朝廷
天文十九年の冬、足利義輝と三好長慶は和睦を結び、京の都に戻ることになった。
その際に、細川晴元と彼の派閥の者は、織田家が残らず引き取った。内政ができる事務職が欲しかったので、ちょうど良かった。
彼らが隠居老人だと主張しても、働かせないとは一言も口にしていないのだ。
そして手勢百名と一緒に、三好長慶が手配した商船団で、一足先に秘密裏に尾張に帰還することになった。
なお、私はまだやることが残っているので、京の都に残った。
三好氏に商船団は本当に大丈夫なのかと何度も尋ねて、もし罠だったらぶっ飛ばすと脅しておいた。
海賊や他勢力から襲撃を受けないかが心配だが、信用の置ける商人に頼み、さらに銭を握らせているので大丈夫だと、太鼓判を押した。
他には織田家と同盟を結びたいと申し出てきたので、だったらこのタイミングで裏切りはないかと、一応は信じてみることにしたのだった。
それはともかく当初の予定では、征夷大将軍の次は朝廷への拝謁である。
だが、献上品は細川氏を説得するために使ってしまい、今は少ししか残ってない。
結果、道中で襲ってきた者から巻き上げた物資を銭に変えて、手土産にすることになった。
しかし京の都に居る朝廷や公家には、それでもとても喜ばれたのだった。
少しだけ時は流れて、天文二十年の春になった。今日はいよいよ、朝廷に拝謁できる。
私は京都御所に上がり、すだれで顔を隠したやんごとなきお方を前にして、木の床に座って丸暗記した挨拶を行い、恭しく頭を下げた。
それを終えると姿勢を正したままで沈黙して、お言葉を賜るのを待つ。
「此度の和睦は、織田美穂殿が成したと聞いたが?」
どう答えたものかと少しだけ考えたが、嘘はつけない。
なのでまずは、直接声をかける許可を取ってから、真実を報告する。
「確かに双方の間に入りましたが、全てを私が成したわけではございません」
相手は古来より、日本の頂点に君臨するお方だ。無礼な口は聞けない。
緊張で内心で冷や汗をかきつつ、ボロが出ないように猫を被る。
「しかし、足利義輝殿と三好長慶殿は、織田美穂殿のおかげだと申しておったぞ?」
何言ってるんだあの二人はと思ったが、口を開かずに沈黙を維持する。
勢いのままに喋ったら素が出てしまいそうなので、ここは何も語らないほうが良さそうだと判断したのだ。
お互いに口を開かないまま、少しだけ時間が過ぎた。
「……美穂殿が謙虚でありたいのなら、それで構わぬ」
「ご配慮いただき、恐悦至極でございます」
何だか頭を下げてばかりだが、あまり波風を立てたくない。
なので、朝廷に感謝の意を伝える。
そして今回は顔合わせなので、そろそろ退室する頃合いかなと考えていたが、彼は思いも寄らないことを口にした。
「話は変わるが、美穂殿はあることを成そうとしておると聞いた」
いきなり何のこっちゃと、首を傾げて考えた。
しかし、特にこれといったことは思い浮かばない。
「あることですか?」
検討もつかないので尋ねると、すだれの向こうのやんごとなきお方が小さく笑いながら、続きを話してくれた。
「天下統一を成し、長き戦乱の世に終止符を打つと聞いておる」
三好氏と足利氏の前で豪語したので、京の都に広まるのは当然と言っていい。
だが朝廷の口から聞かされると、とても対応に困る。
やっちまった感しかない私は、蛇に睨まれた蛙のように体を強張らせる。
これは激しく叱責される流れかなと、内心で冷や汗をかいていた。
「それで、天下統一は成せそうか?」
「いっ、いえ……それは、まだ」
喉の奥から絞り出すように、そう答えるのが精一杯だった。
征夷大将軍や朝廷が天下統一で重要な役割を果たす以上、彼らを利用すると言って回っているようなものだ。
さらに当人の口から直接聞かされるのだから、私としては全く気が休まらない。
「ふむ、そうか。美穂殿の今後の働きに期待しておるぞ」
「ははーっ! 誠心誠意努力致します!」
もはや朝廷が本当に期待しているのか、それとも社交辞令で余計なことするんじゃねえぞ脅しているかも、判断がつかない。
