豊川稲荷
少し時は流れて、天文十七年の六月になった。
何度か手紙のやり取りをして、尾張から人材や物資が到着した。
なので私は書類仕事を一時中断して、現場に出向くことになった。
松平氏からも許可をもらっているので、妨害されればその時点で敵認定だ。
そうなればもう、一切の容赦をするつもりはない。
なお、どのような仕事かと言うと、各地の町村にあらかじめ先触れを出して、各地の主要な人物を一箇所に集めての説明会である。
その際に、稲荷大明神様の化身の噂を三河にもわざわざ広めたので、それを使わせてもらうのだ。
そして縁起を担いで、岡崎からは少し離れるが豊川稲荷を集合場所に指定した。
女子高生をやっていた頃には実家と同じ県だったので、日本三大稲荷大社であることは知っている。
さらに今の時代は寺院と神社の区別が曖昧だ。そこを逆手に取って、妙厳寺の参拝者を増やす絶好の機会だと主張した。
おかげで、豊川稲荷と呼称しても良いと許可をもらえた。
だがあくまでも別名であり、正式名称は妙厳寺だ。
今は私の活動に見て見ぬ振りをしてくれるだけでも、とにかく良しであった。
いよいよ計画の当日になった。
まだ朝が早いのに、妙厳寺には多くの民衆が集まっているのがわかる。
誰もがこの先の三河や、自分たちの生活への不安を感じているのが伝わってくるので、私も少々緊張してしまう。
それでも、今さら怖気づいて取り止めるつもりはない。
なので自分の頬を手の平で軽くポンと叩いて、こっそり気合を入れる。
「竹千代君。打ち合わせ通りにね」
「わかっています。今の私は、松平家の当主なのですから」
私と竹千代やお供の者だけでなく、尾張からやって来た指導員や松平氏が付けた護衛や各関係者も居る。
いよいよ頃合いと見た私たちは、一斉にお堂の外に出ていく。
そしてこの日のために作らせた舞台の上に向かい、真っ直ぐ歩いて行った。
その中でも私と竹千代が一番前に進み、他は後ろで待機である。
集まった者たちを一望できる場所に立ち、軽く咳払いをする。
マイクはないので肉声で頑張るしかないが、自分は御加護があるので何とかなるだろう。竹千代も何度も練習したので、きっと大丈夫だ。
少しだけ間を開けて、最初は彼から緊張しながら声を張り上げた。
「皆さん。私が松平家当主、竹千代です」
挨拶をした後は、私が説明を引き継ぐ段取りになっている。
「そして私が、補佐役の織田美穂よ」
彼の役目はこれだけだが、まだ幼い竹千代にはこの先は荷が重い。
今は松平家の当主として顔を出すだけに留めて、少しだけ後ろに下がってもらう。
「ここからは代理として、私が説明するわ」
自分の言葉は、松平家の当主も同然だと民衆に告げる。
そして自分がこの場に集った者たちに説明を始めようとする。
だがしかし、何事も予定通りにはいかないようだ。
何故だか知らないが、私が口を開きかけたところで唐突な横槍が入った。
「皆の者! その者の甘言に惑わされてはならぬ!」
その声は、妙厳寺の境内にとても良く響いた。
きっと民衆が説明を聞き逃さないように、口を閉じていたからだろう。
そして私を含めた誰もが、声が聞こえた方角に顔を向ける。
すると境内ではなく正門付近で、数人の僧が顔を真っ赤にして怒鳴り散らしているのを見つけた。
さらに彼らは、急いでこちらに向かってきている。
「稲荷大明神様の名を語る不届き者が!」
「三河で行った乱暴狼藉の数々! 忘れたとは言わせぬぞ!」
「尾張の者が土足で踏み込むでないわ!」
ここは尾張ではなく敵地であると印象づけるような暴言の連続だ。
隙あらば圧倒的なアウェー感を叩きつけてくる三河の民に、私は内心で大きな溜息を吐く。
しかし、彼らの言うことも一理あった。
なので私は護衛に、手を出さないようにと指示を出した。
負けず嫌いなので言われっぱなしは悔しいし、斬り捨て御免で後々問題になったら不味い。
なので、真っ向から受けて立つことにした。
「確かに、三河の民には酷いことをしたわ!」
今はとにかく彼らに応じるために、堂々と声を出した。
「ほうっ! 過ちを認めるか!」
彼らは過ちを認めるのが意外だったのか、ふんと鼻を鳴らす。
「認めるわ! でも、それはお互い様よ!」
「何だと!?」
三河に攻め込んだのは事実だが、逆に尾張が侵攻を受けたこともある。
つまり、結局はお互い様だ。
やられたらやり返されるのが当たり前で、長年に渡る恨み辛みは両陣営が感じていることだ。
「嘘を申すな! 元はと言えば──」
それ以上は言わせないとばかりに、私は強引に割り込む。
「もし顔も見たこともない他国の親族や、百年以上前のご先祖様が罪を犯していたとするわ!
