遺言状
天文二十年の夏、私の父である織田信秀が亡くなった。
その死はあまりにも突然であり、何とか葬儀に間に合ったものの、火葬される直前だった。
それでも棺桶の中の父の顔を見られて、最後に少しだけ声をかけることができた。
頭の中が真っ白で何を話したかは、あまり覚えていない。
気づけば末森城下の武家屋敷で、朝を迎えていた。
しかし泣きながら一晩休んだようで、最低限の気持ちの整理はつけられた。
朝餉を済ませて身嗜みを整えた私は、顔を洗って目を覚ます。
そして頬を両手で軽く叩いて、気持ちを引き締めた後、末森城へと向かうのだった。
正門を通って城内に入り、大広間を目指して歩く。
メンバーは私と林さんと銀子という、いつもの三人だ。
今日は尾張全土から、主だった武将が呼び集められている。
織田信秀の死後、誰が次の当主かを明らかにするためだ。
そうでなければお家騒動が起きてしまうので、大々的に告知するのは重要であった。
何にせよ弟は織田家の跡継ぎであると、父が生前にそう宣言していた。
なのできっと、一足先に大広間で待機して家臣たちを待っているのだろう。
私が末森城の大広間に到着した時には、既に家臣たちは勢揃いしていた。
その中でも一段高い場所に、予想通りに弟の信長が腰を下ろしていた。
「姉上、こっちじゃ」
前までは姉の補佐役を弟がしていたが、今日は信長が当主になる。
ならば立場が逆になってもおかしくない。
「ああ、そういうことね」
なので私は一段高い床に上がり、壁際に座ろうとした。
だが何故か、そうはさせまいとばかりに、先程まで中央に座っていた彼がそちらに移動する。
「えっ? 私が信長の補佐をするんじゃないの?」
何でそんなことをと、私は疑問を口に出す。
「いやいや、織田家の当主は姉上じゃぞ」
「……はっ?」
一体弟は何を言っているのか、私はさっぱり理解できなかったが、席についた信長は懐から書状を取り出す。
そして恭しく頭を下げて、私に手渡した。
「姉上に宛てた父上の遺言状じゃ」
混乱しつつもそれを受け取り、緊張しながら口を開く。
「……改めさせてもらうわ」
集められた家臣たちも、遺言状の内容が気になっているのがわかる。
花押と筆跡から、織田信秀に間違いなしと確認する。
次に、何とも居たたまれない気持ちで、言われた通りに織田家当主の席に腰を下ろした。
取りあえず気持ちを切り替えて、小さく咳払いをしてから粛々と読み上げていった。
織田信秀の遺言状だと示すような文章が最初に書かれており、それが済んだらいよいよ本題に入る。
「……美穂に重荷を背負わせてしまい、申し訳ないと思っている」
私が普及させたひらがなと漢字で書かれているので読めるが、内容に関してはかなり深刻なため、体が自然と固くなる。
「慣例通りならば、信長を織田家当主にすべきだ。
しかし、それでは尾張を統治するのは困難極まり、お家騒動が起きてしまうだろう」
どうして信長を跡継ぎにすると、お家騒動が起きるのかは良くわからなかったが、頭の良い父がそう判断したのだ。
なのできっと、本当に起きるのだろう。
「それに稲荷大明神様の化身が指揮を取らねば、同盟関係が揺らぎかねん」
この一文で、先程の疑問に納得させられた。
日の本の国は、古来より神道が密接に絡んでいる。神の血筋や化身は、とても重要なのだ。
征夷大将軍の資格や、同盟関係の柱になっているのは間違いなかった。
「反対する者も出よう。
だが、賛同者はそれ以上に多い」
かつては利権を得ていた、特権階級の評判は最悪だ。
しかし実際には権力者は極一部で、そうでない者は圧倒的な多数派なのだ。
「美穂よ。織田家の当主となり、天下統一を成し遂げるのだ」
いきなりぶっ飛んだなと思いながら、続きを読んでいく。
「戦乱の世が続く限り、決して平穏は訪れぬ」
それは、私にとっては死刑宣告にも等しかった。
引き続き、父の遺言に目を通していく。
「美穂は稲荷大明神様の化身だ。
ゆえに世間は、捨て置くことはできぬのだ」
朝廷も私を取り込もうとした。
それを断っても、命を狙ったり利用しようとする者は、きっとまた現れるだろう。
「ならば己の望む世界を築き、平穏を手に入れるしかあるまい」
私が目指しているのは、天下統一である。
戦乱の世が終われば、ようやく小市民として気楽な隠居生活を手に入れる。
だが世が乱れたままでは、一生付け狙われる暮らしが続く。
「尾張と織田家の未来を美穂に託す」
最後に父の名前が書かれており、私は遺言状を読み終えた。
受けた衝撃は、織田信秀の葬儀ほどではなかった。
だが正直、どう受け止めて良いのかわからない。
なので書状を林さんに預けて、助けを求めるように弟に顔を向ける。
天下統一は、果たさねばならない大望である。
しかし頭の悪い私が表に立ってあれこれ指示するより、要領の良い信長が織田家を率いて、自分は裏方に回ったほうが上手く行く気がするのだ。
「儂は織田家当主になる気はない。これまで通り、姉上の補佐を行おう」
返ってきた答えは、姉にとっては絶望的な宣告であった。
「おいィ! お前それでいいのか!?」
弟は、あっさり当主の座を放棄した。
混乱した私は、何処かの謙虚な騎士のような台詞を口走ってしまう。
「問題はない。儂や重臣には事前に伝えられておったからな」
全く取り乱す様子のない弟の言葉を聞いて、私は大きな溜息を吐いた。
急に色んなことが起こりすぎて、ただでさえ足りない頭の許容量を越えてしまいそうだ。
