第十七話 翼は風を得るか
宿場街の中央部辺りから僅かに離れた、大通りの裏手。丁度長屋に近いところにある旅籠屋に、軒猿は二人を招き入れた。
表通りに並んでいる他の旅籠屋と比べると、ここの内装は簡素で、歩くたびに床がぎしぎしと音を立てるほど、老朽化が進んでいた。
だが漆喰の壁には染み一つなく、見れば廊下も、奇麗に水拭きされた跡がある。建築年数はそれなりだが、手入れが行き届いているのが良く分かった。
「こちらでございます。草履は脱がなくて結構でございます」
案内されるがまま廊下を突き進み、やがて地下へと続く梯子を下りる。最初は軒猿が。次に電七郎、彩姫と続いた。
旅籠屋の地下はひんやりと冷たく、太陽の下に晒され続けていた彩姫の体を、優しく労わるように包み込んだ。
埃は少なく、どこからか清風が流れ込んできているのを感じる。詳しい原理までは分からないが、どうやら空気が澱むのを防ぐために、地下道には何らかの細工が施されているようだった。
「少々暗闇が続くゆえ、足元には十分ご注意くだされ」
気遣いに満ちた態度を見せると、軒猿は懐から手燭を取り出して火を点け、二人を導くようにして先を歩き始めた。ぼんやりと照らし出された地下道は、思ったよりも幅が広く、壁の至る所が湿り気を帯びている。
「元々、この地下道は鍾乳洞の一部でございましてな。五十年ほど前まで、とある武将の武器庫兼隠し通路として使われていたようでして。恐らく、敵に見つかってはまずい何らかの兵器製造を、ここで行っていたのでしょうな。まぁ、元の持ち主は既に亡霊の身ですから、わざわざ許可を取る必要もないので、手続きは楽でしたよ」
聞いてもいないのに、軒猿は一人でべらべらと、地下道の成り立ちと歴史について喋り始めた。されど、そこには場を和ませようとする心よりも、もっと別の思惑があることを電七郎は見抜いていた。
自分は決して怪しい者などではなく、あなた方に対する従順な協力者である。そう必死に主張したがっているような喋りだった。
彩姫はともかく、電七郎は依然として軒猿の背筋に厳しい目を向けている。少しでもおかしな動きに出たら、即座に切り捨てる覚悟でいる。
葵光闇と化したお千との一戦を経た彼にとって、もはや過去の住人達は、いつ敵の術中にかかり襲い掛かってくるか判らない襲撃者予備軍も同然であった。
「さぁ、ここでございます」
暫く歩いたところで、軒猿が足を止めた。目の前に、石造りの扉が岩に嵌め込まれるようにしてある。扉は引き戸になっていた。
軒猿は手燭を左手に持ち替え、重々しい扉を右手で開けた。
「お頭! 見回りお疲れ様です!」
「お疲れ様です! お頭!」
中に入った途端、威勢の良い声が、石造りの部屋のあちこちから轟いた。頭とは、他でもない軒猿の事を言っていた。
部屋にいるのは男ばかりで、全員が三十に差し掛かろうとする年頃だった。髪を長く伸ばしている男もいれば、無精ひげを生やした男もいるし、禿げ頭の男もいた。木製の作業台の上で火薬らしきものを調合したり、地図を広げて眉間に皺を寄せて何かを話し合っている男達もいた。数は多い。二十、いや、ざっと見るだけでも三十人近い。
一言でいえば、実にむさくるしい集団だった。何の職に従事しているのかも分からぬ、謎めいた男達の放つ濃密で異様な雰囲気に、彩姫は圧倒されつつあった。その傍らで、電七郎は電撃でも浴びたかのように、呆然と立ち尽くすばかりであった。
「皆の者、良く聞くのだ。本日を以て、私は頭を下りる」
軒猿の覚悟を決めた宣言。男たちの声が止み、水を打ったかのように静かになる。戸惑いを浮かべる彼らを他所に軒猿は破顔し、彼らにとって希望の道標となるであろう情報を伝えた。
「私よりも、もっと頭領に相応しい者と出会えたからな」
