決別
天文二十年の秋の終わりに、双方のお供が壁際に控える中で、私と母は向かい合って座っていた。
何度か脱線しても強引に戻したが、このままでは埒が明かないので、単刀直入に切り出すことにした。
「お母様は、信行のことで用があるのでしょう?」
脳筋の私に見抜かれているとは思わなかったのか、母は明らかに驚いた顔をする、
「何故そのことを?」
「それぐらい誰でも察しがつくわよ」
母が信行を特別扱いしているは知っているし、これまで疎遠だった彼女から突然呼び出されたのだ。
その時点で大体の予想はつくし、実際それは正しかったようで、真面目な口調で訴えてきた。
「美穂の言う通りです。
信行を罰するのを取り消させるために、この場に来たのです」
そして母の訴えを聞いて、私は頭を抱えた。
だがもしかしたら、政治から距離を置いた彼女に情報が伝わっていない可能性がある。
なので、思考を切り替えて口を開く。
「私は最初から、罰するつもりはないわ。
開戦前にも、そう宣言をしたもの」
これで用件は済んだと思った私だが、母は悲痛な表情でなおも話を続けた。
「ですが、周囲はそうは思いません」
私は口元に手を当てて思案する。
確かに罰することはないと言っても、当主に逆らったのだ。
自らの罪を一生抱えて生きていくことになるし、信行や反乱に加わった家臣や兵は風当たりが強くなり、出世コースからも外れるだろう。
しかし、そんなことは私には関係ない。全ては彼らの自業自得だ。
それでも母は納得できないと言うなら、どうしようもない。
「じゃあ、どうしろって言うのよ」
あとは本人たちの問題で、少しずつでも名誉を回復していくしかない。
自分はそう考えていたが母は違うようで、思いも寄らない発言が飛び出した。
「美穂から信行に頭を下げて、家臣たちの前で謝罪するのです」
「……は?」
これには私だけでなく、周りで会話の成り行きを見守っている護衛たちも、揃って唖然としてしまう。
さらに頭の中が真っ白になり、母に対する感情が急激に冷めていくのがわかった。
「幸い貴方は女です。男の信行に頭を下げる程度──」
「それ、……本気で言ってるわけ?」
腸が煮えくり返るとは、このことだろうか。
実の母が相手だから、ブチ切れて殴りかかったりはしないが、それでも心の内では未だかつてないほど怒っていた。
「本気で言ってるなら、私はお母様を絶対に許さない」
「みっ……美穂?」
母は私が何故怒っているのか、わからないようだ。
戸惑いながらこちらをなだめようと声をかけてくるが、今の自分にとっては焼け石に水であった。
「やっぱり一発殴っておくわ。
この母にして信行ありね」
彼女は信行のことを大切に思っている。
だが逆に自分のことを、道端に落ちている小石にも等しいと判断している。
なお別に信行は愚かではなく今は改心しているが、彼女と同じように私の敵になったので、ついポロッと口から出てしまった。
これも全ては私の自業自得だと内心では後悔しており、母にとっての娘だと認めずに意固地になる気持ちもわかる。
だから脳筋だろうと我慢して、今まで暴力だけは振るわなかった。
しかし、ものには限度というものがある。
自らの感情を抑えきれなくなった私は、おもむろに座布団から立ち上がる。
そして無表情のまま、母の前まで真っ直ぐに歩いて行く。
「美穂? 貴女、さっきから一体何を言って──」
本来ならば女性に暴力を振るうとしても、ビンタがせいぜいだろう。
さらに言えば生みの親に暴行を加えるなど、もっての外だ。
だが私はそんな甘いことはしない。握り拳を作って真上に振り上げて、勢い良く振り下ろす。
「ぎゃあっ!?」
武家屋敷の室内に、大きな声で悲鳴が響き渡った。
手加減した状態ではあるが、母の頭頂部に拳骨を食らわせたのだ。
「みっ、美穂! 母に手をあげるとは何事ですか!」
少し痛い程度で済んだようで、立ち直った母が顔を真っ赤にして怒鳴ってくる。
生みの親や年長者は、敬うべきという思想は知っている。
だが、何事にも例外はあると判断した私は、何処吹く風で堂々と反論する。
「私は織田家の当主なのよ?」
「それがどうしたのです?」
本当にわかっていないようで、母は相変わらず敵意を込めた視線を私に向けてくる。
それだけではなく、さらに口にしてはいけない発言を重ねてきた。
「私は美穂よりも信行のほうが、織田家の当主に相応しいと常々思っていました」
直接的な暴力を振るわれて母まで怒り心頭になったようで、これまで心の内に秘めていたことを口から出てしまった。
そんな色んな意味で問題発言を、私にぶつけてくる。
「美穂が当主を退くのではなく、謝罪のみで済ませてあげようと言うのです」
もはや、現状を正しく認識しているかも怪しい母である。
そんな彼女は、信行を織田家の当主にしたいらしい。
つまり私を要らない子扱いするだけでなく、邪魔だと考えているのは理解できた。
色々言いたいことはあるが、何を口にしても意思疎通を図るのは困難だと察した私は、大きな溜息を吐いた。
そして何の感情も浮かんでいない表情で、実の母に語りかけた。
「お母様、余生は寺でゆったり過ごすと良いわ」
そう言って私は、母に背を向けた。
そのまま、廊下に向かって歩き出した。
「美穂、何を言っているのですか!」
まだ彼女が何かを言っているが、もはや聞く気はなかった。
「私が織田家の当主なのは、お父様が決めたことよ」
しかし最後にこれだけは言っておこうと、私は彼女に語りかける。
「お母様が納得できなくても、家臣や領民たちからは信頼されてるわ。
何より、信行に譲るぐらいなら、信長に継がせるわよ」
だが今は、天下統一を成すまで誰にも継がせる予定はない。
私にしかできないことは、まだたくさんあるのだ。
そして皆がそれに夢や希望を託して、付き従ってくれている。
彼らの信頼を裏切るような真似はしたくなかった。
「毎年の化粧料は送るわ。
だから、一足早く余生を楽しんでちょうだい」
引き止める母だが、耳を貸すつもりはない。
「待ちなさい! 美穂!」
結局母の静止を振り切って、私は廊下に出てしまった。
そのまましばらく歩いたが、何故か自分が泣いていることに気がついた。
「……どうして」
嫌われていることはわかっているし、それは自業自得で私の罪だ。
しかし母は私を生み、短い間だったが育ててもくれた。
ほんの少しだが愛情を注いでくれたことも、朧気に覚えていた。
「もう二度と会うことはないでしょうけど。
どうか、……息災で」
和解できなかったのは残念だが、天下統一を諦めるわけにはいかない。
だからこそ、現状では生みの親に反発しなければいけなかった。
「私だって、織田家の当主なんか継ぎたくなかったわよ」
戦乱の世を終わらせるためには、織田美穂として表舞台に立つしかない。
今はただ、前を見て進み続けるしかなく、私は涙を拭いて気持ちを切り替える。
もし天下泰平の世になったら、その時にまた改めて話し合えばいい。
お互いが生きている限りは、和解の道が完全に閉ざされたわけではないのだ。
そう前向きに気持ちを切り替えた私は、山積みになっている当主の仕事を片付けるべく、那古野城へと急ぎ戻るのだった。




