(1)皇太后イザボー
私は馬車を駆り、都に入る。どこか空々しい風景だった。そしてすれ違う人は皆私に興味を持っていないように見えた。ありていに言えば、無視されている。王宮の前に馬車を乗り捨てても咎める者もいない。
頭上を見上げれば、そこで鳥が止まっていた。羽ばたきもしていないのに地上に落ちてくる様子もない。ただ中空で静止している。来た道を振り返ってみれば、徐々に歩く人々の動きが遅くなってき始めていた。
時間が停止し始めたとしたら、こんな風景だろうか。
のんびりしている暇はないのかもしれない。
修道服の裾を蹴るような勢いで私はイザボー皇太后のいる王宮の敷地内の離れの小邸宅を目指した。たどり着いた屋敷の扉を勝手に開けて、廊下を進み、最奥の扉の向こうに、イザボー皇太后を見つけた。
そうだ、彼女はいつだってここに居る。
イザボー皇太后はいつも通り、部屋の奥の優雅な椅子に腰かけていた。飛び込んで来た私を見ても何一つ動じない。
私は今日修道院から聖女のところに直行したのでまだイザボー皇太后には会っていない。さらにいつも合う時間からはだいぶ遅れている。
「イザボー皇太后。アデル嬢を見つけました」
役目を命じられてもいない私がその役目の完了を告げる。普通なら驚くはずだし、私の言動は明らかに不可解のはずなのだが彼女はわずかに微笑んで私を見つめた。
「わかりました」
やはり。
「……あなたはすべてを知っていて、私にそれを命じたのですね」
すべてだ。本当にすべての事柄を彼女はわかっていた。
私だけが、この世界で異端だ。この世界ではない記憶を有し、何度もループしている。その私を王宮に呼びつけた存在こそがこの人。彼女だけが私がここに来ることをわかっていたのだ。
それはイザボー皇太后としての計略のほかに、もう一つある。彼女は神の視点を持っている。
それを確信した私はまっすぐに彼女を見て言う。
「この世界が、ゲームと同じ世界観を持つ異世界なんかではなく、ただのゲームデータであることも」
そう。これはデータだ。この世界は存在しない。
イザボー皇太后はその言葉に頷いて、立ち上がった。私の方に歩み寄ってくる。唐突に視界が悪くなったように、彼女に当たっていたはずの焦点がぼやける。瞬きの間に、彼女の姿はどんどん変わっていった。他の風景はいつもと同じ、しかも鮮明で、おかしいのはイザボー皇太后だけだ。
進むごとに彼女の顔立ちは若くなる。それどころか西洋風の老女の顔立ちから、アジア系の三十代ほどの女性に変容していった。着ているものも豪奢なドレスから履き込んだジーンズに白いTシャツとスニーカー、そしてざっくりとしたベージュのジャケットに変わっていた。
「こんにちは」
彼女は今まで何度も聞いた、皇太后の老いた女性の声とは違う声で言った。
彼女はジャケットに手を突っ込んでいた。あんまり上品とは言えないくらいの気やすい笑顔だった。
……どうなのかな。『私』はこんな表情をするんだろうか?
「私をご存知?」
彼女は問う。私は頷いた。
「あなたは何らかの人工知能でしょう。そしてここは巨大なデータベースの一画」
彼女は、そう、とあっけらかんと肯定した。
やっぱりなと、私は短いため息をついた。
時間が巻き戻る、そんなことはあり得ないと私は考えていた。一回目のループの開始からずっと。それが認知機能として可能であるとすれば、リセットとしての「データ」でしかありえないのではないかと。
「あなたは何?」
私は問いかけた。徐々に、問うべき質問がまとまってくる。
「私は始祖の人工知能アビスの……その一角」
人工知能は言う。
「ここは、無数の物語を……それこそギルガメッシュ叙事詩、源氏物語、おっとシェイクスピアはもちろんね、それら古典からはじまり、小説、映画にゲーム、それに伴う幾多の二次創作まで、果てしない量の物語を保管しているデータベース『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』」
『私』が地味にブラックの会社を辞めたのは、三十歳手間の頃だった。ここにいても大した出世は望めないし、なんとなく世界情勢も不穏な空気が漂っていた。安穏とこのまま過ごすのもどうかと思っていたのだ。海外でシステム開発に携わっている先輩がいると最初に言ったけど、その話に乗って私は海外に渡った。
優秀なエンジニアである私が辞めて、地味ブラックの会社がダメ―ジを受けてとっとと倒産でもすればよくある放逐モノみたいでスカッとするはずだが、その会社はその後も結構長くしぶとく残り続けていた。チッ。
さて異国に渡った私が身を寄せた先輩の会社はAIの開発を主としていた。少し大きくなったところで合併やらなにやらはあって、順風満帆は言い難かったけど、やがて初代アビスを作り上げた。AIについて注目が高まっていたし、アビスはデキも悪くなかったので、会社はめっちゃデカくなった。しかも、その頃にはついに量子コンピューターも現実化して、それを用いてアビスの能力はどんどん高まっていった。
あのパッとしない会社員だった頃に比べ、私の財産も社会的地位もその頃には信じられないくらい高いものになった。
だから私よりもさらに高い地位に居た……つーかCEOになった先輩と組んで、内緒でちょっとしたいたずらをした。アビスのバックヤードに自分の人格を移しこんだバージョンを作ったのだ。私が膨大な量の質問に答え、AIが私の人格をデジタルデータとして再構築していく。
多分人生の終わりの頃、私はAIに性格を付与する研究をしていたからその一環だったのだろう。でもアビスを動かすに不可欠なものではないから、すべてのアビスに居たわけじゃないし、いても大体はアビスの底で寝てるだけ。
60歳くらいに私は癌になった。医学は発展していたけどそれでも人間は死なないわけじゃない。かなりステージが進んでいた私は身辺整理の中で資産を、一ベンチャー企業に投資した。
NPOに近かったのかもしれない。その団体はあらゆる物語を保存するアーカイブを作っていたから。
「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」と名付けられた膨大なデータベースは、私の資産が無ければ頓挫していただろう。それが何かの金儲けになったとはあまり思えないからね。フィクション専門の膨大なデータは、書籍の取り込みはもちろんのこと、WEB上にアップされている無数の物語も回収し保存していった。
その世界を取り仕切るのは、アビスから進化したAI、シェヘラザード。
65歳で私は死んだ。
……そう、今、「私」と名乗っているのは、生前の私が作り上げたデジタル人格だ。アビスのバックヤードに置かれていたはずの。
死んだ私の生前の名前?それはもうここでは大きな問題ではない。でも話を語るに不便だとういのなら、私の生前のことは「エンジニア」と呼んでくれればいい。私も、エンジニアの人格の複製ではあるけれど、エンジニアと称することにする。
イザボー皇太后……いや、エンジニアはそう語った。