言って、後ろに待機していた電七郎の背中を押し、前に立たせた。
男達は暫くの間、訝し気な視線を電七郎に向けていたが、やがて、永い眠りから目覚めたかのように、何人かがはっとした顔つきになった。
「貴方様は……」
「嘘だろ……」
「で、電七郎様じゃないかっ!」
「おお確かに! 電七郎様! 副頭殿ではござらぬか!」
「電七郎様だ! 電七郎様がお帰りになられた……! やはり噂は本当だったのだ……!」
「よくぞご無事で……電七郎様……!」
動揺、驚愕、歓喜。嵐のように湧き上がる男たちの感情。中には、目尻に薄っすらと涙を溜める者もいれば、膝をついて両手を組み、体を震わせて神仏に祈るように力強く目を瞑る者もいた。誰もが一人の例外もなく、電七郎に対して多大な尊敬の念を抱いていた。
「お主ら……まさか、本当に生きていたとは……」
電七郎は、今度こそ本当に確信し、次いで多大なる衝撃を受けた。
この場にいる男たちの顔。よく見れば見るほどに、懐かしさがこみ上げてくる。国が墜ちて五年の歳月が経つが、忘れるはずもなかった。
近巳国の隠れ里で修行に励み、忍士として一人前になろうと、死に物狂いで修練に明け暮れていた者らが――白鳳忍軍の次世代を担う〈翼〉と呼ばれる組織に属していた者らが、今、目の前にいる。
「電七郎様。我々、〈翼〉の忍士は慚魔衆の襲撃を受けたあの日の晩、その殆どが千疋湖まで夜間の演習に出ていたのです。故に、慚魔衆の毒牙を免れたのでございます」
「千疋湖だと? あんな遠いところまでか? しかしそのような話、俺の耳には入っていなかったが……」
「全ては、御頭領のご命令でございました」
「兄者が?」
「はい。きっと、御頭領は何か不吉な予感を覚えていたのでしょう。我らに対し、明朝まで千疋湖で演習を務めあげてまいれと申しておりました。電七郎様には、余計な心配をさせたくないから何も言うなとも、仰っておりました。今思えば、御頭領は我々の身を案じて……〈翼〉に危険が及ばぬよう、遠ざけていたのかもしれませぬ」
軒猿は、そこまで言って一旦目を伏せた。頭領の命令のままに動いたとは言え、国が存亡の危機に晒されている中、惨めにも生き残ってしまったことへの負い目があるのだろう。
死に時を見誤るなとは、生前、雷牙が電七郎に口酸っぱく言い聞かせた言葉であったが、まさにここにいる男たち、皆が死に時を見誤り、死に場所を求めて彷徨い続けているのだ。
彼らの求める死に場所――それはもう、ただ一つしかない。
「我々も、この五年間ずっと、慚魔衆の動向を探っていたのです」
軒猿の一言に、男達の何人かが同意するかのように、静かに首を縦に振った。
「国が墜ち、白鳳忍軍も壊滅してしまった中、我々に残された、せめてもの償いはただ一つ。慚魔衆と、奴らを率いている黒嶺餓悶への報復。それ以外にはございませんでした。ただ、それだけを胸に留めて、生きてまいりました」
忍士の卵とはいえ、彼らの諜報戦術は侮れない。手を替え品を替え、己の身分も平気で偽り、慚魔に怨みある者らを各地から僅かずつではあるが集め、活動の拠点を作った。その拠点こそが何を隠そう、この旅籠屋であったのだ。
彼らは思いつくだけのありとあらゆる手段を講じて、慚魔衆と黒峰餓悶の居所を探り続けてきた。奇しくも、電七郎が森田甚五郎と名を変えてやってきたことと、それは殆ど同じやり方だった。
そんな地道な活動を続けて五年も経過したある日のこと。
〈翼〉の面々は遂に、慚魔衆の決定的な動きを掴んだ。藤尾家に伝わる秘宝を巡る内乱。その一大事に、慚魔衆が絡んでいることを突き止めたのだ。
〈翼〉を束ねる立場にあった軒猿は、直ちに選りすぐりの忍士を偵察として江治前国へ潜り込ませ、動向を探らせた。結果、短時間で多くの情報が手に入った。
