29. ランピリダエの過去 ~運命を決めた出会い~
「ここは……?」
ユキは気がつくと青黒い不思議な空間に居た。
まるで海の中に居るような感覚だけど、呼吸は苦しくないし目も開けられる。
でも体は動かせない、どういうことなの……?
今までのどことも違う場所に戸惑いながら、ユキはふとどこかから何かが聞えてくるのに気がつく。
そのどこからか聞えてくる音の正体を探るために、目を閉じ感覚を耳に集中させた。
すると、どこからかホタルお姉さまの声が聞こえてくるのが解った。
何やら喋っているみたいだけど、何を言っているのだろう?
ユキはこの群青の世界から聞えてくるホタルの声を、さらに注意深く聞く。
すると、目の前と風景がとてつもない速度で流れそして光り輝いていき……。
……雨の振る音が聞える、全身冷たい。
ユキは瞼をゆっくりと開けていく。
「私は水神の国の貧民街に立っていた」
この聞えてくる声は……、ホタルお姉さまなの?
でもここはどこだろう。
建物はぼろぼろで酷く朽ちているし、道を歩く人達の誰もが暗い表情をしている。
ホタルお姉さまの言うとおり、ここが水神の国の貧民街……?
水神の国は貧富の差が激しく、首都アウローラは清潔で美しくて観光街としても名高い場所であるけれど、少し都から外れた集落はとてもみすぼらしいと聞いた事がある。
実際に行った事は無かったけれども、まさかここまで酷いなんて。
「その日は雨だったけれど、私はずぶ濡れだった。でもその時考えていたのは、空腹をどう凌ぐかだった」
そのホタルの声が聞えてくると、まるでユキ自身がホタルになったかのように、酷い空腹に襲われてしまう。
えっ、私がホタルお姉さまになっている!?
どういう事なの……?
「だから私はもっとも簡単で、いつもやっていた行為に及んだ」
どこからか聞えてくるホタルの声の後、視界が勝手に動いていく。
何をいつもやっていたのだろう?
どうして、他の人の過去を体験出来ているの?
このどこからか聞こえてくるホタルお姉さまの声に、何の意味があるの?
そうユキが考え始めた時だった。
「食料品の店で売っている品物を、店主の目を盗んで奪った」
自分でも信じられなかった。
ユキは当然誰かから物を盗んだ事は一切無く、そもそも姫だった頃は物質的に何ら不自由が無かったので、欲しい物を手に入れる手段として窃盗をするなんて一欠も想像していなかった。
しかしユキはホタルの言うとおり、まるでいつもやっているかのように店主の様子をうかがいながら、ほんの一瞬別の方を向いた時に、陳列してあった果物を数個奪いその場から駆け足で去ろうとしたのだ。
「いつもは成功するし、今までだって失敗した事なんてなかった。けれども今日は調子が悪く、主に私の盗みが見つかると、私はたちまちつかまってしまい、その場で半殺しにされた」
次に聞えたホタルの声が、必死に逃げるユキを戦慄させる。
それと同時に、ユキは服の襟首を掴まれて力ずくで後方へ叩きつけられると、使用人時代で受けた暴行の数倍の力で、完膚なきまで叩きのめされてしまう。
しかし、あれだけされたのに不思議と痛みは無かった。
だがユキの体は一切動かせず、傷だらけの肌が冷たい雨に打たれる感覚すら消えうせつつあった。
それよりもユキが驚いたのは、今にも飢えそうでかつぼろぼろになった少女を見ても、誰も心配をかけてくれないという事だった。
通りかかる人も、まるで路傍のゴミクズを踏まないよう避け、冷たい眼差しを投げかけるだけで、一切取り合おうともしない。
「正直、死ぬんだろうなって思ったよ。でも恐怖は無かったかな。どうせ生き延びたって、こんなロクでもない世界なんだから生きてる意味が無いって考えがあったから。そう思いながら、だんだん目の前が暗くなっていってさ」
これが貧民街に住む者の最後かとユキが理解すると同時に、ホタルの声が聞えてくると全身の力が抜けて瞼が重くなっていき、やがて目の前が暗くなってしまった。
「でもね、次に目が醒めたら、そこは天国や地獄じゃなくってどこかの屋敷の中だった。暖炉には火が灯っていて部屋は暖かく、綺麗なシーツが敷かれたベッドの上に居て、机の上には焼きたてのパンがたくさんおいてある」
重く淀んだ意識が再び覚醒していく。
目の前が開き、辺りの風景を見まわす。
そこは今までの暗く冷たい世界とは違う、けれども姫君だった頃のユキにとっては当たり前で、貧民街育ちのホタルのとっては非日常的な光景が広がっていた。
「私は慌ててパンの入ったカゴを抱きかかえ、冷えた体を温める為に暖炉の前に座って、一心不乱にパンを鷲掴みにして食べた」
そのホタルの声に従い、机の上にあった複数のパンを掴んで慌てて頬張った。
ユキは欲張りすぎて喉を詰まらせそうになりながらも、かごの中にあったパンを次々と食していき。
「カゴの中のパンはあっという間に無くなった。食べ終わってふと気がつくと、後ろに一人の男が居たんだ」
気がつけばパンは無くなり、後ろを振り向くと一人の男が立っていた。
後ろに居た男の人はガタイがよく、半そでから見える丸太ほどある太い腕、日に焼けた肌、整えてはいるのだろうがどうしても汚なさが隠し切れない髭、薄汚れた格好から、ごろつきの類だという事はユキでもすぐに解った。
