織田美穂
織田美穂が新たな征夷大将軍になることで、日本はようやく戦乱の世が終わった。
そして国民の誰もが天下泰平を謳歌する、平和な世の中になったのだ。
しかし、国内は平穏でも外国はそうはいかなかった。
何処から情報が漏れたかは知らないが、小さな島国ながらも技術力の高さに目をつけられのだ。
そのせいで、うちを従属か植民地にしようとする動きが活発になった。
ついでに言えば、脳筋ゴリ押しが得意で喧嘩っ早い征夷大将軍が統治している。
なので、売り言葉に買い言葉で大陸への派兵はトントン拍子に決定したのだった。
未来ならば、家臣や親しい者が止めるだろう。
しかしこの時代は、植民地支配や海外派遣が頻繁に行われていた。
他国に目をつけられた小さな島国が独立を保つのは、稲荷神様の化身である自分が生きている間はまだ良いが、死後は難しくなる。
領土は小さいが有用な技術を数え切れない程保有していると知られているため、遅かれ早かれ利権を奪おうと脅迫されるか、戦争になるのは目に見えていた。
交渉が通じる相手なら良いが、殆どの場合は侵略戦争になってしまう。
だからこそ当代の征夷大将軍は、自分が歴史的な大罪人になるのを微塵も恐れずに、日本の独立を維持するために全世界を相手に戦いを挑んだのだった。
終わりなき戦争を始めてから、とても長い年月が流れた。
幕府を開いた日に新年号が制定され、今年は未歩百三十年になる。
ついでに何やかんやあって大日本帝国が全世界を統一したので、いつの間にか西暦が廃止されて今はそちらが広まっていた。
一方で私はと言うと、怪我や病気をしない体であっても成長や老化はする。
だが普通の人間とは違い、十五歳からは緩やかだが歳を重ねるようになった。
おかげで数年前までは、二十代後半ほどの見た目と状態が常に維持されていた。
しかし、やはり死からは逃れられない。
最近は一気に老化が進んで、今では杖なしでは歩くことさえ難しくなってしまった。
だがそのおかげで、これ以上は公務を続けることが難しくなったと言い訳ができた。
なので穏便に退位できたのは、長く続いた人生の中で一番嬉しかった。
信長の子孫に二代目の征夷大将軍を任せた後は、政治からは距離を置くことになった。
ちなみに私は稲荷神様に誓いを立てたことと、功績があまりにも大きすぎたことで未婚であるが、名古屋から離れた田舎に小さな家を借りて、気ままな一人暮らしでのんびりとした余生を過ごすのであった。
それからしばしの時が流れ、退位してから三年が経って一月一日の正月を迎えた。
私の希望で、今年は来客が訪れることなく静かな元旦を過ごすことができた。
三年前までは本当に忙しかったが、今は田舎でのんびりとした余生を過ごせるのは良いことだ。
元旦に窓の外をぼんやりと眺めていた私は、庭に建てた稲荷神様を祀る小さな祠を見て、ふと気がついた。
「今日はまだ、参拝してなかったわ」
「では美穂様、しばしのお待ちを」
世話役代表である陽炎銀子が、私の思いつきを聞いて恭しく一礼した。
これは襲名制でちゃんと本名があるし、初代は寿命で亡くなっている。
しかしどれだけ姿や名前が違っても、私への忠誠は変わらないようだ。
誠心誠意仕えてくれるので、こっちとしては嬉しいやら恥ずかしいやらである。
そんなことを思い出しながらしばらく待つと、愛用の車椅子を運んできてくれた。
全盛期と比べて体が衰えて、老化でまともに動けなくなった私は、銀子に厚手のコートを着せてもらった。
そして準備が整ったら、車椅子にゆっくりと腰を下ろす。
頑張れば自分でも何とか動かせるが、いつも彼女が後ろから押してくれる。
そして稲荷神様の参拝は毎日欠かさず続けているため、お互い慣れたものだ。
玄関から外に出た私は、そのまま小さな庭の片隅に建てられた稲荷神様の祠まで、ゆっくり押してもらう。
本当ならば、もっと広々とした豪邸に住めるし、多くの世話係も雇える身分である。
しかし私は、どれだけ時が流れても根っこが小市民だ。
公務中ならまだしも、隠居した身では分不相応で税金の無駄にしか思えなかった。
関係者は揃いも揃って渋い顔をしたが、退位した今は表に出る気は一切ないので、結局小さな一軒家に住まわせてもらっている。
それでも小さくても高機能な我が家を用意してくれて、祠も立派に飾り立てられている。
すぐ前まで来た時に、銀子が車椅子を止めて声をかけた。
「美穂様、祠の前に小狐がいます。
今すぐ追い払って──」
歳をとって目が悪くなったのでやや見えづらいが、私はあるモノを見つけて慌てて口を開いた。
「銀子、追い払う必要はないわ」
祠の前には小狐が居たのだ。
それをマジマジと観察した私は、百年以上も昔の記憶と照らし合わせる。
少しだけ思考した後、自然と身なりを正して頭を下げる。
「稲荷神様。織田家の天下統一、無事成し遂げました」
老いた体でぎこちなく一礼すると、小狐の声が頭の中に響いてきた。
「うむ、美穂よ。大義であったぞ」
その様子を、銀子や他の世話係が困惑しながら見ており、おずおずと声をかけてきた。
「あの、美穂様。どなたとお話になられておられるのでしょうか?」
銀子が疑問を口にしたので、目の前の小狐が稲荷神様だと微笑みながら伝える。
「えっ? ……こっ、これは失礼を!」
しかし、皆に彼女の声は聞こえないようで、半信半疑ながらも他に付いてきた世話係や護衛たちも揃って、恭しく拝んだ。
私は無礼を働かないことを確認してから、目の前の小狐に向き直る。
「それで稲荷神様、本日は何用で参られたのですか?」
予想はつくが、確認のために一応尋ねた。
「美穂に与えた妾の加護が、消えようとしておる」
最近になって急に老化が始まったのだ。
薄々察していたが、やはりそういうことだったのかと納得する。
「この場でかけ直せば、肉体は若返り、あと百年は生きられよう。
……如何する?」
稲荷神様が私に選択の自由をくれるなんて、実に気前の良いことだ。
だが既に、百年以上も生きたのだ。
これ以上望むと罰が当たりそうだし、私よりも先に逝った友人が待ちくたびれていそうだ。
少しだけ考えたが、すぐに結論が出たので口を開く。
「いいえ、私はもう十分に生きました。
これ以上、現世に留まる必要はありません」
ぎこちなく微笑みながら、小さく首を振って断りを入れる。
「さようか」
稲荷神様は私が生きようが死のうがどうでも良いのか、素っ気ない答えが返ってくる。
しかし周りの者たちはギョッとした表情になり、特に銀子が興奮気味に口を開いた。
「美穂様! 何を仰られるのですか!