今や藤尾家唯一の生き残りにして、秘宝たる妖獣魔笛の正統後継者・彩姫。その彩姫を越碁国の中杉家まで送り届けることになった、謎の男。その男は、まるで白鳳のとある忍士を彷彿とさせるかのように、機敏に印を結び、雷電を意のままに操るという。
部下たちの話を聞き、偵察部隊のうちの一人が描いた男の人相帖を見た軒猿の脳内で、一つの仮説が生まれた。
「もしや、そのお方は電七郎様ではないか――ありうるはずもないと思いました。私はてっきり、電七郎様は五年前のあの日の夜に、殺されてしまったものとばかり思いこんでおりましたから。しかし、もしも話が本当なら――そんな淡い期待が芽生えたのも、確かでございました」
「それで真偽を確かめようと、ずっとこの旅籠屋で待ち続けていたのか」
「はい。予想が当たり、今はほっとしていますよ」
「しかし、よく俺が宿場街を通ると思ったな。嵐岩峠を越えるかもしれぬとは思わなかったのか?」
「確かにそれも考えましたが、もしも件の男が心優しい電七郎様ご本人であったら、きっと、姫様の御身を第一に考え、あのような険峻激しい山々を超えることはまずあるまい。その様に考えておりました」
自信たっぷりに、軒猿が答えた。期待値の極めて低い賭けに挑んだ結果、見事に勝利を掴んだことがよほど嬉しかったのか、その顔には得意げな色が浮かんでいる。
「俺が優しいかどうかはともかく、そこまで読んでいたとは、流石だな、軒猿」
「電七郎様……」
幼き頃より憧れていた忍士からの誉め言葉を受け、軒猿は興奮気味に紅潮した。しかし、直ぐに真剣な表情に戻ると、土で汚れ、傷だらけになった電七郎の手を優しく取り、思いの丈をぶつけた。
「電七郎様、今日まで良くぞご無事でいてくださいました。そして、どうかご安心を。ここから先は、我々〈翼〉も一緒でございます! 貴方様の翼となって、共に彩姫様を中杉家へ送り、慚魔衆の奴らに一泡吹かせてやりましょうぞ!」
男達が自分達の勝利を確信したかのように、大声を張り上げた。白鳳忍軍随二の使い手たる電七郎を味方に加えたことで、〈翼〉は進撃の為の風を得た。それも凄まじい追い風を。誰もがこの風に乗り、慚魔の企みを崩壊させ、奴らの牙を折り砕いてやるのだと、息巻いていた。
しかしながら、そんな意気高揚する嘗ての仲間たちを前にして、風を呼び込んだはずの男の心は、どこか冷静で、厭世的ともとれる感覚に支配されていた。
確かに生きていた。今度は、幻術などではない。ましてや、死者が蘇った訳でもない。同じ釜の飯を喰らい、苦楽を共にした仲間たちが、ここにいる。あの戦火を生き永らえ、今ここに、意思を一つに集結している。その事実にたまらぬ感動を覚えたのは確かだ。
だが、だからと言って彼らを――巻き込むわけにはいかない。
「ありがたい申し出だが、断らせて頂く」
軒猿たちの顔から、一瞬にして血の気が失せた。彩姫も、驚いた顔で電七郎を見上げた。信じられなかった。彼が、そんな事を口にするのが。
「な、なぜでございますかっ!?」
男達の一人が、悲痛ともとれる声で叫んだ。だが、電七郎は答えない。ただ黙して、感情の読み取れぬ瞳で、ただじっと男達を眺め回していた。
「これは、俺自身の問題だ。俺が解決しなければならない問題なのだ。お前たちが出る幕ではない」
「お言葉ですが、慚魔に怨みあるは我らも同じでございます」
にじり寄り、軒猿が言った。
「まさか、我々の実力を疑っておられると申されますか?」
足手まといになるつもりなど、彼らにあるはずもない。しかし、もしも電七郎がそれを理由に助力を拒んでいるとするなら、これは何としても払拭しなければならない事案であった。軒猿は、必死の思いでまくしたてた。
