No.09 恋愛サラダボウルで刻まれる
翌日の放課後、カノラは帰宅前に美術準備室に寄った。
リエータのことを話すつもりはなかったが、日向ぼっこというか、彼が絵を描いているのを眺めに来ただけ。
ノック三回、返事はない。勝手に入っていいと言われているので、遠慮なくノブを回す。
「あら?」
だが、この日はガチャっと音が響くばかりで開かない。いないのかとも思ったが、中からかすかに音がする。絵の具の材料である鉱石をすりつぶす音だ。
「ヴィンくん?」
「……なにか用?」
心臓がドキッと跳ねる。扉越しに返ってきた冷たい声に、少し身震いする。
これは二年半の付き合いの中で、二度目ましてのヴィント・スノライン。相当お怒りでいらっしゃる。
十秒ほど考えてみたが、思い当たることはなかった。分からないなら、すごすごと帰るべきなのかもしれない。
でも、扉の向こうにいるのはヴィントだ。カノラはそのまま、扉越しに話をする。
「用事はないの。なんとなく来ただけ」そっと扉に触れる。
「ごめんなさい。考えてみたけど、ヴィンくんが怒っている理由が分からない。ちゃんと謝りたいから教えてくれませんか?」
二度と同じことはしないって誓うから。カノラはそう伝えた。
コツコツと、床の鳴る音がする。
「……本当、そういうとこだよね」
声の距離から察するに、扉のすぐ近くに彼はいる。十秒くらい間を置いて、鍵は開けられた。開いた五センチの隙間は、カノラに安堵を与える。
「カノラ、入ったらすぐに鍵を閉めて」
「は、はい! 何があったんですか?」
「その様子だとワザとじゃなさそうだね」
彼は不満げに絵筆を取る。その先端から蔓延るように、ペタペタと赤が塗られていく。
「昼休みに、サンライトの子が準備室に来たんだよ」
「リエータさんが?」
「カノラから聞いて遊びにきましたー、とか言ってたけど?」
アイスブルーの瞳が容赦なく向けられる。生きた心地がしない。
カノラは知っている。ヴィントの不可侵領域。それが恋愛サラダボウル――他人の器に彼を刻んで投げ込むことだ。
カノラが一学年の頃。彼との仲を取り持ってほしいと、友人にお願いされたことがあった。
良かれと思って紹介したところ、彼はアイスピックを突き刺すかのように辛辣な言葉で友人の恋心を切り捨てた。これは、兄ダンテも同じようなミスをしている。
どちらの場合も、スプリング兄妹はヴィントに口を聞いてもらえず、一週間ほど謝り倒してどうにか許してもらえたほどだ。
「そう言えば、リエータさんに準備室のことをチラッと言っちゃったかも……。でも、仲を取り持とうとか、そんな気持ちはございません!」
「本当に? この赤色に誓って?」
「誓います誓います!」
鼻先に絵筆を突きつけられ、謎の誓いを立てさせられる。一体、何の赤色? 血液みたいでゾッとする。
「わかった、信じる。まったくスプリングさん家のカノラちゃんはおっちょこちょいだなぁ」
「ごめんなさい、二度としません!」
他人の恋愛については(見返りを要求しながらも)手を差し伸べる癖に、ことヴィント自身の恋愛については、それが逆鱗になる。自分勝手な矛盾にスプリング兄妹は首をひねるばかりだが、頷くしかない。
「もしかしてアノニマスの用の作品を描いてました……? リエータさんに見られてませんか?」
おずおずと訊ねると、彼は不思議そうに首を傾げた。カノラは調合中のそれを指差す。
「だって、絵の具の材料――鉱石をすりつぶす音がおじい様に近かったから。アノニマスの作品を描くとき、少しだけおじい様の調合音に似るんですよね」
「へぇ、そんなのわかるんだ? さすが良い耳してるね」
カノラは自慢げに耳をつまむ。
「おじい様の調合音はキレイな和音なの。明るいド、くぐもったミ、掠れたソ。素敵でしょ?」
「うん、俺にはわからないやつだね」
彼は声を出して笑った。いまだにスイッチはわからないが、機嫌は直ったようだ。
