No.05 はじめてのデート
フォルに護衛をしてもらうという作戦。ヴィントが勝手に立案したものだが、カノラは騙している気分にはならなかった。嘘ではないからだ。
実際、同級生や先輩からひどい嫌がらせを受けることがある。秋のコンクールが近づくと、音楽科の生徒たちの嫉妬心に火がつくのだろう。
一番怖かったのは、校舎の階段を下りていたときに背後から突き落とされたこと。あの浮遊感は今でも身体が覚えている。一年前の秋のことだ。
偶然にも、その階下にいたのがフォル・ハーベスだった。まるで舞い落ちる雪を手のひらで受け止めるかのように、落ちてきたカノラを軽く抱きとめてくれた。
突き落とされたことを伝えると、彼は颯爽と犯人を追いかけた。取り逃がしたと言っていたが、その翌週、音楽科の生徒が退学処分に。偶然とは思えなかった。
どうやら学園側への説明や後処理など、すべてフォルが引き受けてくれたようだった。
彼を目で追うようになったのは、それがきっかけだ。そわそわと落ち着かないのに不思議と楽しい。近づくだけで緊張で身体が固まるのに、心は綿毛みたいにふわふわと舞っている。
鈍感だったと思う。美術準備室の窓ガラスに映った自分の顔を見て、ようやく気付いた。
あぁ、人々はこれを恋と呼んでいるのだと。
初めて抱えた謎の感情に、恋という名前が付いた瞬間の解放感。
絵の具の比ではないほど日常がカラフルになった。水色の空はもっと青を濃くし、茶色の枯れ葉も雪のように美しく見えた。
恋に落ちると言うとひどく直線的に聞こえるが、まさにその言葉がぴったり。
でも、接点があるわけでもないし、話しかける勇気もない。
一度だけお礼の菓子折りを渡したが、彼にとって人助けは日常的なものなのか、カノラの顔を見てもいまいちピンと来ない様子で受け取ってくれただけ。
勇気は萎んでしまい、そこからは本当に見ているだけの恋。彼には婚約者がいないとか、男だらけの騎士科所属だとか、そういう安心材料をひたすら蓄える。そんな一方的な片思い。
当時はいかにオシャレな菓子折りを選ぶかばかり考えていたけれど、例えば食事に誘うとか、次に繋がるようなお礼をすればよかったのに。
カノラがその失敗に気づいたのは、ヴィントに助言をもらうようになってからだ。それくらい不器用だった。
だから、こんな風にフォルと二人で並んで街を歩けるだなんて思いもしなかった。
―― わたし、フォル様の隣を、歩いているわ!
右を見れば店が立ち並ぶステキな街並み、左を見れば素敵なフォル。ここが天国か。
「はぁ。わたし、もう死んでもいいかも……」
「そんなに思い悩んでいるんですか!? それは大変だ」
「え? 悩んではいますが、大変ではないです。力がみなぎります」
「ははぁ……意外と好戦的なんですね。実際、どんな嫌がらせを受けているんですか?」
嫌がらせ。カノラはハッと我に返る。そうだ、そんな話だった。慌てて嫌がらせの被害を思い出す。楽譜を盗まれたり、楽器を壊されそうになったり。
「それから……階段から突き落とされたこともあります!」
それをフォルに助けてもらったと言いたかった。でも、彼に思い出してほしくて、じっと見つめるだけの乙女心。
フォルは眉をひそめるだけだった。乙女爆弾は不発に終わる。
「階段から突き落とすなど、卑劣極まりない」
いつもより低い声色。彼が怒っていることが伝わってきて、胸の奥がつんとする。
「ヴィント先輩からは音楽科のコンクール終了まで、できる限り護衛をしてほしいと言われていますが……ご両親に相談して、従者とともに行動した方がいいかもしれませんね」
「実は、我が家にはちゃんとした従者がいないんです。それに両親は心配症でして、事が大きくなってしまうかも」
「コンクールを辞退することになりかねない、とか?」
