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101 おまけ Wiki風主人公紹介

完結後も多くの方に読んで頂き感謝申し上げます。

そこで、忙しい年末ですが感謝の意味も込めましてリクエストにもあったWiki風人物紹介を掲載いたします。

ただし、ネタバレとなるため本編読了後にお読みいただくようお願いいたします。

101 Wiki風主人公紹介



二階堂にかいどう 輝行てるゆきは、戦国時代の武将・陸奥国の戦国大名で須賀川二階堂氏6代当主。


豊臣秀吉の奥羽仕置の際、主に陸奥国南部の大名を纏めて臣従を誓い弱体化を逃れさせたと言われることから、後世「奥羽の宰相」の異名がある。また、現代に近い布団を広めたことから「布団大名」とも言われた。


<生涯>

永正16年、陸奥国須賀川城で二階堂晴行の嫡男として誕生。名は行秀ゆきひで照行てるゆきとも伝わる。母及び幼名は伝わっていない。


天文3年に伊達晴宗は岩城重隆の娘久保姫が結城晴綱へ輿入れする際に、自ら軍勢を率いてこれを襲撃して久保姫を連れ去ったが、これに初陣として参加した。

初陣ながら敵将の一人を一対一で討ち取り、その武勇が南奥州に広がる。

この活躍に注目した14代当主伊達稙宗は、敵対する結城氏を抑えるため天文4年に娘のまつ姫を照行へ嫁がせることを晴行と約束する。


天文6年には舅となる稙宗の要請に従い大内の乱へ従軍して活躍したと伝わる。

伊達氏の後ろ盾を得た二階堂氏は、周辺の田村氏、伊東氏などと争い領地を拡大して行くが、その際に蘆名氏や石川氏らと誼を通じる。


天文11年から始まった伊達氏の内紛である天文の乱の際には、舅である稙宗に味方していたが、蘆名氏らと共に晴宗方へ寝返ったことで晴宗方の勝利を確定させた。

将軍足利義輝の調定により稙宗の蟄居が決まった際には、相談役として二階堂氏が稙宗を引き取り伊達氏の内紛拡大を防いだと言われる。


その後も少しづつ領地拡大を図った照行は、同時に生産力の拡大と商業の発展にも努め、二階堂氏が南陸奥で大きな存在となる礎を築いて行く。


永禄2年に晴行と共に上洛し、朝廷への寄進や将軍義輝へ拝謁した際には、将軍より輝の諱を授けられたことから、以後輝行と称した。


同盟関係にある蘆名氏とは、その敵対者である上杉氏に対抗するため共に武田氏や北条氏と同盟を組む事を進める他、北進を望む佐竹氏を抑えるため近隣の石川氏や結城氏とも協力関係を結んだ。


輝行は永禄11年にも上洛し、上洛し将軍足利義昭への拝謁を許された。二階堂一族は鎌倉より幕府官僚として働いて来たため、その一族がこの時も協力していたと言われる。

また、上洛中に三好氏が起こした本圀寺の変では、輝行とその家臣が少ない手勢ながらも将軍義昭を守る働きが大きかったとして将軍義昭や織田信長らから称賛される。


その後も南陸奥の安定のため、蘆名氏や伊達氏らの協力を得て佐竹氏の北部侵攻を防ぎ、上杉謙信が没した後に起こった上杉氏の内紛に介入して弱体化を図るなど積極的に動いた。

天正10年、本能寺の変の後に起こった豊臣秀吉と明智光秀の戦いでは、二階堂氏が物資などで秀吉を裏から支えたとの説があり、輝行も老体の身で光秀討伐の直後に上洛し、秀吉と面会して協力を誓ったと伝わる。


天正18年、秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐の際には、南陸奥の大名を纏めて伊達氏や蘆名氏を中心とした軍勢を参加させるために説得工作を行ったと言われ、この参戦が評価され奥州仕置では南陸奥の大名の多くが本領を安堵された。

しかし、奥州仕置により秀吉が須賀川城へ巡行した際、輝行は急な病を患いこの世を去った。享年71。



<人物・逸話>

輝行は自国の存続・発展に力を注ぎ、次いで周辺国との協調を重要視していた。中央の武将からも一目置かれていたが、本人は地方の一大名としての姿勢を貫いたため、彼を評価した信長や秀吉の協力者として政権に入る事も無かった。


また、仏教や神道を積極的に保護していたが、同時に資金を渡す代償として一定の管理を受け入れさせ、僧兵などの武装を一切禁じていた。この管理には江戸時代の寺社奉行の様な役を持った者もいたと言う。


二階堂氏の菩提寺である曹洞宗長禄寺は、長禄元年(1457年)に二階堂為氏が月窓明潭を招いて開山初代とした寺院であり、天皇の勅願寺となったために栄え、130余ヶ寺の末寺を擁する大寺院であった。しかし、東日本大震災のために建物が損壊したものもあり、現在も大改修工事が行われている。


この大改修で二階堂氏の休憩用の建物と伝わる所から隠し書庫が発見され、そこに二階堂氏の重臣である保土原有行など関係者の書簡が多く遺されていたことから歴史的な発見として注目されている。なお、この書簡等は須賀川市や県の学芸員により確認が進められており、地元では多くの功績を残した二階堂輝行公の謎に迫れるのではないかと期待されている。


読んで頂きありがとうございます。

活動報告へ二階堂氏の菩提寺である長禄寺を訪問した様子を掲載しています。

興味のある方はそちらもご覧ください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 日本が舞台の作品はあまり読んでこなかったが、 とても面白かった。 [一言] インタビュー形式とかで周辺人物による輝行の人物紹介のようなものを読んでみたい。
[一言] 次回は、笑顔百科風味でオナシャス
[良い点] ブックマーク外さずに残しておいた自分を褒めたい。 [気になる点] ダッシュ村の農業部門の師匠(お悔やみ申し上げます)と二階堂の子孫との談話とか・・・・
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