「アノニマス用の作品はスプリング家でしか描かないようにしてるから大丈夫。そもそもサンライトの子は絵画に興味ないから、作品を見ても作者はわからないよ」ヴィントは片眉をあげる。
「――まあ、興味があるふりをしてまで、ここに押しかけてきたのは意外だったかな」
貴方は二位だからですよ、と言いたくても言えないもどかしさ。カノラはだんまりを決め込むが、彼は気にせず続ける。
「うちは金持ちだから仕方ないけどさ。お買い得感で言ったら、学園で一、二を争うくらいだし」
「え! お買い得ランキングをご存知で!?」
カノラは思わず立ち上がる。
「ランキング……? それは知らないけど、サンライトの子はそういう感じがする。まさか純粋な恋心じゃあるまいし」
「すごい嗅覚」
「何年、貴族やってると思ってるの?」
カノラも貴族のくせになに驚いてんの、と笑うヴィント。
昨日のリエータとのやり取りをなぞりながら、彼女が頬の色よりも先に目の色を変えていたから分かりやすかったと、彼は何でもない風に言う。
彼の読みはすごかった。昨日のカノラの様子から、リエータとの会話をすべて言い当てられてしまう。カノラは一言も喋っていない。まるで心の内側をなぞられているようだった。
「ヴィンくんって本当にすごいですね……」
「カノちゃんは本当にすごくないよね……」
「その辛辣さが心地良いです」
「変態さんだね」
荒療治一本の敏腕カウンセラー。効き目がありすぎて中毒になりそう。
「となると、フォルくんの恋は金次第ってわけだ。ムネとカネ、奇跡的に韻を踏んでる。胸よりは増える可能性がありそうだけど」
「むね?」
「こっちの話」ヴィントはごりごりと鉱石をすり潰す。
「あ、そうそう。敵を知った方がいいと思って、少し調べておいたよ。サンライトの子、今年の春に母親を病気で亡くしたらしい」
彼は調合する手を止めずに続けた。雑談みたいに。ちっとも雑談ではないのに。
「実父のサンライト男爵に引き取られて、今月の頭に途中入学してきたんだってさ。彼女自身は元平民。それなりに苦労してきたのかもね」
美人で目立つのに見たことがないな、とは思っていた。
どうやらリエータは妾腹のようで、父親の正妻も数年前に亡くなっている。その娘と父親と三人で暮らしているようだ。
複雑な家庭に聞こえるが、カノラたちの親たちは政略結婚と恋愛結婚の拮抗が破られた世代だ。結婚相手とは友情のような愛を育み、一方でお互いに恋人を持つ。よく聞く話ではあった。
「でも、リエータさんは家族の愚痴ではなく、お金のことばかり言ってましたよ。あと……そうそう、わたしのお父さんをべた褒めしてました。自分の父親とは違うとか」
「シンスおじさんのことを?」彼は手を止めた。
サンライト男爵家が返り咲く唯一の道だと、リエータは言っていた。なにか事情があるのかも。
だって、彼女は入学したばかりだ。ビッシリと埋められた彼女のランキングノートは、この一か月程度で書かれたことになる。軽薄だけど、きっと軽くはない。
「……でも、なんか……お金や権力のために結婚するだなんて――」
カノラが言い終わる前に、彼は言葉を被せた。
「理解できない?」
「ううん、遠回りな気がしちゃって。まず自分が幸せでないと、お金も権力も自分のものにならないんじゃないかなー、って思ったの」
ぶふっと吹き出す音と、調合器具を手放す音が同時に響く。
「あはは! 本当、カノのそういうところだよね」
イーゼルには、no.73【血痕の誓い】と書かれた絵が置いてある。先ほどカノラが誓った謎の赤はこれだったのか。
彼の指先についてしまった絵の具が、水で洗い流されていく。じゃーじゃーと流れる音の隙間で、彼は呟いた。
「……リエータ・サンライトか。こっちから接触してみようかな。四連作【海水】に見合う働きをしないとね」




