうりと茄子の飾り切りも素晴らしいことになっている。ここは長屋ではなくて料亭の調理場なのだろうかと錯覚してしまう。
「器用さは自分の特技です。ほらほら、手が止まっていますよ」
「はい」
「焼き加減が大事な魚は最後。味噌汁は多少煮え過ぎでも家庭料理なら問題無し。だからご飯を焦がさないように。優先順位をつけましょう」
「はい」
こうして完成した夕食をシンは食べず。彼は気がついたらレイの部屋から消えていて、マホ達が作った食事を口にしている。声を掛けたら「もう食べているから、そっちは要らん」と拒否。
「……」
一生懸命作ったのに!
この間のやり直しなのになんなの!
ここへユミトが帰宅。
「丁度良いところにお兄さん。いや、片足オジジ。ここにかわゆいお嬢様が一生懸命一人で作った至高の夕餉がある。三銅貨だけどどうだい?」とレイが歯を見せて笑った。
ユミトは机に並べられた二人分の夕食を眺めてから私とシンを順番に確認。
「これ、二人分ですね」
「マリさんがシンさんと自分にって作ったのに、つれない婚約者さんは、本職料理人が煮たおあげを使ったいなり寿司が食べたいって浮気だコン!」
レイは右手をキツネの形にして左右に揺らした。ユミトはそれを無表情で眺めて小さなため息。
「ギイチさんはわりと天邪鬼だからな。君が変な言い方をしたんだろう」
「そうかも! だってあの子、面白くてつい」
「俺が食べ始めたら来るかもな。マリさん、有り難くいただきます。こちらはお代です」
ユミトは私にくれたのは三銅貨ではなくて五銅貨。多いと告げたけど「お礼の気持ち分上乗せです」で終わり。
レイがユミトの制服の羽織りを奪うように受け取って、彼に向かって「足袋の繕いはするけど洗ってからにしろ、この足臭男」と愉快そうに笑った。
「足臭じゃないし、洗ってから頼んだ!」
「洗っても消えないなんて……」
両手で顔半分を隠したレイが大きく目を見開く。
「お嬢様に誤解される風に言うな!」
「かわゆくても、自分の年齢の半分くらいの年の女の子を相手にするのは気持ち悪いからやめましょう。狙うは二十才越えのお嬢様!」
「俺の心配よりも自分の心配をしろよ」
「百八回目のお見合いも破談になりましたー! 安心して下さい。次は本命だって、ついにお父さんが張り切り出したから次が運命の相手かも!」
ひらひら手を振りながら、レイは自分の部屋ではない部屋へ入っていった。
「また破談か……」
私の目には、ユミトはどことなくホッとしているように見える。彼はレイが女性だと知っているのだろうか。私が促す前にユミトは着席して、箸を持とうとした。
「手洗いうがい! 何回言わせる!」
ユミトの顔に丸められた手拭いが直撃。投げたのはレイだった。
「物を投げるな物を」
「警兵なら受け取るか避けなさい。ったく」
レイは肩を揺らして楽しそうに笑って引っ込んだ。彼女は色々な笑顔を浮かべるけど、笑ってばかりだなと感心。
手拭いで手を拭いたユミトが「マリさん、ありがとうございます。いただきます」と手を合わせたので、私も隣でご挨拶。
ユミトに量を確認して、おひつからお茶碗へご飯をよそる。彼は最初に魚に手をつけた。
「美味しいですよ。レイさんに味付けを教わったんですね」
「はい。本職さんに教えてもらえるなんて幸運です」
「マリさんに料理を教えて、いなり寿司作りはマホさん達に任せて、レイさんは香物で遊んでいたと。菊祭りはまだ先なのにもう練習か」
「菊祭りの練習だったのですか。あっという間に作ったのですよ」
急にユミトの顔が近寄ってきたので驚いてのけ反る。
「……あっ、すみません。つい、ここの住人相手みたいに話しかけようとしてしまいました。マリさんは国立女学生さんですもんね。下街女とは違うんだった」
「い、いえ。自意識過剰ですみません……」
「警兵だから、地区兵官だからって油断してはいけません。今の警戒心を忘れないように。えーっと、話したかったことは、レイさんに頼むと練り切り作りをしてくれますよ。多分、女学生さんは楽しいかと」
確かに私はユミトは警兵だからと無警戒だったけど、普段なら男性のこんなに近くに腰掛けない。淑女は異性の手が届く距離には近寄らないようにするものなので。
警兵ではなくて異性だと意識したら、急に恥ずかしくなった。すると察したのか、ユミトはさり気なく少し離れてくれた。まだ手は届く距離だけど、彼は長椅子の端に腰掛けているから私が離れないとこれ以上の距離は作れない。
「練り切り作りは楽しそうです……」
「ユリアさんと友人なら誘って頼むと良いですよ。ユリアさんはレイさんの姪で、レイさんはとても可愛がっています。二人は親戚だって、もう聞きました?」
「はい。昨晩教わりました」
「そうだった。昨日、ユリアさんからの手紙を彼女のお父上から預かったのでどうぞ」
懐から出てきた文は確かに私宛で、差し出し人はユリア・ルーベルになっていた。
ユミトはそのまま食事をしながら私に話しかけた。自分とユリアの父親は兄弟弟子で、レイの兄とも同じく兄弟弟子。ユリアの父親と叔父と同じ剣術道場に通っているから、時々ユリアと遊んでいたという。もちろん、その時は彼女の家族も一緒。
「そういう訳で、警兵としてマリさんやギイチさんを特別贔屓はしないけど、お世話になっているロイさんの娘、ネビーさんの姪っ子の学友と婚約者なら話は別です」
「ユミトさんは私達のお世話をしてくれるということですか?」
「お世話というか、赤鹿に乗りたいですよね?」
「乗りたいです!」
昼間の方が安全で楽しいから、今度の休み、三日後の土曜にどうかと提案されたので二つ返事で了承。旅行時に赤鹿屋にお金を払って頼む以外で、赤鹿に乗れるなんて奇跡!