当然、子供が好きそうな顔には見えないし、面倒見が良さそうな風貌でもない。
「貧民街で身寄りの無い子供の行き先はいろいろあって、稀に正教直属の孤児院に拾われる以外は、経路経歴はどうあれ最終的には貴族の玩具になるか、陰湿な魔術師に囚われて人体実験の被検体か、死ぬまで重労働させられるか……、兎も角どうしようもないのさ」
ホタルの声を聞いた瞬間、ユキもホタルと同様に己の儚い未来を容易に想像する事が出来た。
使用人時代、アレフィは自身の屋敷で働く使用人以外にも少女を連れ込んでしていた事を思い出し、ユキは思わず吐き気を催してしまう。
「もう大丈夫だ、お前ほどいい物持っていれば食いっぱぐれない。俺が育ててやる」
男は笑顔でユキの頭を雑に撫でた後に、大声で笑い出した。
無骨な手は、思っていた以上に温かい。
「だからこの男と会って、私もついにそういう日が来たんだなって確信したよ。勿論、逃げるなんて気は無かった。全て諦めてたからね」
それとは逆に、どこからか聞えてくるホタルの声はどこか冷たかった。
そしてその瞬間、風景は何の前触れも無く急に動きを止める。
ユキは戸惑い、周囲を見回そうとしたが自身も動けない事に気づき内心慌ててしまう。
「でもね、私の予想は裏切られた」
ホタルお姉さまの声と同時に、目の前と意識が遮断されて瞬間的な黒の空間へと誘われる。
今までの記憶の回想とは違い、そこには何も無いし何も聞えなく何も見えない。
私がホタルお姉さまになって、お姉さまと一つになって今までの人生を体験をしているという事は解った。
多分、私が変身した影響と、急に光りだしたホタルお姉さまの腕の刺青が原因なのかもしれない。
でも、予想が裏切られるとはどういう事なの?
このまま売られてしまう以外の結末があるの……?
「翌日になって待っていたのは、文字の読み書きや簡単な計算の勉強だった」
ユキがそう思うとホタルの声が再び聞え、そして視界は一変する。
「な、なあ、この計算の答えは……十か?」
「違いますよボス。六ですよ」
「ばっかだねぇ、二だよ! ほんと情けないったらありゃしない」
「……全員全然違いますね。こちらの式から解いていくので、最終的な答えは五です」
『えっ!? そうなのか?』
目の前にある黒板には計算式がかかれており、先程の男やその仲間であろう柄の悪い男女が四苦八苦しながらこちらに説明をしていた。
状況は先ず間違いなく、ホタルお姉さまが学問を習っている所なのだろう。
「正直意外だったよ。どうせ娼婦かそれに類する者にされて、安い金と引き換えに悪趣味な金持ちに売られると思ってたからね」
私もホタルお姉さまと同じ意見だし、だからこそ彼らの行為には驚いた。
まさか、ただのごろつきと思われていた人達がホタルお姉さまをわざわざ拾って、しかも勉強を教えるなんて。
「だから、私は聞いたんだ。どうしてこんな事をするか?って」
ユキの意識のまま、幼いホタルは自身を拾ったごろつき達に何故自分を拾ったのか。
どうして育てようとしたのか。
ホタルの言葉のままに、周りの大人に聞いた。
「あー、新しくギルドを作ろうと考えている。これからは貴族達にも顔を売らなければならないから、その時お前が必要になる」
ギルドの看板娘的な役をさせたいのかな?
でもそれなら、私なんかじゃなくてお金で雇えばいいはずなのに……。
「ボスも物好きですねぇ、俺だったらさっさとうっぱらって酒買う金にするのに」
「ばーか野郎お前、それじゃあ先がねぇんだよ。これからは……、えーなんていったっけか……、おおそうだ! インテリだ! そうインテリの時代なんだよ」
「ねえ、どうしてお金で解決しないの? わざわざ育てるなんて手間じゃない?」
「受付嬢くらいならそれでもいいんだがな、お前はこう……、もっと大きい存在にならないといけない。俺の目に狂いがなければそうあるのが、本来のお前なんだと思う」
「なんですかそりゃ……」
どうやら私を拾い、ここのボスでもある男は”ホタルお姉さまの将来に、期待しているんだろうな”と事をユキは理解した。
「ま、そういうわけだ。だからお前さんは手放さないし売らねえよ、今はしっかり勉強してゆくゆくは俺を楽させてくれや」
ユキは正直驚いていた。
ただのごろつきで、その日を楽しくおかしく生きているだけにしか見えない人が、まさかそこまで未来の事を考えているなんて……。
ホタルお姉さまも、そう思っていたに違いない。
「ねえボス、この子の名前どうするの? スラム育ちじゃ多分無いでしょ?」
「ボス、まさか名前もつけずに教えようとしたのですかい?」
「うるせえ! あー……、なあお前、名前あるか?」
ユキは自分で意識したわけでもなく首を横に何度も振る。
「ふーむ、じゃあランピリダエでどうだ?」
「えー、そんな長いの呼ぶの面倒だし嫌」
「じゃあホタルでいいでしょう。ランピリダエは東方の言葉ではホタルなので」
「おお、それだな! そうしよう!」
なるほど、ホタルお姉さまの名前はここで貰ったんだね。
「よし、お前は今日からホタルだ! ガハハハハ!」
ボスは再びホタルお姉さまの名前を言うと、雑に頭を撫で始める。
髪は余計にくしゃくしゃになってしまったけれども、ホタルお姉さまが一人の人間として認めてくれた事による喜びが、私にも十分伝わるほどだった。