「確かに、我々の忍法も体術も、副頭を務めておられた貴方様には劣るやもしれません。ですが……! ですが我々もこの五年間、黒嶺餓悶の首を獲らんと死ぬ思いで術を磨いてきたのです! この力、このままここで燻らせておくわけにはいかないのです!」
「……そこまで言うのなら、一つ、頼みごとがある」
と、電七郎は彩姫を見やり、
「ここにおわす藤尾家が一人娘、彩姫殿を、お前たちの手で越碁の中杉家まで送り届けて欲しい」
「それはいたって構いませんし、元よりそのつもりでございましたので、準備は出来ております。で、ですがしかし――」
お前たちの手で、という言葉が引っ掛かる。
「電七郎様はどうなさるのですか?」
軒猿の尤もな問いかけに、電七郎は包み隠さず、己の覚悟を伝えた。
「江治前国へ戻り、黒嶺餓悶と決着をつける」
「そんな!」
「それはなりませぬっ!」
彩姫と軒猿。二人が殆ど同時に、悲鳴にも近い声を上げて抗議した。姫に至っては、離れたくないと言いたげに、電七郎の袖の端をきつく握り締めている。それも無理からぬことだ。それまで自分を守ってくれていた男が、いきなり護衛の任を降りると宣言したのだから、激しく狼狽するのは当然である。
「仰ってくださったではありませんか! 俺で良ければ力になろうと、あの時、初めてお会いした時に仰ってくださったではありませんか! 最後まで……最後まで、私の傍にいてくださるのではなかったのですか!?」
思わず、責めるような口ぶりになる。しかし激情を露わにする姫と異なり、栗介と言えば、何かを考えているのか。姫の懐に潜り込んだまま、どういうわけか姿を見せない。
「敵陣への単騎突入など、ありえませぬ。死にに行くようなものですぞ」
「分かっている」
未だに力の底を見せぬ慚魔衆。その首魁たる黒峰餓悶がいると目される江治前国へ、たった一人で赴く。馬鹿げた話だということは、電七郎自身が一番良く理解している。
それでも、
「それでも、俺がやらねばならぬ」
「電七郎様……しかし……」
なおも食い下がる軒猿。そんな嘗ての仲間を前に、ついに電七郎は、決定的とも言える一言を吐いた。
「軒猿よ。俺の事はもう、忘れてくれ」
「何を――」
「分かってくれ。もう、俺は銀色の忍装束を着れんのだ」
あたりの温度が一気に低くなったかと錯覚させるくらいの静寂が、地下室を支配した。
銀色の忍装束が着れない――その言葉の裏に込められた壮絶な意味を知らない彩姫は、この世の終わりを目の当たりにしたかのように顔色を失った軒猿達を、恐る恐る見守るに留まるしかなかった。
誰も、一言も口に出来なかった。男達の何人かが、その場に膝をつき、崩れ落ちた。ようやくの思いで掴んだ光が、幻であると知らされた時に感じる絶望。長年の間、堂々と自生し続けていた大木の幹が、いつの間にか腐りきってしまっていたことを知らされた時の衝撃に、それは良く似ていた。
「俺は忍士ではない。ただの……忍だ」
自嘲的な笑みを零し、電七郎は袖を掴んでいた彩姫の手を振り解き、その場を後にしようと扉へと向かった。ついてくるな。そう、背中で語り掛けて。
しかし――
扉に手を掛けようとしたところで、電七郎の体が、力無くその場で崩れ落ちた。
「電七郎様!」
彩姫の叫び声。どよめきと共に近寄る男達。
「なんと、ひどい熱だ!」
異変を感じ取った軒猿が電七郎の額に手を当てながら、慌てた声を出す。見れば電七郎の顔はもとより、首筋からも、じっとりと脂汗が滲んでいた。
「お前たち、手伝え! すぐに空き部屋へ運ぶぞ!」
軒猿の切羽詰まった声の下、屈強な男達が電七郎を取り囲み、その力の抜けきった体を担ぎあげた。
彩姫は、思わず電七郎の左わき腹に目をやった。
薄暗い地下室でもわかるほど、赤黒い染みが浮かんでいた。




