No.04 恋は沈殿物
カノラは美術準備室の窓辺に座り、十代男子の二人が話している姿を観察していた。
「どんな話をしてるのかしら。すごくキリッとした顔をしてる。きっと真面目な話ね」
彼女の周囲にいる男性は、実兄のダンテくらいだ。兄は胸だの肉だの下品な話ばかり口にする。きっと兄とは違うのね、とカノラは胸をときめかせる。
「ただいま」
「ヴィンくん、おかえりなさい! 今日はどうでしたか!? 怪我してない?」
アルコールと脱脂綿をサッと取り出す。この数日、ヴィントはあっちこっちに擦り傷を作っていた。
「ははっ、今日は大丈夫。アルコールの蓋は閉めようね。絵にかかったら消えちゃうから」
彼はそう言って、カノラの手から瓶を取り上げる。
「それにしても、カノ犬も毎日よく待っていられるよね。ヒマなの? 宿題はやった? 今日は何も盗んでない?」
「人聞きの悪い。まるでわたしが犯人かのような物言いですね」
真実、木剣を盗んだのはヴィントだ。
「わたしは言われた通りに隠しただけ! まさかフォル様の木剣だなんて思いもしなかった……」
「え? 誰の木剣か知らずに隠したの? 酷い子だね」
ぐうの音も出ない。でも、急に渡されて『早くこれを隠して』と言われたらそうしちゃうでしょうよ。
「好きな人の持ち物を隠すなんて最悪の女じゃないですか……」
「どうかな。悪い行いが、必ずしも悪い結果を招くとは限らない」
言葉とは裏腹に、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「ほら、忠犬カノにご褒美のミルクを持ってきたよ」
差し出されたのは、カフェテリアで売られている牛乳瓶だ。
「ありがとうございます……? なぜ牛乳?」
「まぁまぁ、とにかくがむしゃらに飲んでよ。微力ながら、微力なものが育つように願いをかけておいたよ。これくらいしかやってあげられなくてごめん」
「わけわかんないですね」
せっかくいただいたのだから遠慮なく。ぐびぐび、と飲み干した。
「ごちそうさまです。で、今日のフォル様はどんな塩梅でした?」
「とりあえず、カノが目指すべき理想像は把握したよ」
「さすが仕事が早い! へなちょこブンブンしてるだけじゃなかったんですね」
「俺の必死の素振りをへなちょこブンブンって呼ぶのやめてくれる?」
頭を使うより筋力でどうにかなることが多いならもっと鍛えておいたけどね、なんてヴィントはそれらしいことを言う。彼が愛用している絵筆に聞いたら首を傾げられてしまうだろう。カノラの知る限り、ほぼ握りっぱなしだ。
「でも、問題があってさ。理想と現実がとてもかけ離れてるんだよ」
悩ましいのか、彼は小さく首を振る。
制服のリボンが曲がっていたようで、きちんと直してくれる面倒見の良さ。なにやらリボンらへんをじーっと見られているような気もするが。
「理想と現実の差って、どれくらいあるんですか?」
「大海とワイン一杯くらいの差」
カノラは想像する。青い海と赤いワイン。
「それって、どちらが理想なのかしら?」
「良い質問だね。俺は泳ぐのが嫌いだからワイン一杯の方がうれしい。でも、フォルくんは大海で泳ぎたい人なんだよ」
「絶望的ということですね……」
たしかに彼は泳ぎも得意そうだ。理想が遠すぎて、涙腺はすでに降参。それが流れ出す前に、ヴィントに鼻をつままれた。
「ぶっ」
「早とちりの泣き虫カノラ。次の手は打ってきたから大丈夫。俺がカノをお姫様にしてあげるから」
彼は王子様のような微笑みを浮かべていた。胡散臭い笑顔だ。
ちゃらんぽらん絵描きのヴィントにとって剣技は不要のはずだ。なぜ剣なんて習うのかと、カノラは疑問に思っていた。
それでも毎日元気にへなちょこブンブンしていたのには理由がある、とヴィントは話を続けた。
役割が人を作るという言葉があるらしい。
例えば、一般人に看守役と囚人役を与えてみると、各々は役割に応じた働きをしはじめる。囚人は萎縮し、看守は囚人をいじめる。カノラも調べてみたが、少し眉唾な話ではあった。
でも――もし本当なら、役割が愛を作る、なんてこともあるのかもしれない。
誰かを頼っているうちにその人なしでは生きられなくなり、いつのまにか信頼が恋愛に置き換わっていたり。政略結婚の相手なのに最後はずぶずぶに愛してしまう物語も、これの一例なのかもしれない。
聞けば聞くほど、ヴィントの話は正しい気がしてしまう。
帰宅後、彼の勧めで『堅物騎士がお姫様を守った末に恋愛感情を抱く物語』を読み、カノラはこれだと確信した。
翌日。彼女はフォルの前に立っていた。今までの人生で最大の波が心臓を揺らしている。死にそうだ。
「というわけで、フォルくんに紹介するね。この子がカノラだよ。へなちょこブンブンの俺の代わりに、専属騎士になって守り抜いてほしいんだ」
「は、はい。かのらしゅぷりんぐです。よろしくおねがいしまし」
「うん、噛み噛みだね。最高だね」
急激に顔が熱くなる。あんなに練習したのに!
