征夷大将軍の条件
失礼致しますと一言断りを入れ、襖を開けて入室した銀子が、私に静かに近づてくる。
そして目の前で恭しく一礼し、懐から書状を取り出して手渡した。
「織田家の花押もあるし、間違いないわね」
私もそこまで詳しいわけではないが、我が家の花押ぐらいは知っている。
なので間違いなしと判断して、銀子に声をかける。
「ありがとう。銀子、下がって良いわよ」
私がそう言うと、彼女は無言で頭を下げて、室外へと出ていった。
襖を閉めた後に、気配が薄れて天井裏に移動した。
なのできっと、警護の任務に戻ったのだろう。
それはともかくとして、私は渡された書状を開いて内容を確認する。
「……ふむ」
「織田信秀殿は何と?」
三好氏が尋ねてきたので、簡単に説明していった。
「軍事協力は難しいけど、同盟締結は問題ないらしいわ」
「さようか」
三好氏が良い笑顔で顎髭を弄っているので、まさにご満悦である。
現時点で日の本一の大勢力である三好長慶の頼みを断るのは難しい。
なので私も、予想はしていた。
軍事は距離が遠すぎるので難しいが、名目上の協力関係なら問題はない。
それ以外にも遠回しに私への愚痴が長々と書かれていたが、それをこの場で発言する意味はないので黙っていた。
「私も足利将軍家を立て直してくれるなら、異論はないわ」
目標に向かっていれば、同盟を結ぶのに異論はなかった。
「それが美穂殿の目指す天下統一か?」
「……そうかも知れないわ」
三好氏の質問に少しだけ間を空けて、そう答えた。
足利将軍家を立て直して、再び日本全国の大名に号令をかけるのが理想だが、それが可能かどうかは、まだわからなかった。
「乱世を終わらせる役目は、三好長慶様に任せるわ」
今代の征夷大将軍の権威は、従来よりも大きく低下しているのは事実だ。
ならば立て直すよりも、朝廷にご助力を願って新たに樹立する方が手っ取り早いと思い始めた。
「俺で良いのか?」
「貴方は日の本一の大名よ。
だからきっと、新しい征夷大将軍様にもなれるはずよ」
根拠は何もないが、権力でゴリ押せば多分いける。
そして本来ならば足利氏の前で言うことではないが、互いの関係は気安いうえに密談なので問題はない。その際に織田家が立役者となれば、稲荷神様の望みを遠回しに達成したことになる。
しかし三好氏はあまり気乗りしないようで、低く唸りながら顎髭を弄っていた。
「俺は上に立つ気はないのだがな」
それを聞いた私は、どうやら三好長慶は能力はあっても安定志向だと考えた。
もしくは自分と周りさえ良ければ、それでヨシとするのか。
何にせよ彼にやる気がないなら、勧めても上手くいかないなと気持ちを切り替えた。
「だったら、今川義元様に任せようかしら?」
今川義元と交渉したとき、冗談でも天下統一をしたいと言っていたのを覚えていた。
なのでこういう場合は、やる気がある者に任せるのが良い。
そう考えた私だったが、三好氏と足利氏が何やら顔を見合わせて不敵な笑みを浮かべる。
「新たな将軍様なら、もっと相応しい者を知っておるぞ」
「ほほう、奇遇ですな。実は我も心当たりが」
そして今川氏より征夷大将軍に相応しい人物について、私は皆目見当がつかなかった。
元々、戦国時代の大名に詳しくないのもある。
「ううん、想像がつかないわね。誰かしら?」
するとこっちが思案している間に、三好氏は不敵な笑みを浮かべて口を開いた。
「新たな大樹にもっとも相応しい人物! それは織田美穂殿だ!」
「私? いやいや! あり得ないでしょ!」
私は手と首を振って否定するが、二人は肯定とばかりに頷いている。
それどころか、いつの間にか真面目な表情になっていた。
「ならば美穂殿は、征夷大将軍がどのようにして選ばれるか知っておるのか?」
予想もしていなかった質問に、私は戸惑う。
「えっ? ええと、……知らないわ」
「まあ、そうであろうな」
この返答は三好氏も予想していたらしい。
そして彼は息を吸って呼吸を落ち着けた後に、説明に入った。
「源氏や藤原氏、皇族の血筋が条件の一つだ」
なるほどと頷いた私は、すぐにあることに気づいた。
「他にもあるのかしら?」
条件の一つということは、他にもあるのだろうかと尋ねる。
「次に、高い身分だ」
確かに農民がなれるとは思えないので、これも納得だ。
「武家の棟梁はもちろん、従一位も必要になるだろうな」
「ふむふむ」
武家の棟梁はともかく、従一位については良くわからなかったが、父が朝廷にもらった地位より上なのだろうと想像する。
「現時点では、この二つが必須条件だ」
そこで三好氏が一息ついたので、私は何となく手を上げて再び尋ねる。
「でも私は、二つとも満たしてないわよ?」
私こそが征夷大将軍に相応しい。そう発言したはずなのに、矛盾していた。
しかし三好氏は、すぐに首を振って否定した。
「美穂殿は例外だ」
「どういうことかしら?」
たった今、必須条件と言ったばかりなのに例外扱いで、ますます混乱してくる。
