No.12 溶けてなくなる
サンドイッチを食べ終えてすぐ、カノラたち三人は王城にある絵画品評会を訪ねた。国の登録リストを確認するためだ。
「よし、菜の花に似た絵画の登録は無し。ダンは運が良いね。首の皮一枚、繋がった」
「よかった~!」
スプリング兄妹は手を取り合って喜ぶ。
そんな二人の様子を、頬杖をつきながら眺めるヴィント。日焼けをしていない真っ白な手だ。
「まだ解決してないのに、そんなに喜ぶ?」
とか言いながら、彼の口元も綻んでいる。
「そんなに喜んでくれるなら、次の手も進めようかな」
彼の呟きを拾い、カノラは書類を見ながら尋ねる。
「次の手? サンライト男爵が敵だ、とか言ってた話ですか?」
「その話もあるけど、あっちの話も進めないと」
あっちの話とは何だろうか。書類に落としていた視線を上げると、目の前にヴィントの顔があった。その距離、五センチ――心がざわつく。彼は「恋の話だよ」と耳元で囁いた。
「ぎゃ! いつもに増して近いです」
「残念なくらい男慣れしてないね。俺相手にドキドキしないように」
「ご、ごめんなさい。ちょっとしました」
「えー、迷惑……」
心拍数ですら迷惑と言われるだなんて。
「パーソナルスペースを超えると、好き嫌い関係なく、人は動揺する。次の作戦はボディタッチだよ。大抵の男はそれで舞い上がる」彼は書類をトントンと整える。
カノラの苦手分野だ。想像するだけで肩幅が狭くなってしまう。
「具体的にどこを触れば良いのかもわからないです……」
「男相手なんだから、一カ所を除いてどこでもいいでしょ」呆れ顔とため息。
「カノラはもっと積極的になった方がいい。恋はファイトだよ。最終目標は、フォルくんとの結婚だからね?」
『そして四連作はすべて俺のものに……』なんてゲスい言葉はカノラの耳を素通りし、結婚という言葉が脳内を占めていく。フォルとケッコン。考えただけで気が遠くなる。
でも、もっと近づきたい。またデートのチャンスがあればいいのに。……んん? そうだ、今日がそのフォルデーだった。なのに、気づけばもう夕方。
「って、ヴィンくんのせいじゃない!」
「あ、やっと気付いた?」
書類で口元を隠しながら、彼はごめんごめんと笑っていた。
―― あ、めずらしい
アイスブルーの瞳を細めて、ふにゃっと笑う。普段は見せない子供っぽい笑顔。カノラもつられて書類で口元を隠してしまう。
恋の相談をしはじめて一か月ほど経つが、ヴィント・スノラインの不思議は深まるばかりだ。
スノライン伯爵家が名家であることはカノラも知っているが、それとヴィント本人が……どうにも重ならない。【黙と騙】だとか【素直な殺し屋】だとか、物騒な絵を描く変な男だからだ。
だから――それを肌で感じたのは初めてだった。
先ほど、絵画の登録リストを見せてほしいと申し出たとき、事務官には学生が何の用だと軽くあしらわれてしまった。短気なダンテはキレる寸前。
だが、ヴィントが前に出ると、まるで魔法にかけられたかのように事務官は直立になる。リストの閲覧許可だけでなく、広い部屋まで用意してくれた。ソファもふっかふか。
さらに、翌々日。
サンライト男爵家の応接室でリエータの父親とヴィントが向かい合っているところを見ても、果たして威厳があるのはどちらだろうかと比べてしまう。
それはきっとカノラだけでなく、この場に居合わせているフォルやリエータも同感だろう。
氏より育ちだなんて、口が裂けても言えない。生まれ持った品格があるのだろう、と――。
ヴィントはいつもより少し低い声で話を切り出した。
「サンライト男爵。この絵画について、勝手ながら調べさせてもらいました。大変なご苦労があったようですね」
「スノラインの方のお耳に入るだなんて、お恥ずかしいことです」
テーブルの上には【菜の花】の贋作。それを挟んで、ヴィントと男爵が向かい合う。
サンライト男爵は『画家ドワルコフの真作』だと聞いて購入した、と証言する。確かにカノラの目でみても美しい絵だった。
「いまだに、これが贋作だなんて信じられなくて……」
そう言って俯く男爵。ヴィントは同意するように頷いた。
「確かに、画家ドワルコフのタッチに酷似しています。僕の目から見ても明らかだ」
真っ白な手で、額縁に触れる。
「みんなも知ってるよね? 彼が活躍していたのは約二百年前。さらに、絵の具に含まれる油が揮発する――すなわち、完全に乾くのにかかる時間は五十年だとされている。ドワルコフの時代の絵の具ならば、すでに揮発しているはず」
カノラはすぐに思い至る。先日の芸術学の課題だ。だが、ヴィントの意図まではわからない。
彼は笑みを深める。美しく、危なげな微笑み。カノラは少しだけ鳥肌が立った。
「それなのに、この絵は――欠けている」
ヴィントは持参したアルコールランプを取り出し、絵を照らした。
じっくり見ればわかる。ゆらりと火が揺れる先に、確かに違和感がある。そこだけわずかに絵が途切れているのだ。
フォルもすぐに気付いたようで深く頷く。一方、リエータは首を傾げていた。カノラも絵は素人だが、日常的に絵画に触れる機会があれば判別できるくらいの欠損だ。
「男爵も知ってるはずだ。乾いていない絵画がアルコールに触れれば、溶けてなくなる」
男爵の肩が小さく跳ねる。
ヴィントはランプの火を消した。
「贋作かどうか信じられないなら、確かめればいい」
そして、瓶をひっくり返し、じゃばじゃばと絵に振りかける。
「ちょ、ちょっと! そんなことをしたら、絵が消えてしまう!」
慌てる男爵を無視して、ハンカチでごしごしと拭きはじめる。白いハンカチは黄色と茶色に染まっていき、代わりにごっそりと絵がなくなっていく。
最後、彼は汚れたハンカチをゴミ箱に捨てた。満足そうに頷きながら。
「男爵。あなたは、すでにアルコールで溶けるか試しましたよね。絵の欠けた部分が、その証拠。画家ドワルコフのものではないと知っていながら、それだと偽って売ろうとした」
カノラたちは言葉を失った。要するに、男爵が詐欺を働いたと言っているのだ。
男爵は小刻みに震えながら、首を横に振る。
ヴィントは仕方なさそうに眉を下げ、湯気のない紅茶を一口飲んだ。一仕事終えたかのような落ち着き方だ。
「まあ、僕は詐欺なんてどうでもいいんですけどね」彼は淡々と続ける。
「でも、ハーベス伯爵家はどうだろう。正義の騎士くん?」
ヴィントとは対照的に、フォルの視線は鋭い。騎士のそれだった。
カノラは状況を理解できず、ヴィント、フォル、と順々に様子をうかがう。視線は交錯していたが、目を見れば状況を理解している者と、していない者がすぐにわかる。
フォルとヴィントはいい。だが、理解していないはずのリエータは――彼らと同じ目をしていた。