だがとにかく、これでようやく退室できると、内心でホッと息を吐く。
「他には、もう一つ気になっておるのだが」
まだあるのかと私は内心でうんざりした。
私は何でもいいから早く帰らせてと、心の中で泣き言を漏らす。
「稲荷大明神様から、御加護を授かっておると聞いたが?」
「事実でございます」
これに関しては、天下統一と比べれば大したことはない。
別に後ろめたい気持ちもなかったので、すぐに堂々と答えた。
「証明はできるか?」
どうしたものかと考えた私は、たった今思いついたことを実行に移すべく口を開く。
「少しだけ、動いてもよろしいでしょうか?」
「構わぬ」
私はやんごとなきお方に頭を下げて、その場から立ち上がる。
「よっ……と」
まずは天井に手がつくほど、高く飛んで見せた。
「「「おおっ!!!」」」
さらには降下時に体を捻ることで逆立ちしたまま、よろけることなく着地する。
「……ほっ」
地面に触れている指の数を、一本ずつ減らしていく。
最後は右手の人差指だけで支えて、器用にバランスを取った。
「……如何でしょうか?」
「「「おおーっ!!!」」」
朝廷だけでなく、周りで見ている公家たちも驚いているのがわかる。
自分の見た目は華奢で、全く鍛えているように見えない。
しかし稲荷神様の御加護のおかげで、実際には強靭な体になっている。
それを一連の動きで、この上なく理解できたはずだ。
拝謁のために特別に用意した着物が乱れるので少し恥ずかしいが、どうやら納得してくれたようだ。
なので私は、指一本だけでもう一度空中に飛び上がった。
そのまま体を捻って、今度は両足で華麗に着地した。
「これが、稲荷大明神様の御加護でございます」
乱れた着物を直しながら口を開く。
「うむ、確かに見せてもらった!
稲荷大明神様の化身に相違なかったぞ!」
朝廷の声が、興奮のあまり上ずっているのがわかった。
喜んでくれたなら、何よりである。
「もう一つ尋ねたいのだが、稲荷大明神様の御加護は次代にも受け継がれるのか?」
朝廷の質問に、私は口元に手を当てて考える。
試したことはないが、子孫に受け継がれる可能性は無きにしもあらずだ。
しかし、政治や権威の道具に使われるのは、根っこが元女子高生の私としてはマジ勘弁である。
「天下統一を成し遂げるために、稲荷大明神様が授けた御加護です。
次代への継承は不可能でございます」
なので、そうはっきりと否定した。
稲荷神様が御加護を与えた目的は、織田家に天下統一させることだ。
しかし、次代が協力してくれるとは限らない。
(私なら大丈夫とは言わないけど。不確定要素は避けるに越したことないわ)
元女子高生の人格が固定化されているため、力を振るうことを恐れて溺れたりはしない。
だが、身に余る能力を持たされた人間は、大抵ろくな結末にならない。
結論が出たので、私は朝廷に笑いかけながら、遠回しな答えを口にする。
「もし天下統一を成さずに嫁入りしたら、稲荷大明神様に怒られてしまうかも知れませんね」
実際に怒られるかはわからない。
もしかしたら狐の嫁入りのように、喜んでくれるかも知れない。
しかし稲荷神様が授けてくれた御加護が、天下統一とは関係ないところで使われるのは、彼女はきっと良しとしないだろう。
「……心得ておこう」
すだれの向こうで同意してくれたので、取りあえずこの件についてはお終いだ。
「では、失礼致します」
やんごとなきお方に、深々と一礼する。
「うむ、下がってよろしい」
朝廷から退室許可が出たので、私は大広間から静かに立ち去った。
そして廊下に出て一息つくと、気疲れして固くなった体をほぐしながら歩く。
尾張に帰る前に、世話になった足利義輝と三好長慶に挨拶ぐらいはしておくべきだろうか。
それとも面倒なので、気にせず立ち去るべきか。
そんなことを考えながら、うーんと真っ直ぐに伸びをする。
何にせよ今は、ようやく肩の荷が下りた喜びを、存分に噛みしめるのだった。




