No.02 イソギンチャクの毒
「片思いが実るように、俺も願ってる。――頑張ってね」
ヴィントは穏やかな声でそう言った。カノラの中で、何かが湧き上がってくる。頑張りたい。
でも、具体的にどうすれば良いのだろう。
そこで美しい銀髪が視界に入り、急に開ける。なぜ、今までこの人を頼ろうと思わなかったのか。
「……ねぇ、ヴィンくん。アドバイスしてくれませんか? 人生三周目ですーみたいな顔してるし、恋愛も得意そうですよね」
「まさか。恋愛は門外漢だよ」
彼は小さく笑うだけで、こちらを向いてくれない。
「そんなこと言っちゃって。お兄ちゃんの恋愛がやたら上手くいくのも、ヴィンくんのおかげだって知ってますよ」
「ダンの恋愛は半年も続かないけど?」
「半年でもいいから恋人になりたいんです」
手を組んでお願いをしてみるが、彼は首を横に振った。
「カノ。これ以上は、クマノミとイソギンチャクだよ」
「……なるほど。わかってますとも」
イソギンチャクは身を守るために毒を持つが、クマノミにはそれが効かない。クマノミはイソギンチャクのそばにいて、外敵から守ってもらっているのだ。
お礼として、クマノミは一生懸命に泳いで新鮮な海水をイソギンチャクに送り続ける。まさに共生――ギブアンドテイクだ。
以前、ヴィントの勧めで読んだ本の内容だ。読後、カノラはこの関係を少しうらやましいと思った。
彼は軽く笑って、手のひらを見せてくる。
「じゃあ、訊こうかな。俺はイソギンチャク。クマノミのカノラは何をくれるの?」
そこでハッと気付く。彼の欲しいものが、わからない。いつだって、のらりくらり。彼は自分のことをあまり語らない。
「えっと……一つだけ言うことを聞くっていうのはどうですか……?」
カノラが差し出せるものはこれくらいだった。
ヴィントは一瞬だけ動きを止め、カノラをじっと見る。アイスブルーの瞳が、わずかに熱を帯びて揺れた。
「じゃあ――聞いてもらおうかな。俺からの協力を諦めてほしい」そう言って、口の端をあげる。
「カノちゃん。俺に見返りを求められた時点で、断られたと思った方がいいよ」
カラカラぴしゃり。目の前で、窓は閉められてしまった。『きみには俺が欲しいものなんて差し出せない』彼にそう言われているのだ。カノラは少し唇を噛んだ。
ヴィント・スノラインは難攻不落だ。出会って二年半ほど経つが、彼に口で勝てたことは一度もない。
なにか糸口があればいいのに。
帰宅後も彼のことを考えてみるが、知っていることは三つだけ。伯爵令息であること、兄の親友であること。
そして、絵ばかり描いていること。
それは趣味に留まらず、『アノニマス』という筆名を使い、身分を隠したまま活躍している。
休日もカノラの家――スプリング子爵家のアトリエに入り浸りだし……。
「……そう、そうでした! 奥の手があります」
翌日の放課後。美術準備室の扉を開けると同時に、カノラはそう言った。
「お疲れさま。諦めない子だね。もう奥義を出すの?」
「まさに一子相伝の奥義。私はクマノミ。イソギンチャクのヴィンくんには【海水】をあげます」
【海水】とは、海水のことではない。
カノラの祖父、画家アゼイ・スプリングの未発表作。ヴィントが愛してやまない、絵画四連作の一枚だ。
奔放な兄ダンテのやらかしのせいで、この度、その所有権がカノラに回ってきたのだ。
「ふーん? 四枚すべて、カノラが所有してるのかぁ」
四連作の名前を出した途端、ヴィントの雰囲気が変わる。彼は満更でもなさそうに、笑みを浮かべていた。
「それは模写ではなく【海水】の現物をくれるんだよね?」
「もちろん。そもそもおじい様の四連作は門外不出。模写も厳禁ですから」
今、他国でアゼイの贋作が多く出回っていると聞く。ヴィントが気にしているのはそれだろう。
「いいよ。交渉成立」
「本当!?」
ヴィントは絵筆を持ち、紙に文字を書きはじめた。
「フォル・ハーベスとの恋に協力する代わりに、絵画【海水】の権利書を俺がもらう」
「これは契約書?」
「うん、口約束は信じないし守らない主義だから」
「最低なしっかり者ですね」
大丈夫だろうか、と目を細めてしまう。契約書の効力はどれほどあるのか試したくなる。
「えっと、じゃあ……わたしの話、聞いてくれますか?」
「――いくらでも、どうぞ?」
ヴィントは片眉をあげ、隣に置いてあった椅子に視線を向けてくれた。座ってみると、不思議と気持ちが穏やかになる。ひなたぼっこをしているみたい。
そう言えば……これまで、彼とは下らない会話しかしてこなかった。こうして向き合って初めて気付かされる。自然と心の内側を垂れ流してしまうのだ。彼には、そうさせる何かがあるのだろう。
「――それでね、フォル様って浮ついたところが一つもなくて、すごく素敵なんです。毎日、鍛練も欠かさないし……あ、差し入れをする作戦もいいかも。どう思います?」
「よく感情を垂れ流す口だなって思う」
「聞き流すのやめてもらえます?」
いくらでもどうぞ、と言ってくれたのは何だったのか。心の内側を見せたところで、彼の青い瞳は冷たいまま。話をしている最中も、絵筆は離さない。
「ヴィンくん?」
「んー? 差し入れ作戦は、まだ早いかな」
「あ、ちゃんと聞いてたんですね」
不安になっていたカノラを察してか、彼は契約書を指で弾いた。
「大丈夫、本気でやるよ。まずは――敵を知る必要があるか」
敵。敵とは誰だろうか。フォル・ハーベスを射止めた女子生徒が脳裏を過る。
制服のリボンからして、カノラと同じ二学年だろう。美人でスタイルも良さそうだった。むむう、敵を知ったら爆死してしまいそう。
しかし、ヴィントはこう言った。
「一つ目の作戦。俺がフォル・ハーベスと友達になる」
そこで、彼は絵筆を置く。描かれているのは、猫と魚だ。何もない空間に寝転ぶ二匹。手を繋いでいるみたいに、触れ合っている。
「わぁ、かわいい。芝生でひなたぼっこ? でも魚が可哀想ですね」
「カノラは魚の方を殺したんだね」
「え?」
共存できない二匹。ヴィントは絵の上で指を滑らせる。
もう一度、絵筆を握り、彼はNo.70【相容れない、二つの存在】とタイトルを入れた。




