No.08 血統の価値
カフェテリアに残されたカノラは、牛乳を三本飲みきってから課題を進めていた。
初対面の恋敵と二人きり。非常に気まずい。
「カノラさん、最後の問ですが、教本のどこに載っているのでしょうか?」
「これはイジワル問題ですね。教本には載っていないんです」カノラは少し得意気に胸を張る。
「専門家なら知っていることですが、絵の具に含まれる油が完全に乾燥する時間は『五十年』だと言われています」
「すごい……。さすが画家アゼイの御令孫ですね。尊敬いたします」
実際、絵画の知識はゼロだ。ヴィントに丸暗記させられているだけ。
リエータはペンを動かし、すらすらと課題を終わらせていく。その指先は細く美しい。それは指だけでなく、顔の造形まで洗練されている。
カノラは空の牛乳瓶を指で弾いた。ツンっと甲高い音がする。
ヴィントたちは、まだ戻ってこないのだろうか。失恋間近のフォルを慰めているのか、それとも詰め寄られているのか。
このとき、カノラの心は二分していた。性格の悪いことに、このままフォルの恋が完全に終わるのを願う気持ちもある。
これが、もしヴィントの作戦であれば罪悪感で悩むところだが、彼はそういうことはしない。
きっとヴィント自身を恋愛サラダボウルの中に放り込みたくないのだろう。混ざりたくないし、ドレッシングまみれになりたくない。以前、彼はそんなことを言っていた。
作戦ではないからこそ、恋の神様は残酷で気まぐれだなと思うけれど。
しかし、一方でフォルが暗い表情をしているのは……どうにも嫌な気持ちになってしまう。
フォルの恋を応援することはできない。でも、彼には笑顔でいてほしい。パラドックスは葛藤を生む。
ここでヴィントがリエータを受け入れたなら、この片恋の連鎖はオールオーバーになるのだろうか。
「……ヴィンくん、どうするつもりなんだろう」
「え?」リエータは手を止めた。
「いえ、ヴィンくんとフォル様はどうしたのかなーって。戻ってきませんね」
「……ええ、そうですね」
言葉とは裏腹に、リエータの瞳は疑念を持っているようだった。
「不躾なことをお伺いしてもよろしいですか? スノライン伯爵令息のことをずいぶんと気さくに呼んでらっしゃるのですね」
しまった。面倒なことになったぞ、とカノラは苦笑いをする。
子爵令嬢が伯爵令息を『ヴィンくん』と愛称で呼ぶなど、貴族社会では珍しいことだ。それこそ親密な場合がほとんどだろう。
理由は単純で、ヴィントが堅苦しいのを嫌っただけ。押し問答があった末に『ヴィンくん』で落ち着いたという流れがある。別に甘ったるい何かがあったわけではない。
一方、ヴィントはカノラの呼び方を固定せず、ちゃん付けだったり、呼び捨てだったり、犬呼ばわりだったり、様々な呼び方をしている。本当に自由な人だなぁと思う。
「えぇっと、特別に仲が良いわけではなく、ヴィン、トさま? ……いえ、スノライン伯爵令息とわたしの兄が親友なだけです」
あと恋の相談相手であり、愚痴聞き役であり、絵の譲渡相手であるが、そこは伏せる。
「お兄様――たしかダンテ・スプリング様ですよね。たしかに二人は友人関係にあると聞いたことがあります。不躾な質問をしてしまい申し訳ございません」
「いえ、お気になさらずに」
カノラは少し驚く。兄のファーストネームをすぐに出してくるなんて、きっと記憶力が良いのだろう。
教本も使い込んでいそうだし、あるいは相当な努力家なのかもしれない。
美人で努力家。非の打ち所がないじゃないか。フォルの女性を見る目は確かだ。
あぁ、向き合うほどに焦ってしまう。心が黒いインクで塗り潰されていく。それを蹴散らすように、カノラは勢いよくノートを開いた。
「えっと……んん?」
真っ白なページを開いたつもりが、そこには貴族令息の名前がずらりと並んでいた。超達筆だ。
視線を下部まで持っていき、さらに往復させて一番上まで戻る。『お買い得貴族ランキング秋冬号』という文字が並んでいた。春夏号もあるのだろうか。
表紙を見てみるが、確かにカノラの物だ。はて、こんなことを書いたかなと思い、もう一度ノートを開く。おやおや、二位に知った名前があるではないか。
「一位セイルド・ノルド(金髪黒瞳)、二位ヴィント・スノライン(銀髪碧眼)――あ、五位にお兄ちゃんもいる。ダンテ・スプリング(赤髪碧眼)……やたらカラフルね」
「ぎゃっ!」
小さな悲鳴と共に、そのノートはひったくられた。ふと視線を落とすと、リエータの教本の上にはカノラのノートが置かれている。たまたま同じ表紙のノートを使っていて、いつの間にか入れ替わっていたようだ。
「あたしのノート、見たわよね!?」
リエータはノートを背中に隠しながら詰め寄る。
見ていないと誤魔化すべきだったのかもしれない。でも、そうできるほどカノラの瞬発力は発達していなかった。無言で視線を泳がすと、リエータの目がギッと上がる。
「くっ……鞄から出すんじゃなかったわ……! まさかの二位チャンス到来に、詳細データを見返そうと思って……うっかりした!」
「あ、うん。うっかりするよね」
