No.01 カノラ・スプリング
カノラがフォルに恋をしたのは、ちょうど一年前の秋だった。格好良くて、正義感があって、硬派な騎士のたまご。
しかし一年後の今、彼は他の女性を前にして顔を赤らめている。こんな表情を見るのは初めてだ。
「恋が、はじまってる……!?」
彼女の名前は、カノラ・スプリング。
目の前に広がる王立学園の中庭で、フォルと見知らぬ女子生徒がぶつかった。倒れそうになった彼女を抱きかかえるという、絵画のようなワンシーンを目撃する。
中庭の茂みから見ていても――いや、ずっと見ていたからわかる。フォルは、その女子生徒に一目惚れをしている。
視界がぐにゃりと歪んでいく。こんな茂みで隠れて泣いているカノラの存在を、彼は知るはずもない。ただ見ているだけの片思いだったから。
「……なんで? なんでこうなっちゃうの……?」
誰に問いかけたわけでもないのに、背後から声がした。
「人が理由を求めるのは、なぜ悪いことが起きたときだけなんだろうね」
振り向くと、校舎の掃き出し窓から絵の具まみれのカラフルな手が出ている。
赤、青、黄。指先から手首までまばらに塗られたそれは、パタパタと上下に動かされている。これは……『邪魔だからどいて』という意味だろう。
「ヴィンくん?」
「今日の秋風は波みたいだね。良い秋なのに、カノちゃんがいるから……ほら見てよ」
涙を拭って立ち上がる。
そこは真っ白な壁紙が張られた美術準備室だ。この部屋を私物化しているヴィントが、窓辺に座って絵を描いていた。
どれどれと覗き込めば、中庭の情景がそこに描かれている。
「わぁ、すごく綺麗……んん?」
澄んだ秋空、波のように舞う木の葉、一組の男女。その隅っこにシミみたいな茶色のかたまりが。
カノラは窓に映る自分の姿をじっと見る。どう見ても、腰まである茶色のロングヘアだ。絵と同じ、濁った茶色。再現度が高い。
「迷惑だなぁ。俺の絵にカノラみたいなシミがついちゃった」
「みたいなっていうか、わたしですよね。いやいや、失恋の瞬間をわざわざ絵に残します?」
恥ずかしいやら腹が立つやら。目をつり上げて怒ると、ヴィントはそれを手で制してくる。
「よし、タイトルは『汚点』にしよう。あはは、秀作」
「上手いこと言うのやめてホント」
彼は白の絵の具をベタッと指につけ、茶色のシミを丸で囲う。キャンバス下部に作品No.68【汚点】と書いて完成。不真面目な画家だ。
「カノラ、失恋なんてよくあることだよ。ほら、あの鳥を見てみなよ。雌に逃げられてる」
「……なぐさめるの下手すぎません? じゃあ、ヴィンくんは失恋したときにどうやって立ち直ってるの?」
「え、失恋したことないからわかんない」
「腹立ちますね」
一つ上、三学年のヴィント・スノライン。
彼はとびきり顔が良いわけではないが、学園内で見せる自由で素っ気ない振る舞いと、夜会で見せる貴族然とした甘い微笑み。そのギャップにやられるご令嬢を何人も見てきた。
「銀髪碧眼なんて特別な色で生誕したヴィンくんには分かんないんですよ。平凡で地味なわたしの悲しみなんて……。恋の終わらせ方なんて知らないもの」
「そもそも恋に完全な終わりなんて存在しないんじゃない?」
「残酷」
頭がもたげる。きっと背中の向こう側では、フォル・ハーベスが恋を実らせているのだろう。到底、振り返ることなんてできない。
引っ込んでいた涙がぼろぼろとこぼれる。波のような秋風は、カノラの髪を大きく乱して頬に張り付かせた。気持ち悪くて払いたいのに、腕は上がらない。
「はぁ。まったく、スプリングさん家のカノラちゃんは泣き虫だね。仕方がないから、いいこと教えてあげる」
「……なんですか?」
「汚点は振り返るためにあるんだよ。ほら、まだ間に合うから」
「痛っ。首が痛い」
ゴキッと鳴ってはならない音がして、首に痛みが走る。彼の手によって限界まで首が回され、視界はぐるり。準備室から中庭へと変化する。
目をつむる時間はなかった。カノラの黄色の瞳に、二人の男女の姿が叩きつけられる。
「……えっ!?」
「人間の愛すべき欠陥だよね。脳が作り上げたものと現実のそれとでは、どうしても前者の方が美しくなってしまう。どう?」
「眉間のしわがすごい」
「雌の鳥に逃げられているのは、彼の方だったね」
そう言って、ヴィントは筆をくるりと回して彼らを指した。女子生徒はひどいしかめっ面。始まっていたのは、フォルの片思いだ。
「どうする? カノラも諦める?」
「……わたし、諦めたくない」
耳元で囁かれる言葉と絵の具のにおいが混ざって、胸がつんとする。
木の葉を蹴散らし、カノラは決める。一度の深い後悔は、時に勇気と動機をもたらすのだ。
「好きな人が恋する瞬間を見ても諦められないんだから、この恋は終われません!」
このとき振り返らなければ――いや、もう一度振り返ればよかったと、のちに何度も思うことになる。
でも、カノラは振り返らない。
彼女の後ろ髪に触れようとして、すぐに引っ込められたカラフルな手。
カノラに恋をしている彼のことを何も知らないまま、前だけを向いていた。
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