「ユリアさんも誘っておきますね。心配していましたから」
「ユリアさんが心配してくれていたのですか?」
「そりゃあ、友人が惚れてもいない相手と結婚する。結納時から相手の世話のために同居するって休学したら心配するかと」
「……心配されて嬉しいです」
私は俯いてご飯を口に運んだ。遠くで眺めているばかりの憧れのお姉様だったユリアが、今年同じ料理会に入ってきた結果、友人と呼んで心配してくれるなんて嬉しい。
★
さて、同じ時刻、同じ場所。ギイチから見たマリは嬉しそうに、楽しそうにユミトと親しげに話しているように見える。
マリが懸命に料理をする姿は可愛いらしいので「拐かされる」と慄いて逃げた彼は、長屋外の共有机で女性住人達が作っていたいなり寿司に注目。
食べたことはあっても作り方を知らなかったので興味津々。彼女達に話しかけて、作ってみる? と言われたけれど、片手が不自由だからと断って観察。
片手が不自由だなんてと同情されて、優しく作り方を教わり、貧乏過ぎる格好にしないと周りの反応が違うとここ数年の姿を後悔。
そうしてマリが料理を完成させても、彼女に心惹かれたくない上に、マホ達の身の上話に夢中のギイチはマリの料理よりもいなり寿司を選択。結果、ユミトに対して嫉妬心を抱いて苛々するという。
「ギイチ先生。マリさんとユミトさんが気になるなら間に入ればええですよ」
隣に座るアザミに頬をつつかれた瞬間、ギイチはその手を思いっきり叩いて「触るな!」と拒絶。
揶揄いに対してあまりに強い叩きと叫びだったので沈黙が横たわる。
「なんと、今日は見習い達が作った失敗大福がありまーす! 見た目は悪過ぎるけど、材料は自分が作ったから美味しいぞ。食べる人!」
場の空気を察したレイがすかさず立ち上がって明るい声を出して右手を挙げた。次々と手が空へ伸びていくけれど、ギイチはそっぽを向いて不機嫌顔。
「アザミ君。あの女は父上が寄越したたけで俺の気に入りではない。誰と何をしようが勝手だ」
なになに、どういう事だと始まったのでギイチは創作縁談話を口にした。
「世話役として買われたようなものなのに、洗濯は出来ないし料理も下手でやかましい。兎を拾ってくるし、昼まで寝ているし、自由にどうぞと言ったら男に色目。突っ返したらあの女の家に父上が金を返せと言う。そうしたらお嬢様は身売り。可哀想だから置いてやるけど目障りだ」
この発言は、ギイチが進めている創作物の設定人物の台詞の使い回し。案はいくつかあって、その中の一人の青年の性格ならこう話すだろうという想像から作りだしたもの。
「ふーん」
ギイチの隣からアザミがいなくなり、レイが腰を下ろした。アザミは席を譲ったようだとギイチはチラッと確認して、再び反対側にいるマリが見えないような方向へ顔を戻した。
「シン君、いちびこ入り大福です。どうぞ」と、レイが実に美味しそうな物を差し出した。
「大福はあんこだろう? あんこは嫌いだ。とくに粒あんなんて最悪」
シンさんからシン君ってなんだと突っ込む前に、先にこのことを言いたくて口にした。
「抹茶餡も嫌いですか? こし餡ですよ」
「抹茶餡とはなんだ」
「それならどうぞ」
好奇心旺盛なギイチは未知という誘惑に逆らえず。抹茶餡のいちびこ入り大福を口にして大感激。
「なんだ、この至極の食べ物は」
「レイさん特製抹茶餡いちびこ入り大福。形が悪いのは見習いの三人が作ったから」
「もう一つくれ」
「一人一個。お買い求めは鶴屋の料亭で食事か、自分に個人注文で」
レイは大福の乗った皿をヒョイっとギイチから離した。
「金を払うから作れ」
「その言い方だと嫌ですー」
「はぁああああ? 客に対して嫌だってなんだ!」
「嫌な客は客ではありませーん。売れてないなら媚びるけど、売れているから強気になる。レイ様。あまりにも素晴らしくて美味しいのでお願いします。個人的に注文するので作って欲しいです。はい、復唱」
「ふざけるな。それなら……」
食欲が勝ったギイチは一瞬言い淀み、食べたくないと小さな声を出した。
「可愛いー。本当は食べたいんだ。そんなに美味しかったとは嬉しいから作ってあげる」
「要らん」
「明日の夜を楽しみにしてて」