詳細データも書かれているらしい。すごいデータ収集能力だ。
「あの……二位ってヴィンくんのこと?」
「ええ、そうよ。悪い?」
悪いかどうかはわからないが、それはカノラにとって重要ではない。一番気になるのは。
「リエータさんは、ヴィンくんに恋をしたわけではないってこと? お買い得なだけ?」
リエータは大きく目を見開いた。彼女にとって、カノラの質問は意外なものだった様子。肩にかかった髪を払って、軽く咳払いをしてから答えてくれた。
「良い質問ね。教えてあげる。恋は金の従物よ。お買い得だから好きだし、結婚したい」
「結婚!?」
目の前でバサッとノートが広げられる。
「ヴィント・スノライン。実物は初めて見たけど、さすがよね。隠しきれない将来性、相手の爵位なんて気にしない振る舞い。その全ては、圧倒的に良質な血統! 極太の生家! 実際に見たら感慨もひとしおね」
「えっと、それはお金のはなし? 恋のはなし?」
「お金に恋してる話よ」
「あぁ、うん、そっかぁ。そっちかぁ」
そう。リエータ・サンライトは金にガメツい女だった。損得勘定の覇者は彼女だったのだ。
フォル・ハーベスに塩対応である理由は一つだけ。ハーベス家が太くないから。彼女はそれが全てだと言う。
フォルには可憐でお淑やかに見えているのかもしれないが、実際には図太くしたたか。見る目がなさすぎる。
カノラはもう一度ランキングを見る。フォル・ハーベスの名前はランク外だ。
「フォル様より、うちの兄の方がランキングが上なの? うちは子爵家なのに」
「っかー! これだから生粋のご令嬢はヤダヤダ」
ご令嬢にご令嬢と言われ、戸惑うカノラ。秘密のノートという心の内側を見てしまったら、敬意という壁も壊されてしまった。リエータは超気さくだった。
「スプリング子爵家にはね、金があるのよ」
「うちにお金が!?」
彼女はこくりと頷き、金を語りはじめた。美しい指が一本立てられる。
「まず一つめ。ご当主様、あなたの父親はずば抜けて商売上手なの。新鋭の画家たち――有名どころだとアノニマスとかね。早くから彼らを囲って、売買契約を結んでいる」
二本目の指が立てられる。
「次々と契約を結べる基盤こそが、画家のアゼイ・スプリングよ。王族にもファンがいて、絵画の価値は天井知らず。そのほとんどの所有権はスプリング家にあって、ほぼ貸し出しのみ。貸与料だけで貴族三家は養えるはずよ」
さらにもう一本、指が立つ。
「そして、嫡男のダンテ・スプリング。奔放ではあるものの、コミュニケーション能力がずば抜けてる。ランキング入りのほぼ全員と仲良し。とりわけヴィント・スノラインが親友と公言するのは彼くらいでしょ? 将来性ありまくりよね」
「すごいしゃべるね」
爵位だけでなく、全てを加味した貴族ランキング。そのトップテンの男性と婚姻するのが、彼女の目標。伯爵位とはいえフォル・ハーベスなどお呼びでないらしい。
「あたしはヴィント・スノラインを落とす! それが我がサンライト男爵家が返り咲く唯一の道だもの」
「へ、へー……? でも、ヴィンくんって伯爵家の割には、ちょっと変だよ? 恋愛に興味なさそうだし……趣味とか中身をよく知ってからじゃないと難しいかも」
「ふふん、舐めてもらっちゃあ困るわ。趣味は絵画ってところね。爪の先に絵の具が染みこんでたもの」
彼はアノニマスであることを公表していないだけで、絵画趣味は隠していない。
ところが、毎日のように美術準備室に入り浸っているのに、それすらほとんど知られていないようだった。カノラの周囲には彼に憧れる女子生徒もいるが、誰も気づいていない。そういう男なのだ。
よく気づいたなぁと、リエータの観察眼に感心してしまう。
「趣味なんてどうでもいいわ。変な絵を描いてるわけじゃないんでしょ?」
変な絵ばかり描いているが。
「うーん、この前は『墓穴から黒いぶよぶよした生き物が出てきて街を支配していく』って感じの凶悪な絵を描いてたかな。闇が深そうで……準備室の空気が呪われてた」
その絵には、No.72【死に物狂い】と題がつけられていた。カノラはひっそりと引いた。
「浅い闇ね」リエータはにこりと笑う。「金があれば気にならないわ」
「へー、闇が深いね」
ここまで価値観がはっきりしているなら、フォルはリエータの気を引こうと躍起になるよりも、ハーベス家を盛り立てることに全力投球する方が早そうだ。
逆手に取れば、仮にヴィントがリエータを拒否したとしても、一位のなんちゃら様と接点を作ってしまえばいい。たしか、兄と同じクラスの留学生だったはず。
お手頃なところで五位の兄ダンテを紹介してもいいかも。美人に弱いし。
この情報をすぐにヴィントに伝えなければ。そう思ったところで、リエータが隣の席に移動してくる。
笑ってない笑顔で「カノラさぁん?」と囁かれた。美人のスマイルは、なんとも迫力がある。
「今聞いたことを誰かに話したら、あなたの大好きなフォル・ハーベスを誘惑しちゃうかも」
「ひっ……!」
「誰にも内緒よ?」
カノラの恋心もフォルの恋心も、全てバレている様子。ひたすら首を縦に振るしかできなかった。




