猫を見たら……
最近、妙な黒猫がついてくる。金と銀のオッドアイ。変わった猫だ。首には鈴のついた輪っかを付けている。まだ新しい。飼い猫か?
「にゃー」
俺が駅のホームの黄色い線を越えようとすると、いつも足元にすり寄って来る。邪魔な黒猫。だが、不思議と「止めよう」と考えてしまう。
何をって? 飛び込み自殺をだ。
なぜそんなことをしようとしているかというと、俺には何もないからだ。一度愛した妻も、最愛の娘も、何もかも。
「にゃー」
見透かしたように黒猫がこちらをのぞき込んでくる。お前なんかにわかってたまるか。愛する家族を失った、みじめな男の気持ちなんて。
――ガタンゴトン……、
電車がやってきた。その時が来たようだ。
「にゃー」
黒猫の鳴き声を聴くと、娘との思い出が溢れ出てくる。
……あれは、娘が肺がんで苦しんでいた時の事。シングルファザーの俺は、まともに病院に通ってやれなかった。最近の医療も進歩している。いつ会っても娘は笑顔だった。
髪の毛は薬で抜け落ちていて少し瘦せていたが、まさか娘が突然死んでしまうとは思ってもいなかったのだ。
金さえあれば、娘をすくえる。そう思っていた。だから、血眼になって働いた。それが、俺のできる最大限の愛情表現だったからだ。
娘が亡くなる数日前、変わった話をしたのを覚えている。
「お父さん!」
「なんだ、千夏。窓なんか見て」
「空にね、猫ちゃんが、たくさん居るの!」
「猫……?」
そんなわけあるか。と思いつつ、俺は窓から空を見上げた。確かに。雲の形がそう言われてみれば、そんな形に見えなくもない。
千夏は、感性が豊かなのだなぁと思いつつ。楽しそうに病床で会話をしながら、再び会社に行こうとした俺の腕を、娘は掴んだ。
「お父さん」
「今度は何だ、千夏」
「猫ちゃんを見たら、私だと思ってね」
「何を言っているんだ。お前は大丈夫。父さんが何とかするから」
「……約束」
娘がそう言うなら仕方ない。俺は指切りげんまんをした。娘のために会社で残業の日々。千夏は、決して自分の辛さを俺に見せなかった。
娘の強さが、その時の俺には理解できなかったのだ。
スマホの着信音にも気づかず、死に目にも会えなかった。
葬式も寂しい物だ。久々に顔を合わせた元妻も、俺と目を合わせようともせず、焼香だけして帰ってしまった。本当なら、ひっそりと家族葬にしようと思ったが、千夏の友人たちに会わせてやりたかった。
まだ高校生だったからな。
――ガタンゴトン……、
電車が行ってしまった。
「にゃー」
またこの黒猫のせいで邪魔された。俺は唾を吐くようにキッと睨んでみる。黒猫も睨み返してきた。そんな詰まらないやり取りをしていると、スマホの通知が鳴る。
延滞だ。理由は少し遠くの駅での人身事故。詳しくは分からないが、俺と同じような理由なのだろうか。考えてしまうな。
そのせいか、こちらの駅のダイヤも乱れてきている。集まる人たち。その殆どが、スマホを見ていた。
「人身事故だって」
「マジ? 本当に迷惑ー」
「ね~。マジで何様なんだろーねー」
女子高生と思われる子たちが、不満を溢している。世間の人たちにとっては、人身事故はその程度のものなのかとボーっと聴いていた。
「にゃーん」
俺の意識を取り戻すかのように黒猫が鳴く。
風が吹いた。
――猫ちゃんを見たら、私だと思ってね――
頭の中に千夏との約束がよぎる。空を仰ぎ見た。
真っ青な空。風に流される白い雲。それは太陽を隠していた。やはりあの日に見た空とは違っている。期待した俺がバカだった。
「にゃー」
「うるさいな」
俺が黒猫を足蹴りにしようとしたとき、飼い主であろうノッポの青年と、体格のいい大学生くらいの女性が現れた。
「ファウスト、ここに居たのか! 探したんだぞ!」
青年が、黒猫の名前を呼んだ。ファウストと呼ばれた猫は、お尻を俺に向けながら、「にゃーん」とひと声鳴いた。まるで、
(それで良いのにゃん?)
とでも言うかのように。
――再び、空を仰ぎ見た。
厚い雲が散って、太陽の日差しが眩しく感じる。今日人身事故に遭った人は、この景色を見られなかったのか。千夏も……。
大きな運転再開のアナウンスが流れた。
人が動き出す。俺の気持ちを知らずに。
何のために行くのか分からなくなった会社。それでも、俺が生きるためには出社しなければならない。
そうだ。娘が、猫を見たら千夏のことだと思えと言っていた。
あのファウストという黒猫は、娘の生まれ変わりかもしれない。きっと違うだろうが、そう信じよう。
「なぁ千夏。そっちには猫が沢山居るか?」
飼い主の方に歩み寄る黒猫に向かって、そう囁いた。黒猫は、俺の方を向いて、「にゃー」とだけ鳴いた。