しばらく頭の中を整理していた私だったが、混乱に拍車をかけるような怒声が、突然大広間に響き渡った。
「異議あり!」
私は声が聞こえたほうに顔を向けると、数人の家臣が怒りの表情でこちらを見つめていた。
古い記憶を引っ張り出すと、彼は角田新五で織田信次の家老だったと合点がいった。
「その遺言状! 偽物ではござらぬか!」
「それは何故かしら?」
花押は父の物だと、他の家臣や信長が確認している。
そして筆跡に関しては、私は専門家ではないので何となく似てるとしか言えない。
それでも本来なら次期当主のはずの信長から託されたので、流石に偽物ではないだろうと思えた。
「大殿が信頼の置ける者のみ、跡継ぎを明かしたのはわかる!」
わかるならそれで良いのではと思った。
だが彼は、興奮気味に続きを話す。
「しかし、ならば何故! 跡継ぎは信長様であると嘘の証言をしたのか!」
「……一理あるわね」
敵を欺くには、まず味方からという言葉があるが、信長を跡継ぎにすると偽る必要はあったのかは疑問だ。
これに対して私は弟に視線を送ると、すぐに答えが返ってきた。
「父上は、迷っておったのだ。
織田家の跡継ぎを、儂か姉上のどちらにするべきかとな」
姉としては迷う余地なしで弟一択だ。
しかし、父は違ったらしい。
「ならば事前に告げていた通り、信長様に継がせるべきでございます!」
角田氏の意見に信長は首を振り、すぐに返答した。
「角田よ。それは違うぞ」
「何が違うのでござるか!」
すると弟は呼吸を整えて立ち上がった。
そして、家臣たちの前で堂々と告げる。
「織田家の当主に相応しいのは、儂ではない! 姉上なのは最初から確信しておった!」
脳筋ゴリ押ししかできない私の評価がヤバすぎて吐きそうになり、思わずチベットスナギツネの表情になる。
「しかし父上は、娘に重荷を背負わせる決心がつかなかったのだ!」
そこで信長は息を吐き、次に私を見る。
「織田家当主となれば、多くの者の命と責任を背負わねばならぬ」
弟の言葉を聞き、私は父の気持ちが何となくだがわかった。
自分はカッとなって暴力を振るうことがよくあるが、実は戦や人殺しが大嫌いだ。
家臣や兵、領民の命や責任もできれば背負いたくはない。
父はきっと、それを気遣ってくれたのだろう。最後に継がせるところに何も思わないわけではないが、戦乱の世の常で仕方ないと言える。
「改めて尋ねよう。
角田よ。娘を思う父上の気持ちがわからぬか?」
若干怒りを感じる信長を前に、角田氏は何も言えずに、震えて小さくなっていた。
それを見た私は、何とも申し訳なくなる。
そして本日何度目かの溜息を吐いて、隣の弟に声をかけた。
「もう良いわ。信長。
私が織田家の当主になれば済むことでしょう?」
自虐気味に微笑んで、弟に顔を向ける。
「それはそうだが、……軽いのう」
気を張っても疲れるだけだしねと、小さく呟く。
正直に言うと、織田家の当主になんてなりたくはない。
だが父は死ぬ前に、私に天下統一の夢を託したのだ。
ならば今まで育ててくれた恩に報いること。それに自身の平穏を得るために、覚悟を決めるしかないだろう。
私は呼吸を整えて、姿勢を正した。
「お父様の遺言通り、今日から私が織田家当主よ!」
恥じることなく前を向いて、私は大声で宣言した。
「しかし、そんなに私に従えない者も居るでしょう!」
突然の裏切り発言に、弟が慌てて止めようとする。
「あっ、姉上! いきなり何を!?」
だが、構わずに続ける。
「織田家の足並みが揃わなければ、天下は取れないわ!
だから、今年の収穫が終わるまで待ってあげる!」
信長だけでなく家臣たちも、唖然とした顔で私を見ている。
一体何を言っているのか、理解が及ばないのだろう。
「収穫を終えても那古野城に来ない家臣は、反抗の意思ありと判断するわ!」
思いつきで勢い任せではあるが、それが脳筋ゴリ押しの私である。
もはや止まらないし、止める気もなかった。
「そういう輩は、問答無用でぶっ飛ばしてやるわ!」
この言葉で、家臣たちの顔色が一斉に青くなった。
「稲荷大明神様の化身に逆らう愚かさを、身を持って理解しなさい!
そしてその後は、織田美穂に忠誠を誓うのよ!」
相変わらず場当たり的だが、勢いのままに言い切った。
立ち上がった私は胸を張って歩き、末森城の大広間から退室していく。
だがその前に一度だけ振り返り、大声を出した。
「反旗を翻しても、罪には問わないわ!
だから全力でかかって来なさい!」
全てを言い終わった私は、唖然とする家臣たちに背を向けて廊下に出る。
慌てて後を追ってきた弟と林さんだが、大勢の前で啖呵を切った以上、もはや誰にも止められない。
織田家が一枚岩でなければ、天下統一どころか戦乱の世で生き残るのさえ難しい。
何しろ経済や技術力は日本一でも、尾張は小国だ。
なのでまずは私こそが織田家の当主であると、尾張中の者に認めさせなければいけない。
それに不満を溜め込むと、いつ爆発するかわからない。
そんな部下を配下に加えるのは、あまりよろしくない
罪には問わないと公言したことで、誰を立てるかは知らないが、反旗を翻す輩は確実に出てくるだろう。
私は自身が優れた当主ではないので、むしろ多くの者が反乱に加担するのは明白である。
だが、父が託した思いを無駄にする気はない。
この機会に、必ず織田家の当主と認めさせてやると、心の中でこっそり気合を入れるのだった。