それでも貴方は責任を感じて、被害者に謝罪と賠償をするのかしら!」
侵略や殺人、乱取りを行ったのは確かに尾張の者だが、私は当事者ではない。
しかしここで僧たちが逆ギレして、三河は今泣いているんだ! などと逆ギレされたらどうしようもなかったが、自分が語った屁理屈を受けて、僧たちは顔を真っ赤にしながらも口を閉ざす。
多少は効果があったことに、表情には出さずに安堵する。
なので私は、続けて気になっていたことを尋ねてみた。
「ところで貴方たちは、何処の誰なのかしら?」
「我らは本宗寺から来た者だ!」
はっきりと答えてくれたが、これが嘘か真かは私にはわからない。
ついでに本宗寺と言われてもピンとこなかったので、それとなく竹千代に視線を向ける。
「岡崎にある寺院の一つです」
小声で教えてくれたので、ふむと小さく頷いて納得する。
今の時代の移動手段は徒歩が主で、街道だろうとあまり整備がされていない。
遠路はるばるご苦労なことである。
それはともかく、私は次の質問を行う。
「何で私たちを目の敵にするのかしら?」
すると彼らは、相変わらずの大声で返答する。
「甘言を口にして、民を惑わすからに決まっておろうが!」
確かに美味い話に裏があると言うが、こっちは別にそんなつもりはない。
「嘘は言ってないわよ」
嘘がつけないという噂は、三河にも広まっている。
それでも妨害するのは、きっと本宗寺にとって都合が悪いからだと、朧気ながら察した。
「つまり、貴方たちの儲けが減るから、手を出すなってことかしら?」
自分が何の気なしに口にした発言により、僧たちは明らかに戸惑っていた。
つまり、なかなか良い線をいっていたらしい。
ただし、神社や仏閣の全てが腐敗しているわけではない。
中には真面目に職務に励んでいる者も居るので、彼らがたまたまそうだったのだろう。
しばらく双方は喋らずに黙っていた。
すると先程から置いてけぼりにしていた、近くの町村から集めた民衆が、おずおずと手を上げて発言する。
「あのー、我々にはさっぱり理解できないのですが」
私はここで少しだけ考えて護衛に視線を向ける、そして僧たちを黙らせておくようにと命じた。
続けて、この場に居る者に説明を始める。
「貴方たちは来年の収穫期まで、美穂協同組合に加入してもらうことになるわ」
いきなり何を言い出すのかと混乱しているようだが、本宗寺と衝突する原因の一つになっているのは明らかだ。
そして三河にも尾張と同じ仕組みを取り入れるが、この手に限ると言うか、私はこれしか知らないので仕方なかった。
「座や市といった、従来のものとは違う組織よ。
そこでは特権階級や中間搾取は、殆ど行われないわ」
ないとは言わないのは、組織を維持するための運営費用を徴収する必要があるのだ。
ついでに美穂協では、最高責任者の命令は絶対である。
つまり私が頑張れば、組織内の不正や腐敗を減らしたり排除できる。
だがしかし、常々思うのだ。
この仕事を辞めたいと。
何しろあまりにも多忙極まるため、稲荷神様がいただいた健康な体がなければ、過労死待ったなしである。
それはともかくとして、内心で大きな溜息を吐きながらも、民衆への説明を続ける。
「民衆から利益を吸い取ることしか頭にない連中にとっては、美穂協同組合は邪魔なのよ」
この説明で理解できたかは不明だ。
しかし集まった者たちは、皆どこか納得したかのように小さく頷いていた。
従来の制度も役に立っている、ないと困るのも多々ある。
彼らを一概に悪とは言えないが、未来のためにも変えていくべきだと私は判断した。
なのでこれで良いのだと、さらに言葉を重ねようとする。
「少なくとも本宗寺の僧は──」
「そのようなことは断じてない!」
黙らせるようにと護衛に命令したが、僧の一人が拘束を振り払って大声を出した。
慌てて護衛の何人かが刀に手をかけたので、今から指示を出しても間に合わないと判断した私は、一足飛びで舞台から跳躍する。
僧たちと護衛の間に上空から飛来した私が間に割って入り、斬り捨て御免を強引に静止した。
「彼らの言い分も聞いてみましょう」
私の身体能力を初めて目にする民衆は、大いに驚いている。
なお、尾張からやって来た者たちはいつものことなので落ち着いており、言われた通りに刀から手を離すのだった。