私たちは、貴方様がいなければ──」
困ったような表情を浮かべる自分とは対象的に、銀子だけでなく周りの者たちも、今にも泣きそうな顔をしている。
それを見た私は、困ったような表情で言葉を遮った。
「銀子」
「はっ、はい」
正直、銀子たちを傷つけたくはない。
それでも生きている限り死から逃れられないし、私もいい加減お迎えが来ても良い頃だ。
「私は貴方たちに仕えてもらって、とても幸せだわ。でも、……もういいの」
左右に首を振ったあとは、銀子に向かって微笑む。
「あとは自分のために、限りある時間を使いなさい」
「みっ、美穂様!」
世話係がいなければまともに生活ができず、迷惑をかけてばかりな私を今まで支えてくれたのだ。
そのような親切な人たちに出会えたのは幸運で、退位してからの三年は本当に幸せだった。
「別れの挨拶も必要であろう。それぐらいは待つぞ」
稲荷神様が気を使ってくれたが、私は少し困ってしまった。
「私は未婚で子供はいません。
ですが、親戚や関係者は大勢います」
つまり、別れを告げなければならない人が途方もなく多いのだ。
色々と考えたが良い案が思い浮かばないので、ここはいつも通りに行き当たりばったり済ませることにした。
「現世に未練を残したくありませんし、会って話せば引き止める人もいるでしょう」
銀子たちの訴えで、心が揺らいでしまった。
これ以上現世に留まっては、自らの死を受け入れる決心が鈍るだけだ。
「ですが、最後に一言だけ」
今まで心の中に留めていた言葉を、私は最後の瞬間にはっきりと口に出した。
「これまでたくさん迷惑をかけて、ごめんなさい。
そして、……ありがとう」
私の心からの、謝罪とお礼であった。
「貴方達のおかげで天下統一は成り、平和な世を築けたのよ」
自分は今まで、無数の人を殺して屍を積みあげてきた。
そんな犠牲にしてきた者たちの墓前に立っても、静かに黙祷を捧げるだけだった。
しかし今この時、初めて心の底から謝罪と感謝を口にしたのだ。
征夷大将軍、そして織田美穂は決して挫けない。常に強くなければならない。
だが死を迎える直前ぐらいは、これまで決して明かさなかった胸のうちに溜め込んできたモノを、堂々と口に出しても良いだろう。
今まで我慢してきたモノを出し切った私は、目の前の稲荷神様に告げた。
「先に旅立った者たちを待たせるのも悪いですし、もう逝きますね」
それでも後ろ髪を引かれるが、これ以上現世に留まっていても私ができることはもうない。
征夷大将軍は引き継ぎが終わっているし、大日本帝国は自分が居なくなっても運営はできる。
「では美穂よ。……逝こうか」
稲荷神様が優し気に微笑みながら、私に声をかける。
すると体がふっと軽くなった。
慌てて何事かと周りに見ると、目を閉じて車椅子にもたれかかり、安らかに眠っている自分が後ろに居た。
「みっ……美穂様? だっ、誰か! 至急医者を呼びなさい! 美穂様のご容態が!?」
青い顔をした銀子が、慌てて指示を飛ばす。
現場が大混乱に陥る中、私は元の体から離れて女子高生としての若い体に戻っていた。
そして祠の前でじっと佇んでいる小狐が、こちらに声をかける。
「では、ここからは妾が案内しよう」
「稲荷神様、自らがですか?」
コクリと頷く子狐は、さらに言葉を重ねる。
「美穂をくれぐれも頼むと言われておるからな」
何のこっちゃと私が首を傾げていると、稲荷神様が続きを話してくれた。
「それはもう、大勢の者にだ」
「……はぁ」
説明が大雑把すぎて良くわからない。
そんな私の様子に、稲荷神様は小さく笑う。
「まあ、心配せずとも逝けばわかる」
そう言って小狐が何処かに歩き出したので、私は遅れないように彼女の後を追う。
役目を終えた古い肉体を捨てて現世から旅立ち、最後に何度か地上の様子を振り返りながら、ゆっくり天に登って行ったのだった。




