19:王子様とうっかり忘れられたネズミ
シンと静まった城の庭を、王子は何も言わずにただ眺めていた。
突如バルコニーに現れた人物は間違いなく手摺から下へを飛び降りていった。普通の人間ならば負傷どころか命を落としてしまう高さ。だというのに眼下にその姿は無く、残されたのは眩い輝きだけ……。
その光が緩やかに舞い上がり次第に消えていく様の美しさと言ったらない。自室のバルコニーから見える景色はとうに見飽きていたが、今だけは魅入ってしまう。
だがふと『チュウ』と高い音が聞こえるとはっと我に返り、バルコニーの隅に視線をやった。
ネズミが一匹、バルコニーの隅に身を寄せている。
あの不思議な人物が連れていた白毛のネズミではない。茶色の毛の、いかにもな色味のネズミだ。常に綺麗に磨き上げられた王城の、それも王子の私室には到底いるはずのないネズミである。
「毛色は違うけど、さっきのネズミの一匹かな。置いていかれたのかい?」
試しにと問いかければ、ネズミがコクリと頷いた。
次いで手摺の隙間から外を見て、今度はこちらを見上げてくる。その際にあがったチュウゥゥというやたらと長い鳴き声はまるで溜息のようではないか。
冗談交じりに「酷い話だね」と告げれば、今度は不満たっぷりのヂュウ!という鳴き声が返ってきた。小さな後ろ足でタタンタタンと足踏みをするのは怒りを訴えているのだろう。
話が通じている。
このネズミはこちらの話を理解し、そしてこちらに自分の意志を伝えようとしている。
不思議な話だが自然と受け入れてしまう。驚きもしなければ恐怖もない。ストンと胸の内に落ちて納得してしまうのだから、これもまた不思議な話ではないか。何から何まで不思議過ぎて逆に冷静になれているのか。
「ネズミとはいえ城を出るのは大変だろうし、外に連れ出してあげるよ。そこからは帰れるかい?」
大丈夫かと問えば、ネズミがチュッ! と鳴き声をあげた。
先程の不満たっぷりな鳴き声とは違う力強い声だ。これは「大丈夫」という返事と考えて間違いないだろう。
さっそくと王子はネズミに片手を差し出し……、だがふと考えると出しかけた手を引っ込めた。
「箱か籠を持ってくるよ。……いや、別に衛生面が気になったわけじゃなくて、ほら、人目につくとまずいからね」
待ってて、と一言告げて室内へと戻れば、背後からヂュウゥウという怒気を孕んだ鳴き声が聞こえてきた。
ネズミにはフルーツが盛られていた籠に入ってもらい、城の外へと運び出す。
衛生面を気にしてしまったお詫びに苺を一つあげると嬉しそうに食べ出した。どうやら怒りは収まったようだ。
「君はあの子と……、あの不思議なローブの人と仲が良いのかい?」
問えば、イチゴを食べていたネズミが顔を上げた。
丸い瞳がじっと見つめてくる。チュッと高い鳴き声は返事だと分かるが、生憎と詳細までは分からない。
だがきっと仲が良いのだろう。確信は無いが、そうだと決めて話を続けることにした。
「不思議な子……、いや、不思議な人かな。とにかく凄く魅力的だ。もしもあの子のところに帰るなら羨ましいな」
ネズミに話しかけるなんてこれもまた不思議だ。普段ならば絶対にしないだろう。
だがやはり通じている気がしてならない。現にネズミは手にしている苺を食べようともせず見上げており、その瞳は真っすぐにこちらを見つめているのだ。
そんなネズミを連れて城を出て、門へと向かう。
当然だが門には警備が立っており、不審な気配は無いかと周囲を警戒している。門の左右に一人ずつ、更に門の外にも数人いるのだから徹底している。
ここを気付かれずに通るのはネズミにも無理だろう。ローブを纏った者ならば尚更、通り抜けられるわけがない。……姿を消さない限り。
「王子、どうなさいましたか!」
警備の一人が突如現れた王子に目を目を丸くさせ、何か城で事件でも起こったのかと一人が慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫、問題はない。ネズミを見つけたから逃がしにきたんだ」
「……ネズミですか」
警備の視線が籠の中へと向かう。そこには苺を食べるネズミが一匹。
「門を通してあげてもいいかな」
「は、はい。もちろんです」
唖然としつつも拒否をする理由も無いと警備が了承し、「こちらへ」と促してくる。不思議そうな表情と声色だ。同僚達に事情を話せば、彼等もまた不思議そうな顔をしている。
「カボチャで人探しをしたかと思えば、突然夜中にネズミを逃がす……。あの子ほどじゃないけど、僕もだいぶ不思議なことをしてるね」
楽しくなって思わず笑いながら王子が話せば、籠の中のネズミがチュッと高く鳴いた。これはきっと賛同しているのだ。
次いでネズミは身軽に籠から抜け出すと華麗に地面に着地した。
どうやら門までの見送りは不要らしい。くるりとこちらを振り返って見つめてくる黒い瞳は別れの言葉を告げているのか。
「『ちゃんとガラスの靴を使って探すよ』って伝えておいてくれるかな」
託すように告げれば、ネズミがまたも高い鳴き声を上げた。
そうして走り出せば、あっという間に門を抜けていく。今度は振り返ることなく。その素早さは流石ネズミだ。小ささもあってか門を抜けるとすぐさま姿が見えなくなってしまった。
残された王子は不思議と晴れやかな気持ちになり、夜の空気を深く吸い込んでぐっと背を伸ばした。
「さぁ、明日から忙しくなるぞ」
誰ともなく話し、警備達に部屋に戻ると告げて来た道を帰った。
「……本当にネズミだったな」
「あぁ、ネズミだ」
という警備の声が微かに聞こえてきて、これには思わず笑ってしまった。
◆◆◆
「ごめんね、今度からちゃんと帰る前に点呼とるよ」
そうシンシアがネズミに謝罪をしたのは、深夜と明け方の狭間。
熟睡していたところをネズミの鳴き声で起こされ、置いて帰ったことを詰められて今に至る。
『次に僕達のうち誰か一匹でも置いていったら噛むからね!』
「衛生面が気になる報復……」
『その時には生ごみを漁って泥水の中を泳いだ爪で引っ掻いてやる!』
「だからごめんってぇ」
情けない声でシンシアが謝罪をすれば、置いていかれたネズミがまったくと言いたげにチュウと鳴いた。だがそれ以上の言及はしてこないあたり溜飲が下がったか。
それを見てシンシアはほっと安堵し、もう一度寝ようといそいそとベッドに戻った。
追いやられた屋根裏部屋の、ボロいベッドと綿がだいぶ寄ってしまった布団。
だがいつの間にやら体に馴染み寝心地が良い……、わけがない。屋根裏部屋の薄暗さは慣れたが、寝心地の悪さはいつまでも慣れない。
「お城の布団はきっとふかふかだろうなぁ……。まだ彼も寝てるかな」
麗しい顔立ちの彼のことだ、きっと寝顔も美しいだろう。
でも少し寝相が悪くても面白くて良いかもしれない。王城の豪華な寝室、立派なベッド、そこからゴロンと落ちる王子様。
想像するとなんだか楽しくなり、シンシアはふふと小さく笑うと再び眠りについた。