明後日の方向を見ながら御令嬢の微笑みで濁す。根ほり葉ほり聞かれてしまうとボロが出そうだ。話をそらそう。
しかし、こういうときに限って話題が浮かばない。そのまま沈黙が流れること七十三秒。カノラは迷わず挙手をする。
「わたし、お化粧室に行ってまいります」
一度、目の前の店に入って、裏側から退店。フォルの目を盗んで後方に移動する。
「ヴィンくん……っ!」
「ヘルプ出すの早くない?」
先ほどまで手ぶらだったヴィントは、美味しそうなクッキーを持っていた。
「もしかして普通に街歩きを楽しんでます?」
「まあ、普通に。前に一緒に来たとき、カノちゃんががぶ飲みしてた紅茶を覚えてる? その紅茶クッキーが売ってたんだ」
差し出されたそれを無遠慮に受け取り、がぶっと食べる。あぁ、好きな香りだ。
「はーぁ、もうダメ、助けて。息をするのも難しい……」
「息をするのをやめたら、いかに自分の鼻息が荒いか自覚できると思うけど?」
「辛辣ですね」
「荒療治だよ」
荒すぎるな、とカノラは深いため息を吐く。あらら、なんかちょっと呼吸が楽になったかも。
「ほら、もう少しで楽器店に着くから頑張って」
今日はヴァイオリンのメンテナンスのために街に出ている。がんばりますと言って、カノラは前髪を整えた。
「髪型、変じゃない?」
「大丈夫、可愛い」彼は髪飾りを直してくれる。
「でも、あまり俺のところに来ないように。トイレが近い子だと思われるよ」
「最悪のレッテルですね」
カノラが戻ると、フォルは店の前できょろきょろと周囲をうかがっていた。
「フォル様、お待たせしました」
「いえ、周囲を警戒していましたが、大丈夫なようですね。今のところ尾行もいませんよ」
ヴィントが尾行しているが。
彼が聞いたら、とんだ鈍感騎士だと小馬鹿にしていたかもしれない。
そろりと後ろを確認すると、先ほどよりも距離があるのか、彼は豆粒くらい小さくなっていた。銀髪はやたら目立つ。でも、周囲に溶け込んでいる。不思議な人だなと思う。
「この角を曲がったところに、わたしがお世話になっている楽器店があるんです」
「そうですか!」
あからさまに顔をゆるませるフォル。二人でいるのがイヤなのか、それとも護衛として肩の荷が降りただけなのか。なぜ恋はこんなに難しいのだろう。
「確かコンクールは二か月先ですよね。曲目は決まっているんですか?」フォルは足を止めずに尋ねる。
「ええ。ヴァイオリン協奏曲第一番ヘ長調『恋祝福』作品一、という曲目なんですが……」
呪文のような曲名を伝えてみるが、フォルは音楽に明るくないらしい。首を傾げていた。
「ふふっ、こんな曲です。らららら、らーらら、らんらんらら~♪」
「ああ! 知っています!」
曲の出だしですぐに分かったフォル。今度は、カノラが首を傾げる番だった。
「あまり有名ではないのに、よくご存じですね」
「毎日中庭で素振りをしているのですが、最近その曲が聞こえてくるんです」
フォルは苦笑いで教えてくれた。上手くいかなくてガッカリする日は、素振りをやめて帰ろうかなと怠け心が出てくるそうだ。
「でも、どこかで練習を頑張ってる人がいると、僕も頑張ろうと思えたりして……最近の活力です。カノラ嬢の音だったんですね」
少し恥ずかしそうに笑う彼を見た瞬間、まるで無重力。心が空高く昇っていった。
―― 奇跡みたい……!
ただの一方通行の恋だと思っていたのに、少しだけ、ほんのわずかだけでも通い合う部分があったのだ。
楽器店の可愛らしい扉が開かれる。チリリンと鳴ったドアベルは、カノラの恋を祝福してくれているように思えた。
楽器店の外では、ヴィントがその閉じられた扉を見つめていた。
紅茶のクッキーを一口かじって、どうにか飲み込む。
「……大丈夫、上手くいく。次は――”あの子”と、どう戦わせるか」
勝つのは誰かな。彼は小さく呟いて、扉から視線を外した。