「誰が来るか。俺はここに二度と来ない。君にも二度と会わない。帰る」
「そう? 昨日知りたいって言っていたエドゥアール温泉街の話はしなくてええの?」
「……」
ギイチの視界に、マリの照れ笑いが飛び込んできて、ユミトに対して自分には見せたことのない笑みを見せていたので、沸騰したお湯が入った薬缶から湯気が勢い良く吹き出るように怒り爆発。
「迷った。可愛いー」
「違う! うるさい男だな。帰る!」
「先生、こんなことでそんなに怒らなくても」
腹を立てて立ち上がったギイチの背中にレイの「アザミさん、彼は他人との温かい交流に飢えているから来ますよ」という声がぶつかる。
今のはわざとだ、挑発だとギイチは更に怒りを増強させた。
「マリ、帰るぞ」
「えっ? 何やら口論していたようですが、どうされました?」
「別に。標本集めや取材はもう十分ってだけだ」
まだユミトと話したい、というようなマリの名残惜しそうな表情にギイチはますます苛立ちを募らせた。早くしろと先に歩き出して振り向かずに進む。
マリが長屋の住人達に「また明日」と告げたことや足音を聞いて、ついてきているなと振り返らずに歩き続ける。
小走りで駆け寄ってきたマリが隣に並ぶと、ギイチは吐き捨てるようにこう告げた。
「君が男に色目を使うことは、資料として役に立ちそうだから勝手にすれば良いけど、初を与えたら契約破棄で全額返済だからな」
「色目? そのようなものは使っていません」
「俺はもうあそこには行かない。君は行きたきゃ行け。夜道を一人で歩いて強姦魔にヤラれたら全額返済だからな。俺は君が生娘お嬢様だから多額の金を出した」
「レイさんと喧嘩しました?」
「あの化け猫男は俺を更生させようと考えている偽善者だ。自己満足や自尊心満たし、家族孝行の材料にされてたまるか。俺は何も不自由していない」
何が温かい交流に飢えているだ、とシンは道の外れにあるそこそこ大きな石を蹴り飛ばした。それは地蔵の一つに当たって、地蔵の足の一部分が欠ける。
ギイチが怒り心頭なのは、レイの揶揄いやふざけに最後の偽善者っぷりだけではなくて、マリが食い下がらないであっさり他の男に夕食を食べさせて、二人で仲良く親密そうに話していたから。
ただ今はむしろ、レイへの憤りが勝っている。その理由を考察しきれず、ギイチは再度道端の石を思いっきり蹴った。草むらへわりと勢い良く飛んでいった小石が、通りがかった「蛇のような生物」にぶつかったことを、ギイチもマリも一生知ることはない。
☆
お地蔵様に八つ当たりするなんて、と私は慌てて欠けてしまったお地蔵様の足を撫でに行った。
「シンさん。バチ当たりです」
「バチ当たり? 神も副神も創作話なのにバチもクソもあるか」
お地蔵様は子どもを守ってくれる存在なのに。欠けてしまった部分には何も出来ないので、簪を外して、毛糸の帽子に刺した。
「これはシンさんの代わりにお詫びです」
「悪意と嘘と理不尽が蔓延るこの世界で、救ってくれない存在に縋るなんてどうかしている」
しゃがんでお地蔵様に手を合わせていたら、早く行くぞとシンに袖を掴まれて引っ張られた。
「あの、縋ったことがありました?」
これは余計なことを口にしたと思ったけれど後の祭り。シンは鬼のような形相で振り返り、何も言わずに前を向いて歩き続けた。
「龍神王様や副神様が居ないと申すのでしたら、今後は私を頼って下さい。私や両親はシンさんにお力添えします。離縁後も恩を忘れたりはしません」
「うるさい。だから俺に擦り寄っても何も出ない」
「シンさんにその気は無くても、私達は救ってもらったのです」
「君にはこれから地獄が待っている。そうすると君の両親も地獄行きだな」
こんなに口が悪いのに、私の袖を引く手や速度はあまり強くない。
おまけに蜘蛛の巣らしきものが顔にぶつかった気がしてきゃあきゃあ叫んだら、君は間抜けにも程があると髪や額を手拭いで拭ってくれた。その手つきのなんとも優しいこと。
この日の夜は昨夜とは別の意味であまり眠れなかった。胸が痛くてならない。優しい人が傷つけられ過ぎた結果、誰も信用しなくなったのなら、あまりにも悲しい。




