No.15 脈をかき鳴らす
「……却下」
そう言って、そっぽを向くのはヴィントだ。カノラはそこに回り込み、食い下がる。
急に帰宅してしまったヴィントは、翌々日の昼前にまたスプリング家に訪れた。それからずーっと押し問答だ。
「夜の酒場にポイっと投げ入れてリエータさんを一人にするなんて、わたしは反対! これは我が家の問題なんだから、わたしがやるべきです」
「だめ。画家フークリンは美人が好きなんだよ。一般的に、カノちゃんはその枠に入らない」
「それはわかってる。じゃあ、せめて同席させて!」
またそっぽを向かれたので、ぐいぐいと覗き込む。やっと覗いたアイスブルーの瞳は、ひどく鋭かった。
「サンライトの子は簡単に了承してくれたよ。平民の頃はずいぶん夜遊びしてたみたいだし、慣れてるから大丈夫だってさ」
「え、夜遊び? 知らなかった」
いつの間に交渉したのやら。
彼は調合器具をくるりと回す。
「ダンに見守らせるから心配ない。カノは俺とお留守番」
「……それでも、やっぱりダメ」
ワガママだなぁと呟いて、彼は鉱石をすりつぶす。絵の具の調合だ。
ただ石と石がぶつかり合う音であっても、種類や粒度によって音階は変わっていく。カノラの耳は、その音を零すことなく拾い上げる。明るいド、少しくぐもったミ、掠れたソ……重く低いレ。
「あ、またおじいちゃんの調合の音に似てますね。最後が少し惜しいって感じ」
「その耳、他の使い道を探した方がいいんじゃないの?」
「思い浮かびませんね」
すり潰して、溶かして、ヴィントは出来立ての絵の具で描き始めた。良い黄色だ。
「せっかくの休日なんだから、カノちゃんのヴァイオリンが聴きたい。そのためにスプリング家に描きに来てるようなもんだし。秋っぽい豊かな曲をお願いしようかな」
「いいえ、話を戻します。聞いてくれないなら、黙って酒場にいくから」
「はい、ダウト。スプリング家には優秀な使用人がいるからね。猫とネズミもびっくりの追いかけっこをしてくれるんだっけ? 筋肉痛にご注意を」
ぐぬぬ……口では勝てない。カノラは反論できずに黙り込む。その通りだからだ。
十八歳未満は夜遊び厳禁。スプリングの家のラブアンドピースは、セーフティーの上に成り立つ。
兄ダンテはすでに十八歳だが、菜の花持ち出し事件が起きて以降は両親の目が厳しくなっている。
しかし、両親も使用人も、ヴィントに絶大な信頼を置いている。兄が遊びにいくときは『ヴィンと一緒だから!』と嘘をつくことで監視をかいくぐっているのを、カノラはよーく知っていた。
黙って酒場に行くことは難しいが、保護者にヴィントがつけば、両親もすんなり承諾してくれるはずなのに。
「ねぇ、ヴィンくん?」
「カノの音がないと、筆は進まないし、聞く気も起きない」
「もう……そうですか。はいはいわかりました!」
カノラはふーっと息を吐く。持っていたヴァイオリンを鎖骨に乗せ、弦に指を落とす。
しかし、そこで気が変わった。
指を滑らせてネックを短く持ち、出だしからE線を震わせる。泣いているかのような、か細い高音がアトリエに響く。
意図が伝わったらしく、ヴィントはしかめっ面。つい、ふふっと笑ってしまう。
吐いた息を吸い込んで、腕を動かし始める。心のままに、曲を作り上げていく。
窓の外には木の葉が散らばり、風と遊んでいる。固いはずの地面も、ゆるやかな陽だまりに照らされてふかふかに見える。ついつい飛び込みたくなってしまうほどのぬくもり。これぞ秋だ。
でも、カノラの音には秋の豊かさなんて欠片も乗せていない。まるで夏の嵐。激しい高音で弾ききってあげた。
「ふぅ、がんばっちゃった。来月のコンクールに向けて、調子上がってますからね。ご満足いただけました?」
「イジワルカノラ。でも……うーん、悔しいことに、不思議なくらいスーッと音が染み込んでいく。本当にいい腕してる」
「いい腕は、ヴァイオリンだけじゃないかも? 男性を落とす手腕もあったりして」
フークリンを釣ることだってできるかも、とカノラは胸を張る。
すると、珍しいことにヴィントの目が泳ぐ。
「あー……なるほどね。はいはい、降参」
彼は絵筆を置いた。絵の具の匂いを纏った白衣を正し、眉を下げる。
「ごめん、ちゃんと話をしようか。まず言いたいことは、カノちゃんは美人でもなんでもないってこと。地味だし、目立たないし、群衆に埋もれる」
「初手から刺してきますね……」
「うん、続けるね。だから、その場にいるだけでサンライトの子の邪魔になる。美人が一人でぽつんといるから作戦になるのであって、カノはいない方がいい。ご理解いただけました?」
「不思議なくらいスーッと言葉が染み込んでいきます。いい腕してますね……」
がっくりと肩を落として俯く。しばらくそのままでいると、彼はよしよしと頭を撫でてくる。くすぐったい。
「……でも、そういうところがカノらしさだよなぁ――仕方ないか」
さっきのヴァイオリンで心が震えたからね、と彼は続けた。
かき鳴らして大正解。喜びを込めてヴァイオリンで五音を鳴らす。『ありがとう~♪』のお礼だ。
ヴィントは笑いながら、スケッチブックににっこりマークを描いて返してくれた。
「よし、決めた。俺も酒場通いに参加する。シンスおじさんには、俺から話を通しておくよ」
頼もしい。ヴィントが味方になれば勝ったも同然。
喜ぶカノラの隣で、彼はトントンと指でテーブルを軽く叩き、何かを考えるように視線を落とす。
そういえば――過去に何度か両親を説得してもらったことがあったけれど、どんな風に話を通してくれているのか。カノラは知らなかった。
「ねぇ、ヴィンくんは今なにを考えてるの? お父さんに伝える内容?」
「うん、まぁ……急にどうしたの?」
「甘えてばかりだから負担かなって。やっぱり自分で言う」
彼は少し目を丸くして、ふわりと笑った。
「大丈夫。だって、カノは友達を守りたいだけだよね? きっと……何かを守るために嘘をつくのは悪いことじゃない。負担に思ったことはないよ」
じゃあ実演ね、とヴィントはペンを持つ。
友達のリエータは春に母親を亡くしたばかり。寂しさからか、彼女は夜の酒場に行くことがあるらしい。心配だし、放っておけない。
そこで、カノラは兄とヴィントに相談をする。無理に夜遊びをやめさせるより、今は見守り、癒してあげるのが一番だ。兄ズも付き添ってくれるから、期間限定で夜の外出を許してほしい。
「こんな感じかな。情報を伏せて順序を入れ替える。カノの優しさは、そのまま素直に伝える」
「わぁ、すごい! 嘘だけど嘘じゃない」
後から知ることだが、年中ラブアンドピースの父親は、友人思いのカノラと妹思いの兄ズにいたく感激することになる。事後報告でも問題はなかった。スノラインってすごい。
ヴィント、ダンテ、カノラ、リエータ(ヴィントが面倒くさがったのでフォルには秘密らしい)。この四名による、画家フークリンとの再会作戦が始まった。