「存じてますよ。音楽科のスプリング子爵令嬢ですよね。騎士科のフォル・ハーベスです」
「ハーベス様が、わたしのことを、知ってらっしゃる!? もしかして、あのことを覚えて……?」
フォルはにこりと微笑んでくれた。
「芸術学の講義でお会いしますよね。人数が少ないので、受講者の顔はよく覚えています」
「あ、そっちのことでしたか」
期待した分、がっかりしてしまう。彼女にとって、フォルとの出会いは絵に描いたような運命的なものなのに。だが、フォルはなにも覚えていない様子で話を続ける。
「ヴィント先輩が剣の稽古を受けていた理由が、貴女を守るためだったなんて……。イヤがらせを受けていると聞いてます。護衛は少し畑違いではありますが、先輩の代わりに僕が尽力いたします」
「よ、よろしくおねがいします」
カノラがもじもじしていると、ヴィントが二人の距離を近づけるような世話をいくつか焼いてくれる。名前を呼び合うとか、エスコートの仕方とか。
それを終えて――彼はそっと離れていった。
「ちょっとヴィンくん、どこ行くの?」
いきなり二人にしないでと、カノラは小声で訴える。振り向いた彼は、眉をひそめていた。
「あのさぁ、二人きりにもなれない男と恋人になれるとでも?」
「う、正論ですね……」
「好きな人と二人きりで過ごせるなんて、すごく幸せな時間だよ? 自由に浮かべて、あったかくて、ずっと浸かっていたいと思うような――」そこで彼は指を立てた。
「あぁ、そうだ。風呂に似てる。入浴感覚でデートしてみよう」
「入浴感覚」
例えが分かりにくい上に、応援の仕方が特殊すぎる。わけがわからないまま放置されては困る。カノラは離すものかと裾を掴む手に力を入れた。
しかし、その手は彼に取り上げられてしまった。
「せっかく約束を取り付けてきたんだから、フォル・ハーベスにアピールしないと。そのために服も化粧も完璧にしたんだよね?」
「でも……胸がぎゅうっとするんだもの。人生初デートですよ? 緊張で吐きそう。そもそもこの服、わたしに似合ってませんよね」
舞踏会でもないのに露出度が高め。胸元はひらひらとした布が層になっているため温かいが、初秋にこの格好は肌寒い。ヒールだっていつもより高い。
「正直なところ、フワフワしたお花畑みたいな服の方がカノには似合う。――でも、それじゃあ戦えない」
どこか、言い聞かせるような口調だった。
「恋はガマンだよ。これがフォルくんの趣味なんだからさ」
「これが!?」
フォルの意中の女子生徒・リエータ的ファッションということだろう。
ヴィントがここまでしてくれたのだから、頑張らないといけない。でも、ヒールの先がフォルの方を向いてくれない。カノラは心臓を抑えて、深呼吸を繰り返す。
「……はいはい、わかった。まったくスプリングさん家のカノラちゃんは甘えん坊だなぁ。うしろから見守っててあげるから、なにかあったらトイレに行くフリをして戻っておいで。ファイトだよ、カノ」
「やさしい……うん、ありがとうヴィンくん」
視線を合わせ、手を重ね合う。エイエイオーと小さな円陣を組んだ後、ぴったり三秒。彼の手が放れていった。