しかし首を傾げながらも、黙って続きを待った。
「稲荷大明神様から、御加護を授かっておるだろう?」
三好氏の言ったことは正しいので、私は素直に頷いた。
「それが例外の原因だ」
「えー……ええと」
少し考えてみたが、やはりピンとこない。
「征夷大将軍様は、朝廷が任命するものだ」
そーなのかーと小さく頷きながら、三好氏の説明に耳を傾ける。
「そして皇家の血筋を遡れば、天照大御神様に辿り着く」
まさに、神の血筋というやつだ。皇族がとにかく凄いことがわかる。
「ちなみに従一位とは、神階の位を表している」
そこで位を出す意味がわからないので、つい首を傾げると、すぐに説明してくれた。
「稲荷大明神様は朝廷とは比較にならぬ程、上位である。
ならば化身である美穂殿は、如何程のものか」
稲荷神様に直接指名依頼された私は、天照大御神の子孫の朝廷よりも上だと知らされる。
説明されてみれば納得なので、私は小さく頷いた。
「でもまあ、実感が沸かないにも程があるわ」
しかし、根っこが元女子高生で小市民だ。
どんなに凄い力と身分を持っても、やはり自ら上に立つ気にはなれなかった。
だがそこで足利氏が、横から口を出してきた。
「稲荷大明神様の化身がおられるゆえ、我も退位したほうが良いのであろうな」
「ちょっと! 勝手に辞めないでよ!」
三好氏が勝手に口走るだけならまだ良いが、足利義輝も、何をとち狂ったのか辞めようとしている。
だが、さらに追撃が続く。
「美穂殿が大樹になるなら協力するぞ」
何だか変な流れになったものだと感じた私は、しかめっ面になる。
「どうせ条件付きでしょう」
そして三好氏を、ジト目で見つめる。
「うむ、幕臣として取り立てて欲しい」
「それなら問題無いわ。でも私は、大樹になんてなりたくないわね」
本当に心底やりたくなかった。
戦乱の世を終わらせるだけならまだしも、その後に日の本の国を引っ張っていくのだ。
情勢が落ち着いたら弟に代替わりするとはいえ、脳筋には荷が重いなんてものではない。
それでも足利氏は諦めていないようで、笑顔で口を開いた。
「我も世が乱れたままなのは、許容できぬ。
争いがなくなるならば、足利将軍家の歴史を終わらせる覚悟はあるぞ」
自信満々という表情で宣言したので、私は慌てて止める。
「いやいや! 覚悟完了しすぎでしょう!」
何だか、どんどん外堀が埋められている気がする。
だが足利義輝は、全然止まる気配はなかった。
「自らが泥を被る覚悟もない統治者は、潔く退位すべきだ。
美穂殿から教わったからな」
私がブチ切れて啖呵を切った時に、確かにそんなことを口走った気がする。
もはや撤回は不可能で、これ以上は何を言ってもやぶ蛇になりそうだと悟った私は、慌てて席を立った。
「今の所は、足利将軍家を終わらせる気はないわ!
でも、存続できるとも限らないから、一応心構えだけはしておいてちょうだい!」
どう取り繕ったところで、私は嘘がつけない。
足利将軍家の幕を下ろしたくはないが、適当な誰かに引き継げるように、覚悟だけはしておくようにと告げる。
「我も滞りなく終われるよう、準備を進めておこう」
「あっ、もう、退位する気なのね」
こっちがわざわざ言うまでもなく、先程と同じように本人は退位する気満々だったらしい。
「足利将軍家は、とっくに死に体だ。
無理やり立て直そうと足掻いたところで、乱世を長引かせるだけよ」
足利将軍家の暴走で、京の都を焼け野原にして戦国乱世が始まったが、権威は地に落ちても統治機構はまだ生きている。
完全に終わらせるには、自ら幕引きをしなければいけないだろう。
しかし今の所は、それを彼にやらせるつもりはない。
私には詳しいことはわからないが、まだ立て直せないと決まったわけではないのだ。
「はぁ、何だか気が滅入ってきたわ。
悪いけど、私は尾張に帰らせてもらうわ」
殺人事件が起きたので、安全な自室に帰らせてもらう的な台詞を、溜息を吐きながら口に出す。
そして私は、彼らに背を向けた。
こうでもしないと、本当に征夷大将軍として担がれてしまいそうだ。
「会えなくなるのは寂しいが、尾張に帰っても息災でな」
「うむ、俺を臣下として取り立てることを願っておるぞ」
別れの挨拶がそれで良いのかとツッコミを入れたいのを我慢しつつ、捨て台詞を吐く。
「絶対そんなことにはならないわよ。……多分」
溜息を吐きながら襖を開け、最後に一言告げてから廊下に出る。
「どうでも良いけどもし天下統一が成ったら、織田家の助力のおかげだってちゃんと言いなさいよ」
織田家による天下統一を思いっきり拡大解釈すれば、ギリギリ言い張れなくもない。
それはともかくとして、三好長慶と織田家の同盟は成った。
細かい取り決めは後々、私より頭の良い外交官に任せれば良い。
今は取りあえず、私が征夷大将軍になるというあり得なさ過ぎる妄想を、首を振って振り払う。
早いところ尾張に帰って、平穏な日常に戻りたいと、強くそう思ったのだった。




